学習通信050527
◎「お国のために優秀な兵士になること」……。

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お魚

海の魚はかわいそう。

お米は人につくられる、
牛は牧場で飼われてる、
鯉もお池で麩を貰う。

けれども海のお魚は
なんにも世話にならないし
いたずら一つしないのに
こうして私に食べられる。
ほんとに魚はかわいそう。
(「金子みすゞ 童謡集」角川春樹事務所 p11)

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現代のことば
上山 大峻

みんなちがって、みんないい

小鳥と鈴と私

私が両手を広げても、
お空はちっともとべないが、
とべる小鳥は私のように
地べたを速くは走れない。

私が体をゆすっても、
きれいな音は出ないけど、
あの鳴る鈴は私のように
沢山の唄は知らないよ。

鈴と小鳥とそれから私、
みんな違ってみんないい。

 今では全国に知られる金子みすゞの童謡詩である。私が彼女の詩に関心をもつのは、一つには彼女が私と同郷(山口県長門市)の出身で、同じ高校の卒業生だからであるが、いま一つ、彼女が豊かな仏教信仰の環境のなかで育ち、それが詩情にあふれていることにある。

右にあげた詩も、『阿弥陀経』というお経に極楽浄土に咲く蓮花の様子を「青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白光」(青い花は青く輝き、黄い花は黄色く輝き……)と描写しているところから発想したものと思われる。花はそれぞれに違うけれども、それぞれが美しく輝き、いのちを咲かせている、それがお浄土の世界だと、彼女はお寺のお説教で聞かされていたのであろう。

 この詩は、現代の競争社会のなかで「がんばれ、がんばれ」と追い立てられても、がんばれない駄目な自分に悩んでいる多くの若者をなぐさめ、そして「そうだ、自分は自分でいいんだ」と勇気づけた。その点から私は、この詩を評価していたのだが、最近、この詩にはもう一つのメッセージがあることに気づいた。

 彼女は一九○三年の生まれである。この詩は彼女の晩年の一九二〇年代後半の作品かと推定されるが、そのころ日本はすでに軍国主義に突入していた。お国のために優秀な兵士になることが目標とされ、国民の画一化が進んでいたころである。そのころ、彼女はこの詩を詠んでいるのである。彼女が自死の前に弟にあずけていた遺稿が矢崎節夫氏によって探し出され、百八四年に全集になって世に出るのだが、もし、戦時中に公けになっていから、「みんなちがって、みんない」などという考え方は、おそらく軍部からきびしくとがめられていたであ尽う。

 戦争はなぜ起きるのか。いろいろの要因があろうが、自分の正しいとするところを相手に強要し、画一化を図ろうとする動機がその底辺にあるように思う。もちろん、自分の主張は正当であるという論理を、自分流に組み立ててである。戦争をなくすにはどうすればいいのか。その逆に、固定的な価値観を捨て、それぞれの違いを認めあうことである。「みんなちがって、みんないい」とお互いに認めあい、讃え合うことができれば、戦争にはならない。やさしいイメージの金子みすゞであるが、「みんなちがって、みんないい」のフレーズに込められた思想は深く、信念は強靭である。

 二〇〇三年に彼女の生誕百年を記念して建てられた記念館には、すでに三十五万人の来訪があったという。競争によって駄日なものを排除していこうとする競争原理にあえぐ今、「みんなちがっていて、いいのだ」と語ったみすゞに会うためである。(浄土真宗教学伝道研究センター所長)
(京都新聞夕刊 2005.05.25)

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◎「戦争をなくすにはどうすればいいのか。その逆に、固定的な価値観を捨て、それぞれの違いを認めあうことである。「みんなちがって、みんないい」とお互いに認めあい、讃え合うことができれば、戦争にはならない」と。