学習通信050529
◎「逃げさることなど思いもよらぬきびしい強制力」……
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脱出口がない世界
路上に散らばった漫画原稿を拾っていると、そこへ女性がとおりかかるというシーンは、『紙の砦』〔一九七四(昭和四九)年『少年キング』掲載〕の冒頭にもある。時は戦争末期の一九四四年、場所は阪急宝塚線中津駅前、拾うのを手伝ってくれたのは岡本京子という宝塚音楽学校の生徒であった。この作品でも手塚治虫の分身は大寒鉄郎と名づけられるが、「南野中学」の生徒ということになっている(ちなみに手塚少年は「北野中学」に通っていた)。
戦争とは、少年時代の手塚治虫である鉄郎少年にとってどのようなものであったか。学生とはいえ、毎日毎日軍事教練か、勤労動員であった。軍事教練というのは、軍人の指導のもと竹槍でワラ人形を突いたり、土のうを背負って走ったり、いわゆる鍛練を強制されるシゴキである。体力もなく要領も悪い鉄郎は、なにかにつけて教官に殴られ、ついに強制収容所みたいな特殊訓練所に入れられてしまう。自らの体験として手塚は、このときのことをエッセイの中に書いている。
ぼくのように体力のない弱い子たちは国民体育訓練所という一種のラーゲリ(強制収容所)に入れられた。つまり、お国のために役立つ少年にするということで、一年間みっちり体力をつけるために、ぶちこまれたというわけです。ここは周りが二重に鉄条網に囲まれていて、入ったらもう出られません。
ところが体力をつけるどころか、豆かすみたいな食べ物ばかりで、毎日朝から晩まで軍事訓練。とうとうぼくは耐えかねて、四ヵ月目に座ぶとん五枚で鉄条網をはさんで、くぐり抜け、家に逃げ帰ったのです。
夜中にどんどん戸をたたいてやっと家に入ったぼくの顔を見たおふくろは、まあ、ぞっとした、とあとで言いました。青い顔をして幽霊のようにやせこけて、半分死んだような状態なので、誰だろうとよく見たら、ウチの息子だった、というわけです。
その夜は、もう無我夢中で三食分くらいも食べさせてもらって、おふくろににぎりめしを作ってもらって、またこっそり訓練所に帰って、友達に食べさせたのです。そんな時代でした。
(『ガラスの地球を救え』光文社)
命がけで脱走しながら、腹一杯食べたあとは、また訓練所にもどらなければならない。逃げさることなど思いもよらぬきびしい強制力を、戦争はもっている。国賊、非国民として捕えられ、あるいはリンチを受けて殺される覚悟がない限り、脱出口がない世界。それが戦争である。
(斉藤次郎著「手塚治虫がねがったこと」岩波ジュニアー新書 p40-42)
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さようならセゾン劇場
紙吹雪の舞うステージに私は一人で立っていた。私が演じたマレーネ・ディートリッヒのコンサートが終った、という瞬間だった。それは「マレーネ」という芝居が終った時でもあった。ふだんの日なら、紙吹雪はない。でも今日は千秋楽。そして十二年間続いたセゾン劇場も今日で、おわかれ、という不思議な興奮に包まれている劇場だった。私は、マレーネ・ディートリッヒが、最後のコンサート、つまり、これで引退という、おわかれの時、彼女がいったセリフを知っていた。
だから、それを本当のおしまいにいおうと決めていた。私の歌ったディートリッヒのヒット曲「リリー・マルレーン」「花はどこへ行ったの」「フオーリング・イン・ラヴ・アゲイン(嘆きの天使≠ゥら)」の音が、まだ、かすかに空間に残っているような、そんな雰囲気だった。私はマイクに近づいた。そして、心をこめて、彼女の最後のセリフをいった。
「私の最後のコンサートも終りです。みなさん、私の涙が見えますか? 感謝の気持で、いっぱいです。さようなら。特に、戦争中の私の勇気にさようなら」
戦争中、ドイツ人でありながらアメリカ兵になり最前線のアメリカ兵の慰問をし、ヒットラーとナチに対して、徹底的に戦ったディートリッヒ。戦場で沢山の悲惨な光景を見た彼女にとって、そして、祖国ドイツの人たちから「裏切りもの!」と唾をはきかけられた彼女にとって、この言葉は心の底から出たものに違いなかった。私は、いい終って、ディートリッヒがしたのと同じように、深い最敬礼の、お辞儀をした。何か、涙が出るような思いだった。
私にも、色々なことが頭に浮かんだ。いろんなことが。特に、一番最初、この劇場に出たとき、「レティスとラベッジ」という芝居で共演した山岡久乃さんが、「病気が治ったら再演やりましょうね」と、決めていたのに、再起することなく、亡くなってしまったことが、悲しく頭をよぎった。私は頭をあげた。そのとき私は、これまで私の人生で一度も見たことのない光景を見た。それは、劇場中のお客さまが立ち上って拍手をして下さっている姿だった。スタンディング・オベイション。アメリカやイギリスでは、そう呼んでいる、俳優として、最も光栄な瞬間。
私は、この拍手はディートリッヒに捧げられたもの、そして、セゾン劇場を愛して下さったお客さまの、おやさしい心だと、うれしく受けとめた。裏方さんたちの心づくしの雪は、客席にも降った。一緒に出演した久世星佳さんと磯村千花子さんも、カーテンコールに加わった。たった三人の出演者だった。あとは演奏家の人たち。私たちは、おじぎをしたり、手を振ったりした。もうディートリッヒではなく、私になって、いかに素晴しい劇場だったか、などお礼の言葉をのべた。一応、十三回という、この劇場の最多出演者として、私の公演で最後にしようと決めて下さったセゾン劇場の関係者のみなさんにもお礼をいった。私を舞台女優として、十一年前、この劇場に呼んで下さった芸術総監督の高橋昌也さんにも感謝の言葉を捧げた。高橋さんは、「マレーネ」の演出家でもあった。
上等の喜劇をやろう、とした私を、セゾンのお客さまは受け入れて下さった。中でも、アメリカの西部で最初に自立した女性、カーラミティー・ジェーン。オペーラ歌手、マリア・カーフス。フーフンスの大女優、七十歳で右足を膝の上から切る手術をして、なお片足でも舞台に出つづけて、国葬にもなったサラ・ベルナール、物理学者キュリー夫人、そして、このハリウッドの黄金時代、大スターだったマレーネなど、実在の魅力的な女性を演じられた事も幸運だった。
次の日の新聞で知ったのだけれど、このお客さまの拍手は、三十分間も続いたということだった。
雪の降るステージに立っているとき、突然、雪の降ってた昔、泣きながら歩いていて、おまわりさんに叱られたことが頭をかすめた。
小学生の時だった。日曜日で、教会の日曜学校に行くために、私は一緒に行く男の子と歩いていた。その日の東京は雪とみぞれで、すごく寒かった。もう、その頃たべものは配給になっていて、ほんの少ししか食べるものがなかった。だから私たちは、いつもお腹が空いていた。栄養が、ちゃんといきわたっていないと、寒い。
私たち子どもの間での標語は「寒いし、眠いし、お腹が空いた」というのだった。私たちは、何かにつけて、これをいいあっていた。そんな姉で、私と男の子の手は、かじかんでいて、寒く、おまけに着るものも、ちゃんとしたものは、もう無かったから、余計、寒かった。あの頃、背はどんどん伸びるのに、着るものも売ってなかったから、私たちは、ひどい恰好をしていた。雪が溶けて、グチャグチャになり靴の中に冷たい水がしみ込んでいた。
顔には、みぞれと雪がふきつけていた。私は男の子と手をつないで歩きながら(なんとなく涙が出て来ちゃう)と思った。見ると男の子も、鼻をすすりあげていた。私はもっと悲しくなって、泣いた。涙が出ると、そんなに何もかも冷たいのに、涙は、なまぬるかった。私と男の子は、しまいには、ワアワア泣きながら歩いていた。洗足教会という洗足池の近くの教会に向って私たちは歩いていた。丁度、大井町線の踏切りを渡ったときだった。そこに交番がある。その入口に立っていたおまわりさんが、私と男の子を見ると、
「おい、こら! お前たちは、なんで泣いてるんだ!」
と、こわい声でいった。私はドキドキしたけど、勇気を出して、「寒いからです」といった。男の子は、ますます鼻をすすりあげた。すると、そのおまわりさんは、並んで立っている私たちにいった。
「戦地で戦っている兵隊さんのことを考えてみろ! 考えたら、寒いくらいで泣くなんて、出来ないだろう! 泣くな!」。私たちは泣くのを止めた。おまわりさんは続けていった。
「よし、行ってよし! 寒いくらいで、泣くな!」
私は、いわれなくても、戦地の兵隊さんのことを考えていた。自由が丘の駅で、毎日のように、日の丸の小旗を振って、出征する兵隊さんを見送っていた。学校では、知らない戦地の兵隊さんに手紙も書いていた。慰問袋という兵隊さんに送る物の中に、日本にいる子どもたちからの手紙を入れる事が、当時は命令みたいになっていた。私たちは、せっせと「戦地の兵隊さん、お元気ですか。私も元気です。戦争は大変ですか?」というような手紙を書いていた。
だけど、おまわりさんは、私たちが、兵隊さんのことを何も考えていないように、頭から怒鳴りつけた。そのとき私は、(戦争というのは、泣いてもいけないんだ)とわかった。だからその後、戦争中、どんなことが起っても泣かなかった。あの日、一緒に手をつないでいた男の子は、どうしただろう。かじかんだ二人の手の感触を、まだ、はっきりと憶えているのに、もう五十年以上も経ってしまった。あの子は、あの日のことを憶えているだろうか。
(黒柳徹子著「小さいときから考えてきたこと」新潮文庫 p50-55)
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◎「そのとき私は、(戦争というのは、泣いてもいけないんだ)とわかった」と。