学習通信050530
◎「これを憎む精神で」……

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 資本主義社会は、その一方の極での富の蓄積が、その対極では貧困の蓄積を生みだすような構造をもつ社会である。このような社会的環境におかれている労働者階級の状態、とくにその物質的・経済的状態をとらえようとする場合に、われわれが、資本主義社会の矛盾のもっとも鋭い表現として、労働者階級の貧困に目をむけるのは当然のことである。

 いうまでもなく、労働者階級は社会的生産の基本的なにない手である。そして、いまや日本でも、社会の総人口あるいは労働力人口の中で支配的な部分をしめつつある階級である。したがって、労働者階級の間に、さまざまな形態や程度で、貧困、生活苦と労働苦、不健康と短命、現代の社会生活にふさわしくない教育や文化の水準、等々がみとめられるとすれば、それは、社会そのものがおちいっている病的な状態をあらわすものにほかならない。

 もしこれらのことをあきらかにすることができれば、それを、現代の科学技術が生みだした物質的生産の豊かな可能性とてらしあわせてみただけでも、多くの人々に、現代の社会的不正義がどのような形で存在しているかをわからせることができ、社会改革への情熱的な関心をよびおこすにちがいない。そうすることによって、人間疎外の資本主義的なやり方に反対し、社会の民主主義的な進歩をめざすたたかいをたすけるにちがいない。

 だから、われわれは、労働者階級のまずしい物質的状態をやむをえないものと見ないで、これを憎む精神で、経済的把握をすすめる必要がある。このような精神が基本的に研究の前提として確立されているか、どうか、ということがたいせつである。

 しかしそれと同時に、われわれは、労働者階級の状態についての経済分析を、このような視点だけに、いってみれば、貧困化の諸現象の蒐集や一面的な強調だけにとどめるべきではない、ということについても、あわせて考えておかねばならない。

 現代の社会科学が近代労働者の新しい階級を発見したことの意義はどこにあるのだろうか。それはけっして、現代の科学的思考が、社会の中の抑圧された、「貧しき人々」にたいして、ヒューマニズム的に接近する道を見出した、ということにあるのではないだろう。
(堀江正則著「日本の労働者階級」岩波新書 p1-5)

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 経済的諸条件がまず最初に国民大衆を労働者に転化させたのである。資本の支配は、この大衆にとって、共通な一つの地位を、共通な諸利害関係をつくりだした。

だからこの大衆は、資本にたいしてはすでに一個の階級である。

しかし、まだ、大衆それ自体にとっての階級ではない。

さらに、われわれがその若干の局面だけを指摘した闘争において、この大衆は自己を相互に結合するようになる。

大衆自体にとっての階級に自己を構成するのである。大衆の防衛する利害が、階級的利害となる。

しかし、階統対階級の闘争は一つの政治闘争である。
(マルクス著「哲学の貧困」マルクス・エンゲルス8巻選集@ 大月書店 p258)

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◎「大衆自体にとっての階級に自己を構成するのである。大衆の防衛する利害が、階級的利害となる。しかし、階統対階級の闘争は一つの政治闘争である」と。

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