学習通信050531
◎「政商資本が、政府をささえる階級的基礎」……。

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政府が資本家≠育てた

不平士族の反乱があいついで

 征韓論の敗北によって、各地の不平士族は征韓派の中心人物たちの周囲に集まり、反政府勢力をかたちづくっていたが、明治七年(一八七四)まず江藤新平ら佐賀の士族が反乱をおこした。大久保はみずから現地におもむいて軍隊を指揮して反乱を鎖圧し、みずから裁判権を行使して江藤らを処刑した。実は、佐賀の乱は、まだ徴兵軍隊がそだっていない明治政府にとっては大きな危機であった。

この危機にのぞんで、鹿児島の士族が反乱に参加しないよう、西郷隆盛の弟従道に鹿児島の士族を徴募させて台湾征討へと送り出したのであった。木戸は、大久保が征韓に反対しながら征台を決定したことを不満として政府を去った。佐賀の乱を鎮圧したのち、大久保は自信をもって自分の政策の実行に手をつけはじめた。そのひとつには、西郷のひきいる鹿児島の士族勢力の孤立化政策があった。

 明治八年(一八七五)、いわゆる大阪会議の結果、木戸と板垣の入閣、参議就任が実現された。板垣は民選議院設立建白の中心であり、立志制度と議会制度の実現を要求し、みずから愛国社を結成し、また高知の士族を中心とする立志社も結成され、板垣を中心とする自由民権運動の芽ばえのなかにいた。木戸もまた板垣ほどではなかったが立憲制度を主張していた。木戸は板垣の入閣を自分の入閣の条件とし、板垣は三権分立と立憲制度の公約を要求した。こうして、立法機関である元老院と司法機関である大審院が設置され、漸次立憲を公約する詔勅が出された。

 西郷一派は日本の西南隅に封じこめられ、政府は、士族の秩禄処分、したがって地租改正を実行に移すことができるようになった。板垣は江華島事変ののちに辞職したが、もはや政府は動揺しなかった。秩禄処分や廃刀令で特権を奪われた不平士族は、明治九年(一八七六)、熊本(神風連)、秋月、萩で反乱をおこしたが、たちまちに鎮圧された。その翌年、西郷隆盛らがいよいよ政治的に追いつめられて反乱にたちあがったとき(西南戦争)、すでに徴兵軍隊は確立しており、士族軍は徴兵軍隊の力に対抗できなかった。

日本が破産する

 大久保は、征韓論破裂ののち、内務省を新設して、警察力を中心とする地方行政と殖産興業の権限を内務省に集中し、みずから内務卿に就任して、国内政策に対する強大な権限を独占した。殖産興業政策の中心は工部省から内務省に移った。

 当時の日本経済の最大の悩みは、明治維新後、輸出入が逆転し、年々の輸入超過の増大であった。とくに、消耗品である綿糸、綿織物、毛織物および砂糖が四大輸入品で、この四品の輸入額は輸入総額のなかば以上をしめていた。綿製品の輸入は国内の棉作農業に打撃をあたえたし、また毛製品は軍需品でもあった。こうした慢性的な輸入超過のために、国内の金銀は海外に流出し、このままで行けば日本は破産するのではないかという心配が、明治七年(一八七四)ごろから政府首脳を悩ましはじめた。

輸入を減らすには不平等条約を改正し、関税自主権を回復し、輸入品に商い関税をかけて国内産業を保護するのがもっともてっとり早い。そこで、政府は外務卿寺島宗則に命じて、明治九年、関税自主権の回復を目的とする条約改正交渉を行わせたが、日本の輪人貿易の大部分をしめているイギリスにあえなく拒否されてしまった。

三菱財閥の出発

 そこで、大久保内務卿は、ひとつは、かつてのイギリスの航海法にならって、日本の沿岸航路の海運を日本の企業で独占し、商品の動きを間接的に統制すること、もうひとつは政府の保護のもとに綿工業や毛織物工業をおこし、輸入を防圧しようという政策をたてた。そして、今まで工部省が力をいれてきた事業のうち、軍事的に重要な電信の建設は急ぐが、金のかかる鉄道建設は中止して能率的な海運保護に重点を移し、官営の鉱山に力をそそいで貨幣の原料である金銀や輸出用の銅や石炭の確保に努力する方針をとった。

 大久保は、海運事業の担い手に、岩崎弥太郎の経営する三菱をえらんだ。回漕会社の後身である半官半民の郵便蒸気船会社ではなく、旧土佐藤の出身で旧土佐藩の船を中心に民間会社をつくった三菱が政府の保護をうけるようになったきっかけは、大久保の政治的生命をかけた征台役の輸送をー手にひきうけたことによる。このとき、政府は外国汽船一三隻を買人れて無償で三菱に委託した。

つづいて政府は、横浜──上海航路をアメリカの太平洋郵便汽船会社(パシフィック・メール社)から奪取するように三菱に命じ、さきの受託政府船一三隻を無償で三菱に払下げ、さらに郵便蒸気船会社の所有船二四隻を政府で買上げて無償で三菱に払下げ、年順二五万円の補助金を三菱にあたえ、さらにそれとは別に、太平洋郵便汽船会社の上海航路と就航船を買取る費用八一万ドルを三菱に賃した。

 こうして、三菱は、まったく政府から汽船と金をもらって、日本の沿岸航路を独占する海運独占企業におどりでた。その後、三菱は、三菱の船で運ぶ荷物は三菱の倉庫を利用させ(のちの三菱倉庫)、三菱の倉庫にあずけた荷物に対しては荷物を抵当として金融を行い(のちの三菱銀行)、三菱の倉庫や船の荷物の火災・海難に対しては三菱の保険をかけさせ(のちの東京火災河上保険)、ひとつの荷物から、運賃、倉庫料、金利、保険料と四重にもうけると非難されながら、巨大資本に成長していった。このとき、大久保の命をうけて三菱保護にあたったのが大隈大蔵卿であったため、政治家大隈とその政治資金源三菱との関係が成立した。

三井財閥も第一歩

 三菱とならんで政府の保護のもとに大資本に成長したのが三井であった。国立銀行制度がうまく行かず、従来、三井とともに政府御用をつとめていた小野組や島田組が政府の預り金を流用して米や油の投機を行なって失敗し、明治七年(一八七四)に倒産したあと、政府は残った「三井の保護安全を謀(はか)る固(もと)より方今の急着」という方針を決定し、三井の保護政策をはかった。

 すなわち、三井は明治九年(一八七六)に私立三井銀行を創設すると、大蔵省は三井銀行を官金取扱銀行にした。明治一三年(一八八○)の三井銀行預金総額のうち政府の預金額は四〇%以上にたっしていた。また、在野中に井上馨が創設した商社を、井上の政府復帰にあたって三井がゆずりうけて三井物産とし、地租改正によって現金で納税しなければならない農民が収穫直後の米価の安いときに売りいそぐ米を全国各地で買集め、その代金を地租として三井銀行に納入させるというやり方で、三井は事実上の徴税機関として活動した。当初は、物産が代金を支払うのではなく、銀行発行の為替手形で支払い、これを銀行の窓口で現金化するときに納税するという方法であり、それも村ごとに一括契約であったが、このやり方は普及せず、買米に切りかえた。

 明治九年末、三重県を中心とする大規模な地租改正反対の農民一揆(伊勢暴動)がおこったとき、農民たちは戸長役場(村役場)や学校などの政府の施設を襲撃したが、松阪の三井銀行を焼払って重役に今後徴税を取扱わないという一札を書かせ、四日市の三菱会社も焼払われた。農民にとって、三井や三菱は政府と一体の存在であり、政府の出先として直接に農民を搾取する機関として認識されたのである。

政府を支えた政商資本たち

 このような資本を、ふつう政商資本とよんでいる。そして、当時、政府がさまざまの保護や援助をあたえることによって民間資本を育成し、大資本に成長させていったことから、この時期の政策を政商保護政策とよぶ。

 政商保護政策で育成された政商資本には、土佐藩出身の三菱、長州藤出身で山県有朋との関係が強い藤田伝三郎、薩摩藩出身で新政府の高官から経済界にすすんだ五代友厚、一橋家の家臣で新政府の高官をへた渋沢栄一などの、明治政府との人的関係がとくに強いもの、三井や住友など旧幕以来の特権商人で時代の変化をたくみに泳ぎぬいて新政府に密着することに成功したもの、大倉喜八郎や安国善次郎のように維新の動乱に乗じて投機で巨利を博して新政府の御用商人となったものなどがある。

これらは、いずれも東京や大阪を本拠とする全国的な規模の大政商資本であるが、各地に、やはり地方規模の政商資本が生まれた。そして、政府によって生みだされた政商資本が、政府をささえる階級的基礎をかたちづくったのである。

地方の政商たちはどうなったか

 政府が、これら大政商資本だけでなく、地方政商資本の育成をもはかろうとしたことは、いわゆる一〇基紡の創設にしめされる。一〇基紡創設は、輸入防圧を目的として、国内に洋式の紡績工場創設を奨励保護しようという政策にもとづくものであった。模範工場として愛知、広島の一一紡績工場を建設するほか、二〇〇〇錘規模の紡績機械一〇基を政府が輸入して民間に年賦払で払下げようとした。一〇基紡は九工場(うち一工場が二基)、そのほかに政府が立替払いで輸入した紡績機械を据えつけたものが三工場、計一二工場が創設された。これまで、幕末に薩摩藩の手で鹿児島、堺の二紡績所、幕府の保護下に鹿島紡績所が設立されていた。また、一〇基紡と前後して兵庫県営、旧岡山藩、大阪の五大綿商の一人渋谷出三郎の手による紡績所が創設された。

 ところで、一〇基紡および立替払紡とよばれる一二工場の創設者たちは、いずれも在来の綿業とはほとんど関係がなく、あるいは郡長などの地方の役職者であり、あるいは地方の旧特権商人であり資産家である。そこには在来綿業の担い手を近代紡績業の担い手に成長させるという方向はみられない。ここに、在来綿業の発展とは別の場に洋式機械による産業を移植し、育成していこうとした政府の意図がしめされている。それは、全国レベルでの三井、三菱保護政策とおなじ性格の政策であった。

こうしたやり方は、政府の政策だけがただひとつのささえとなっているため、政策が転換すれば移植された工場そのものが成りたたなくなる。事実、のちにそうなってしまい、一二工場のうち、のちに資本主義的大企業として生き残ることができたのは、渋沢栄一の支援をうけた三重紡績(のちの東洋紡績)だけであった。

 他方、輸入綿糸に対抗するための在来線業の技術改良は、臥雲辰致の発明したガラ紡器が明治一〇年(一八七七)の内国勧業博覧会で公開されてから普及しはじめ、さらに同一二年(一八七九)にガラ紡が水車原動力式に改良されてから生産力も飛躍的に増大した。こうして、在来線業は、在来の技術の発展を基礎に輸入技術の機械紡績に対抗し、推計によれば、明治ニー年(一八八八)の国内綿糸生産は、機械紡績一七七万貫、ガラ紡および手紡糸二三二万貫と考えられている。この年は綿糸の輸入が最高にたっした年で、輸入量は七五九〇万貫になったので、国産綿糸そのものがたいした量ではなかったが……。

 毛織物についても、政府の手で千佳製絨所が建設され、当初の約束では政商大倉喜八郎に払下げられるはずであったが、その軍需工業としての性格が強いために、官営のままでおかれ、陸軍に移管された。
(大江志乃夫著「入門 日本資本主義(上)」大和出版 p92-99)

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 ブルジョアジーについては、われわれは二つの局面を区別しなければならない。

すなわち、ブルジョアジーが封建制度と絶対君主制の支配体制とのもとで自己を階級として構成した局面と、すでに階級として構成されたブルジョアジーが、社会をブルジョア社会にするために封建制と君主制とを転覆した局面とが、それである。

これらの局面のうち、前者のほうが長期にわたっており、そしてより大きな努力を必要としていた。この局面もまた封建領主たちにたいするいくつかの部分的団結をもって始まったのである。

 都市自治体から階級として自己を構成するにいたるまでのあいだにブルジョアジーが遍歴したさまざまな歴史的局面を跡づけるために、いままで多くの調査研究がなされた。
(マルクス著「哲学の貧困」マルクス・エンゲルス八巻選集@ p259)

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◎「ブルジョアジーについては、われわれは二つの局面を区別しなければならない」と。