学習通信050602
◎考える暇もなくなっている……
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豆を煮る
煮豆は私の得意な料理の一つである。
黒豆、五目豆──皮の切れないように美しく、そして、あごに吸いつくようにねっとりと煮上げた豆はおいしい。
前の晩、水につけておいた豆を、休みの日、十時間もかかって、あるかないかのとろ火でゆっくりと煮る。台所で、セリフをおぼえながら──あるいは本を読みながら、私は豆を煮る。
なぜ、私はこんなことをしているのかしら? ふっと考える。ふっくり煮上げた豆はたしかにおいしいけれど、せっかくのたまの休みの大半をついやして取り組むほどの大事業ではないことはわかっている。デパートでもスーパーでも……つい近くの食料品屋でも、煮豆は売られている。少々堅くてまずい、としても、たかが「煮豆」ではないか。
どうやら私は、「煮上がった豆」を食べることよりも「煮上げる」ことを楽しんでいるようである。ゆっくり、ていねいに、やさしく豆を煮ることを……。消えそうで消えぬ火の具合、いつもちょうどよく豆にかぶっている煮汁の量に気を配りなから、鍋のそばにいるあいだ、私は楽しい。あんまりめまぐるしく、騒々しく、そしてせっかちな世の中に、うんざりしきった心のしこりが、鍋からあがるかすかな湯気といっしょに消えてゆく、といったら大げさかしら。
このあいだ、テレビで東京−大阪間を一時間で走るという、未来の列車の話をきいた。超々特急とでもいうのだろうか。磁気応用とかで、車体をレールから何センチか浮かせて走らせるそうな。科学者としてはまことに立派な研究である。けれど、たぶん、十年後には現実に東海道を走るだろうという最後の言葉には、なんとなく背すじが冷たくなるような気がした。
こんなに狭い日本の国の中を、なぜそんなに急いで走らなければならないのかしら。東京──大阪間の三時間を、大変な費用と労力をかけて一時間に切りつめて……残り二時間で人間はいったい、何をしなければならないというのだろうか。 そんな必要のある人は日本人のうちのほんのひとにぎりの人だろうに……。
私が毎口暮らしている芸能界というところも、ほんとにめまぐるしい。朝から夜中までおおぜいの人たちが、押しあい、へしあい、しゃべったり泣いたり笑ったりしている。あんまり忙しいから、ほんとうは何が大切なのか、何のために生きているのかわからなくなってしまう。有名になるために? お金が欲しいために? 有名になってお金がもうかったら、それで何をしたいのか。考える暇もなくなっている。どんなに右往左往しても人間は必ず死ぬし、第一「かけがえのない地球」の寿命はあと二十五年とか三十年とか言う人もいるのに……。
私はときどき、その人ごみから抜け出して、豆を煮る。仲間の義理も、つきあいも放り出して、ひとり台所で豆を煮るとき、やっと人間らしさを取り戻したような気がして、私はホッとする。
豆を煮るのは、私のストレス解消法の一つである。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」61-62)
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ムダの考察
あしひきの山鳥の尾の……
「あしひきの山鳥の尾のしだり尾の長々し夜をひとりかも寝む」という歌がある。百人一首では柿本人麿の歌とされているが、もとは万葉集に収められた作者不明の歌。それはともかく、「あしひきの」は「山」にかかる枕詞で、この場合特に意味はない。その「山鳥の尾のしだり尾の」というのも、さしあたり「長々し」をみちびきだすためのもので、「この長々しい夜をたった一人で寝るのか」というのが結局は一首の意味の中心だろう。そういう点からすれば「しだり尾の」にいたるそれこそ長々しい序詞は、結局ムダなことばということにもなりそうだ。
しかし、ほんとうにムダなのかといえば、そんなものではない。一人寝る秋の夜の物憂い長々しさの感じを、このゆるやかな序詞の進行はたくみにかもしだしているのだし、さらに山鳥の習性についての当時の通念がそこに裏うちされているのだという。
山鳥は夜ともなれば 一羽一羽
べつべつの峰に谷を隔てて眠るという
そのしだれ尾を闇のなかへ長く垂れて──
ああそのようにこのひややかな秋の夜の
長い長い時のまを 添うひともなく
わたしはひっそり寝なくてはならないのか
これが大岡信氏による現代詩訳。(『百人一首』講談社文庫)「ムダ」どころではない。あの「ムダ」な序詞なしには、この歌は一つの世界をかたちづくりえないのだ。
これは歌だけの話だろうか?
ジャコウネズミの哲学
人生にもさまざまの「ムダ」がある。雑事・雑用があり、余儀なくされるまわり道がある。もっと効率よく最短距離をつっ走れたらと思ってみるが、そう思うのは後になってのことで、間題にぶつかっている時には何が「最短距離」なのかわからないのだから仕方がない。かりにそれがわかったとしても、それをたどれる条件があるとは限らないし、そんな条件などない方がおおいときているのだからどうにもならない。
しかし、じつは、そこにこそ人生の味があるものらしく、いっさいムダしまいと考えることは、それこそムダなことであるらしい。山の頂点までケープルで、もっとも「ムダ」なく最短距離を直行しても、そんなのを「登山」とはいえないだろう。つづら折りの道を自分の脚でたどってこそ「登山」というのに値するのではないか。
トーベ・ヤンソンの「ムーミン」に、「哲学者」のジャコウネズミが出てくる。気むずかし屋の孤独好きで、いつも『すべてがムダであることについて』という本に読みふけっているか、思索にふけっているか、ぶつぶつ小言をいうかしている。アニメでは何かというと「むだじゃ、むだじゃ」とつぶやく印象的なキャラクターであった。
ところで『たのしいムーミンー家』の最後の章では、このジャコウネズミの愛読書の表題が〈すべてが役に立つことについて〉というぐあいに変わってしまうのだった。
生物界と宇宙におけるムダ
生物のなかにはムダとしか思えないような能力をそなえているものが少なくない。たとえば単球菌と呼ばれるバクテリアは、莫大な量のX線照射に耐える力をもっている。そんなX線は、少なくとも今日の地球の自然環境には存在しないのに。また、ショウジョウバエは波長二五三七オングストローム(一オングストロームは一億分のIセンチメートル)の紫外線を見ることができる。そんな波長の短い光線は、現在はもとより、おそらく過去の地球上のどんな時代にも、この昆虫の生活環境には存在しなかったはずなのに。バクテリアや昆虫はこの地球に起源をもつ生物ではなく、宇宙の彼方からやってきた侵入者ではないのか、という奇説を発表している人さえいるほどだ。その人とは、定常宇宙論の提唱者であったフレッド・ホイルだが。(『生命は宇宙から来た』光文社)
しかし、そうした「ムダ」の用意があればこそ、生物は環境の急変に対応することもでき、新しい種の形成へとすすむこともできるのではなかろうか。私の素人目にはそんなふうに感じられる。
そもそも地球そのものが「ムダ」を素材として誕生したのではないか。太陽系のもとになった星間物質は、すべてがムダなく太陽に結集することはできなかった。とりこぼされた部分、はみ出た部分が否応なしに出て、それが地球をふくむ惑星をかたちづくることになったのだから……。
ムダと人間の創造的行為と
イモリの眼球の研究に没頭している学者がいる。ゴキブリの足を切ったりつないだりする研究にうちこんでいる学者がいる。「国費のムダづかい」の例として、これを国会でとりあげた議員がいたそうだ。それをまた、一部の新聞や週刊誌がとりあげて、「国税をゴキブリの研究に! なんたる浪費」というぐあいに油をそそいだ。
これは人間の創造的行為として科学を評価するのではなく、もっぱら「実用への利用度」に評価の基準をおこうとするものだ、と岡田節人氏は書いている。「実用」とは、この場合、現実的には、資本にとっての効用、ということであろう。しかし、そういう姿勢で科学の創造的な発展を期することはできない。「ゴキブリを使って行なわれた研究が、私たち人間を含めた生けるものの一般的理解に、どれほど高い意義をもつものであるかを評価することこそが重要でしょう」と。(『生命科学の現場から』新潮選書)
宇宙の場合にも生物の場合にも、人生一般にとっても科学研究にとっても、「ムダ」は創造的行為の不可欠の条件であるらしい。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p69-73)
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◎「残り二時間で人間はいったい、何をしなければならないというのだろうか。 そんな必要のある人は日本人のうちのほんのひとにぎりの人だろうに……」と。
◎「「実用」とは、この場合、現実的には、資本にとっての効用、ということであろう」と。
◎「とりこぼされた部分、はみ出た部分が否応なしに出て、それが地球をふくむ惑星をかたちづくる」