学習通信050605
◎いかに病的で強制的で苦痛であろうと……。

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 豊かな労働の報酬が増殖を刺激するように、同じく庶民の勤勉をも増進させる。労働の賃銀は勤勉の刺激剤であって、勤勉というものは、他の人間のすべての資質と同じように、それが受ける刺激に比例して向上するものである。生活資料が豊富であると労働者の体力は増進する。また自分の境遇を改善し、自分の晩年が安楽と豊富のうちに過せるだろうという楽しい希望があれば、それは労働者を活気づけて、その力を最大限に発揮させるようになる。

そういうわけで、賃銀が高いところは低いところよりも、たとえば、イングランドはスコットーランドよりも、大都市の周辺は遠隔の農村地方よりも、職人がいっそう活動的で、勤勉で、しかもきびきびしているのを、われわれはつねに見出すであろう。たしかに職人によっては、一週間分の生活資料を四日間でかせぐことができれば、残りの三日間は怠けている者もあるだろう。

しかし、これはけっして大多数の者にあてはまるわけではない。それどころか職人は、出来高払で豊かな報酬を受けると働きすぎになって、数年のあいだに健康を破壊しがちにさえなるものである。ロンドンその他二、三のところでは、大工が精いっぱい活動できる期間は八年以上はつづかないと考えられている。これと同じようなことは、職人が出来高払の賃銀を得ている他の多くの職業にも見受けられる。もっともこれは、製造業ではきわめて普通なことであり、また農村の労働においてさえ、賃銀が通常よりも高いところではどこでも見受けられることである。ほとんどすべての種類の職人たちも、特殊な種類の仕事にうちこみすぎることからくる特殊な疾患にかかりやすい。イタリーの高名な医師ラマッツィーニは、こうした病気について特別の研究書を著わしている。

われわれは、わが兵士たちがいちばん勤勉な種類の人たちだとは思っていない。だが、兵士たちがある定まった仕事に使用され、出来高で十分に支払われている場合には、しばしばその将校は、兵士たちが従来支払われてきた率にしたがって働き、毎日一定額以上をかせいではならないという契約を、企業家との間でやむなくとりむすばなければならなかった。この契約がむすばれるまでは、たがいの対抗意識やより大きい利得への欲求にかりたてられて、しばしば兵士たちは過労におちいり、過度の労働によって健康を害した。一週のうち四日間働きすぎると、それは残りの三日間怠ける真の原因となる揚合が多い。これについては、非常に多くの人たちが不平を声高に鳴らしている。

身心のどちらであれ、労働が数日にわたって激しくつづけられると、たいていの人には休養にたいする大きい欲求が自然に生じ、そしてその欲求は、力によるか、なにか強い必要によるかして抑制されないかぎり、ほとんど抵抗しがたいものになる。これは自然の要求であって、あるときはただ気楽に過すことによって、だがあるときにはまた気晴しや娯楽によるなど、なにか気のむくままに過すことによって、解放されることが必要である。

もしそれがかなえられないと、結果はしばしば危険で、ときには生死にかかわることがあり、その職業に特有の疾患を遅かれ早かれもたらすことにもなる。

もし親方たちが、理性と人間性の命じるところにつねに耳をかたむけようとするなら、かれらは自分たちの多数の職人の働きを鼓舞するよりも、むしろそれを適度に加減させることがしばしば必要となる。恒常的に仕事ができるように適度に働く人が、自分の健康を最大限に保持するばかりか、年間をつうじて最大量の仕事をやりとげるということが、あらゆる種類の職業において見出される、と私は信じている。
(アダム・スミス著「国富論 T」中央文庫 p139-140)

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トヨタ生産方式のもとでの労働

 通常、一定の作業を行うために必要な標準時間は、正味時間に余裕時間を加えて求められる。ところがトヨタでは、標準時間に余裕時間を含めないばかりか、標準時間を決める際、最も熟達した作業者である班長あるいは組長が実際にラインに入って何回も作業を行い、そのなかで最も早い時間が標準時間として採用されるという。トヨタの標準時間の設定は、標準的な労働者が持続可能なペースで作業を行うことを前提とする通常のIEとはまったく異なっているのである。

 本来標準時間に入れるべき余裕時間は、「人的余裕」と「管理余裕」に分類される。「人的余裕」はさらに「用達余裕」と「疲労余裕」に区分できる。管理余裕は作業者の責任に帰すことのできない正規の作業以外の作業または避けられない遅れであって、ここでは深く立ち入らないが、人間の生理的、心理的要求にもとづくやむを得ない遅れとしての「用達余裕」(用便、水飲み、汗ふき等のための時間)や、疲労を回復するために必要な「疲労余裕」さえも考慮しない標準時間の決め方は、人権無視と批判されても仕方ないのではないだろうか。

 トヨタの期間工として数カ月間「参与観察」(調査対象となる集団の一員として観察調査を行う研究手法)を行った研究者によると、あるサブ・ラインでは、組み付け作業以外にパーツの補充(パレットの交換)が必要であり(所要時間はパーツによって十数秒から数十秒)、この作業は一時間に多いときで二・三回必要となった。ところが、実はこの時間はサイクル・タイムに含まれておらず、そのため補充を行うには、事前に作業をある程度追い込んでからそれをこなす必要があったという。

 改善によって人を減らす「省人化」についても、「参与観察」を行った別の研究者によると、実際の現場ではかなり乱暴なやり方が行われており、改善によって「省人化」を実現するのではなく、労働者にまず大きな負担をかけておいて、それに対処させるというやり方が行われていたという。この研究者は、次のような体験を記している。ある日、ペアを組んでいた労働者が喘息で早退したところ、それまで一・五人で行っていた作業を一人で行うように命じられ、改善が全く行われていないにも関わらず、その後この状態が既成事実化されてしまった。そこで、この過剰な労働負担を緩和するために、現場労働者達が知恵を出し合って改善を行うことになった。しかし、改善によっても負担は完全には解消されず、それまで二万歩未満であった一日の歩数が、二万歩から時には三万歩以上になる日もあったという。

 このような労働実態のために、トヨタでの労働負担はかなり厳しいものとなっている。後者の研究者が、一日の作業中の歩行数を万歩計で計測したところ、一三日間の平均値は二万一三六七歩となっていたという。彼は一日の歩行距離について、歩幅を七〇pと仮定すると約一五q歩いていたことになり、また八〇pと仮定すると約一七q歩いていたことになる、と推定している。しかも、彼はただ歩いているわけではない。彼の場合、約一〇〜二〇sの箱を一回につき一〇個前後台車に積み降ろししなければならなかったのである(サイクル・タイムは約三分)。

その荷重負担を軽減するため、「ラクラクハンド」という名のリフトが設置されていたが、実際にはこれを使っているとラインのスピードについていけないため、このリフトを使っている人はだれもいなかったという。彼は、トヨタで使われている「『ゼロ災ノート』には、『男性は重量二〇q女性は一二qを超えるときは、絶対一人で扱わないこと』と書かれているが、この指導に従っていたら、仕事にならない」と記している。

 別の参与観察者も、U字型ラインでの作業経験から、一日の作業中の歩行数を二万五〇〇〇歩と記している。また彼は、ライン立ち上げ当時使われていたホイスト(架線武の荷物昇降機)の使用が、その後サイクル・タイムの切り下げがなされたために、事実上できなくなってしまった事例を紹介している。ホイストを使っていると、作業が遅れてしまうため、その使用を自発的に放棄せざるを得なくなったというのである。通常一日一万歩以上歩くと健康によいといわれるが、一般の人が一万歩歩くにはかなりの努力が必要である。このことからも、大きな荷重負担のなかで毎日二万歩以上歩くという労働が、いかに厳しいものか想像される。

 先の参与観察者は、実体験をもとにトヨタのライン労働を次のように整理している。

「作業の内容や流れを理解し、ひととおりの作業を行えるようになるまでにはほとんど時間を要さない。しかし、重さや暑さ(彼の作業には熱処理をする工程が含まれていた〔引用者〕)に耐えられるようになり、一定のスピードで生産し続けられるようになるまでには相当時間がかかる。こうした事実は、ライン労働の尋常でない負担の大きさを示している」。

 かつてILOの示した余裕率の例を、参考として表1に示しておくことにしたい。

 このようにトヨタの労働実態は、トヨタ生産方式についての教科書的な説明から受けるきわめて「合理的」な印象とは、かなり異なっているようである。トヨタ自動車のコスト削減効果は、九九年三月期に一二〇〇億円であったものが○三年三月期には三〇〇〇億円と二倍以上に増加しており、二〇〇四年三月期には若干減少したとはいえ、二三〇〇億円を記録している。このようにトヨタのコスト削減は、まさに驚くべきものがあるが、前記のような労働実態がその前提にあるとするなら、これを称賛することはできない。
(那須野公人著「生産システムの今日的意義」月刊経済04年九月号所収 p132-134)

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第五節 標準労働日獲得のための闘争。一四世紀中葉から一七世紀末までの労働日延長のための強制法

 「労働日とはなにか?」労働力の日価値を支払って資本がそれを消費してよい時間の大きさはどれほどか? 労働日は、労働力そのものを再生産するのに必要な時間を超えてどれほど延長されうるか? これらの質問にたいして、上述したように資本は答える。労働日とは、毎日のまる二四時間から労働力が新たな役に立つために絶対欠かせないわずかばかりの休息時間を差し引いたものである、と。

まず自明のことであるが、労働者は彼の生活の一日全体を通じて労働力以外のなにものでもなく、それゆえ、彼が自由にしうる時間は、すべて本性上も法律上も労働時間であり、したがって資本の自己増殖のためのものである。人間的教養のための、精神的発達のための、社会的役割を遂行するための、社会的交流のための、肉体的・精神的生命力の自由な活動のための時間は、日曜日の安息時間でさえもが──そして安息日厳守の国であろうとも──まったく無意味なものなのである! しかし、資本は、剰余労働を求めるその無制限な盲目的衝動、その人狼的渇望のなかで、労働日の精神的な最大限度のみではなく、その純粋に肉体的な最大限度をも突破していく。

資本は、身体の成長、発達、および健康維持のための時間を強奪する。それは、外気と日光にあたるために必要な時間を略奪する。それは食事時間をけずり取り、できれば食事時間を生産過程そのものに合体させようとし、その結果、ボイラーに石炭が、機械設備に油脂があてがわれるのと同じように、食物が単なる生産手段としての労働者にあてがわれる。それは、生命力の蓄積、更新、活気回復のための熟睡を、まったく消耗し切った有機体の蘇生のためになくてはならない程度の無感覚状態の時間に切りつめる。

この場合、労働カの正常な維持が労働日の限度を規定するのではなく、逆に労働力の最大可能な日々の支出が──たとえそれがいかに病的で強制的で苦痛であろうと──労働者の体息時間の限度を規定する。資本は労動力の寿命を問題にはしない。それが関心をもつのは、ただ一つ、一労働日中に流動化させられうる労働力の最大限のみである。資本は、労働力の寿命を短縮することによってこの目的を達成するのであって、それは、貪欲な農業経営者が土地の豊度の略奪によって収穫を増大させるのと同じである。
(マルクス著「資本論A」新日本新書 p455-456)

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◎「身心のどちらであれ、労働が数日にわたって激しくつづけられると、たいていの人には休養にたいする大きい欲求が自然に生じ、そしてその欲求は、力によるか、なにか強い必要によるかして抑制されないかぎり、ほとんど抵抗しがたいものになる」と。

学習通信050602 040524 と重ねて深めよう。