学習通信050608
◎個人の意欲と社会の内的法則……

■━━━━━

社会の法則と個人の意欲

 生産労働を根本条件として考えることによって社会の発展の法則性を明らかにすることができるとしても、そのような法則性をもった社会のなかで各個人の意欲や意思はどうなるのかを考えておきましょう。

 すでに述べましたように、社会のなかで行動している個々人は、すべて意識をもち思慮や情熱をもって行動し、目的をきめて努力していますから、社会的なことがらは何であっても意識された目的や意欲された目標なしには起こらないのは当然です。しかし社会には多数の個人が行動していますから、一人ひとりの意欲や意思がそのまま実現することは残念ながら、ごくまれだということになります。むしろ社会生活においては無数の個々の意欲や意思がぶつかりあい打ち消しあって、生じてくる結果は意図とは異なるものとなることが、きわめて多いということになります。

 この面からいうと、社会とその歴史においては偶然が支配しているようにみえます。社会や歴史において偶然が支配しているのは現象的にはそのとおりです。これを認めないわけにはいきません。しかし、この偶然は現象面であって、このたくさんの偶然が実はつねに内的で本質的な法則によって支配されているのであり、この内的法則を発見することが重要だということです。

 この内的法則というのは何もむずかしく考えることはないと思います。個々人の意欲はなかなか実現できず、個人で社会を動かすことはできませんが、多くの人びとが何を意欲しているかが問題で、多くの人びとの意欲や情熱によって社会とその歴史は動くということを考えてみればよくわかるのではないでしょうか。つまり右に内的法則といったのは、この多くの人びとの意思をきめている原因になっているもののことです。

 多くの人びとの意欲をかりたてる社会的な動機もいろいろな種類があります。フアッションの流行やヒット曲の普及なども多数の人びとをまきこんでいますが、このようなものは社会を動かす動機というほどのものではないでしょう。

 九〇年代初頭の日本を勤かしつつある問題としては、たとえばリクルート汚職や金融スキャンダルの続出などの政界・財界の腐敗にたいする怒りが考えられます。消費税問題のときには選挙における自民党の大敗が起こりました。多くの人びとの意思がかなり表面化しました。その後のスキャンダルについては、どうせ政治家はその程度のものだというあきらめのまじった声も聞かれますが、これらの腐敗に加えて、コメの輸入「自由化」の問題、小選挙区制の問題、自衛隊の海外派兵(いわゆるPKOとかPKF)の間題などの展開いかんによっては、多くの人びとの投票行動に変化が起きることになるでしょう。

 一人ひとりの個人の意思はまちまちのようですが、このような国民生活全体にかかわるような問題になると多くの人びとの意思が動き、その大きさが大きくなればなるほど社会を大きく動かすことになる道理ですね。とくに社会の基本矛盾が激化し、巨大な数の人びとの怒りが爆発し、階級闘争が高まれば社会の全体構造が変わることになります。個人の意欲と社会の内的法則との関係は、以上のような関係だといえましょう。

歴史の法則性

 ところで社会科学にたいして、さらに次のような疑間が出されることがあります。それは社会や歴史が科学的に認識可能だというが、社会や歴史の法則性とはどういうことか、自然現象は天体の運行に典型的にみられるように、繰り返される運動なのでそのなかに法則性がたしかにあるが、社会現象や歴史現象は一回限りであって繰り返しがないから、そもそも法則というものは見出しえないのではないかという疑問です。これはすでに新カント派の理論家たちが「歴史の一回性」といって主張したことでもありました。

 たしかに歴史現象は一回限りであり、同じことが何回も繰り返すということがないのは事実です。「歴史は繰り返す」といわれる場合がないことはないですが、しかしそれは歴史上よくにた現象が起こることがあることをいったまでで、まったく同じ事件が繰り返すというわけではありません。明治維新がもう一度起こったり、太平洋戦争がもう一度起こったりということはありえないでしょう。世界大戦は二回おこりましたが、別々の経過をたどった戦争でしたし、三回目は絶対に繰り返させてはならないことはいうまでもありません。新カント派などの観念史観は、ここのところを突いてきているわけです。

 歴史は繰り返さないけれど、しかし法則があるといえるのはどうしてかというこの問題に答えるには、やはりヘーゲルやマルクスやエンゲルスに学ぶ必要があると思います。

 ヘーゲルは古典力学やそれにもとづく天文学があつかう惑星の運行や日食・月食などの予測などは、たんに循環的現象が事実としてとらえられたにすぎず、「予言」はできるけれども、法則が把握されたというようなものではないと考えました。これをもし「法則」とよぶとしても、ただ繰り返される恒常的規則性が見つかっただけで、なんら事柄の本質、たとえば宇宙の構造の本質などが把握されたわけではなく、たんなる現象的事実が判明しただけだと考えました。

 ヘーゲルのこの批判は重要です。これにたいして、ヘーゲルの考え方にも学んで社会科学の基礎をおいたマルクスたちは、論理の力(悟性や理性の能力)をもって歴史現象に立ち向かい、現象を深く分折し、またそのデータを総合することによって、その本質に迫り、『資本論』で仕上げられたとおり、「資本主義の発展の諸法則」を把握することができたのでした。歴史現象のなかには、太陽系の運動のような循環現象はないのであるから、歴史現象の「予言」ができないのは当然であって、しかしマルクスたちは循環しない歴史現象もこれを深く分析すれば、歴史がそのように動き、それ以外になりようのない法則性、何月何日に起こるとは予言できないが、おそかれ早かれ必ずそうならざるをえない法則性がつかめることを解明しました。

 太陽系の運動のような循環する規則性をともかく法則だと認める場合に、ヘーゲルもマルクスもこれを単なる「因果法則」とよびました。これにたいして社会科学における法則は、対象が循環する(繰り返す)現象ではないので、かえって事柄の本質を分折によって取り出し、ものごとの発展の必然性と法則性をとらえるものでなければならないと考えて、このような法則を「発展法則」とよびました。このような意味での因果法則と発展法則を区別することは重要です。

 現代イギリスの哲学者カール・ポパーなどもマルクスの社会科学は予言できる繰り返す法則を取り扱わないから非科学的だといい、社会現象・歴史現象にはそのような法則性がないから、社会科学や歴史科学は科学としては結局成り立たないと主張していますが、けっしてそうではないというべきでしょう。

 『資本論』におけるマルクスの仕事は、まず資本の発生の必然性を分折し、次にその諸形態の展開の必然性を分折し、そのなかに資本の根本矛盾の発展を見出し、最後にこの根本矛盾による資本主義の消滅の必然性を見出すことで資本主義の基本法則を明らかにしました。資本主義の消滅それ自体が日食のように何年何月何日とは予言できないけれども、それが必然であることをマルクスは事実の分折と論理の力で寸分の疑いをもさしはさむ余地のない確かさで証明しました。その成果が『資本論』です。まだお読みでない方はぜひ読んでください。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p154-170)

■━━━━━

 たとえその形態がどのようなものであろうと、社会とは何でしょうか? 人間の相互的行為の産物です。人間は社会形態をあれこれと任意に選ぶことができるでしょうか? できはしません。

もし人間の生産諸力の特定の発展の度合を前提するならば、交易や消費の特定の形態が得られるでしょう。もし生産、交易および消費の特定の発展段階を前提するならば、それに応じた社会秩序が、また家族、身分あるいは階級のそれに応じた組織が、一言でいえば、それに応じた社会〔市民社会〕が得られるでしょう。

このような社会を前提するならば、社会の公的表現にすぎないそれ相応の政治秩序が得られるでしょう。プルドン氏は国家から社会を、すなわち社会の公的概括体から公的社会を呼びだせば、なにか偉いことをしたと考えているのですから、彼にはこのことは理解されないでしょう。

 人間はその生産諸カ──その全歴史の基盤──を自由に選ぶのではないなどと付け加えていう必要はありません。というのも、生産力はすべて獲得された力であり、それ以前の活動の産物だからです。

つまり生産諸力は人間の応用されたエネルギーの産物ですが、このエネルギーそのものは、人間がそこにおかれている諸状態によって、すでに獲得ずみの生産諸力によって、また彼ら以前に存在し、彼らがつくるものではなく、先行する世代の変物である社会形態によって限定されています。

あらゆる新世代は旧世代によって獲得された生産諸力を前提とし、その生産諸力が新たな生産の原料として新世代に役立つという単純な事実によって、人間の歴史にある関連が生じます。

つまり人間の生産諸力や、したがってまたその社会的諸関係が大きくなればなるほど、そこに生ずる人類の歴史はますます人類の歴史らしくなっていくのです。

その必然的結果は、人間が意識しようとしまいと、人間の社会史はつねに人間個人の発展史にほかならないということです。人間の物質的諸関係は彼らのすべての関係の基盤です。この物質的諸関係は人間の物質的かつ個人的活動が実現される必然的諸形態にほかなりません。

 プルドン氏は観念を事物ととりちがえています。人間がひとたび獲得したものを放棄することはありませんが、そのことは、彼らが特定の生産諸力を獲得したさいの社会形態を放棄しないということではありません。それと正反対です。

人間は、達成された成果を失わないために、文明の果実を失わないために、その交易の方法や様式が既得の生産諸力ともはや対応しなくなるや否や、その伝来の社会形態のすべてを変えざるをえなくなります。

私はここで交易という言葉をドイツ語の交易がもっているようなきわめて広い意味に解しています。──たとえばツンフトと同業組合の特権制度、中世の全規制は、既得の生産諸力や、またこれらの諸制度を生みだした既存の社会状態にのみ対応した社会的諸関係でした。同職組合的かつ規制的体制の保護のもとで資本が集められ、海上貿易が発展し、植民地が設けられました。

──だが、これらの果実を保護して成熟させたところの諸形態を、もし人々が手放すまいとしたならば、これらの果実そのものを失うことになったでしょう。実際また二つの衝撃が、一六四〇年と一六八八年の革命がありました。すべての古い経済諸形態、それに対応した社会的諸関係、旧社会の公的表現であった政治秩序はイギリスにおいて粉砕されました。

したがって、人間が生産し、消費し、交換するさいの経済的諸形態は過渡的で歴史的なものです。新しい生産諸力を獲得するとともに、人間はその生産様式を変革し、また生産様式とともに、この特定の生産様式にとって不可欠の諸関係にすぎなかったすべての経済諸関係を変革します。
(マルクス「マルクスからパヴェル・ヴァシレヴィチ・アンネンコフ(在パリ)へ」マルクス・エンゲルス8巻選集@ 大月書店 p285-286)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「人間は、達成された成果を失わないために、文明の果実を失わないために、その交易の方法や様式が既得の生産諸力ともはや対応しなくなるや否や、その伝来の社会形態のすべてを変えざるをえなくなります」と。