学習通信050611
◎円の中だけの自由……

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働く母に二つの結果

 共働きをしてきた母親の子どもが成人すると、「ぼくおかあさんが家にいないでさびしかったから、どんなに苦労しても、共働きはしないよ」といったという話をききます。また三、四歳になって、共働きでないよその家庭をみてから、母親に「家にいてほしい」というようになったという話もあります。だから「母親は家庭に帰れ」という意見がでるのですが、そう子どもにいわせるのはなぜでしょうか。

 第一に、現在の状況では、経済的必要から働くのは当然ですが、ただそれだけですと、子どもはつねに家にいる近所の母親と比較し、母親の留守のわびしさをうずめる精神的ささえを持ちません。つまり、経済的に楽になれば働かなくてもすむという期待だけで、親が働いている生活のなかの喜びと意義を感じとることができなくなります。働くことに誇りをもつこと、人間として生きるうえでの労働の意義について親自身がどれだけ自覚と確信をもっているか、さらにそれが日常生活の中にどれだけ表現されているか、考えてみる必要があります。

「私の母は養護教諭でずっと働きつづけてきました。その母の姿を娘である私は尊敬し、私もずっと共働きをつづけたいと思います。」と話してくれた若い婦人教師は、その理由をつぎのように語っていました。

「母は帰宅後、私たちに学校であったことをよく話してくれました。けがをした子どもの手当をしたこと、気分の悪くなった子どもを看病したことなどの話をきいて、私は、おかあさんはずいぶんたいせつなお仕事をしているのだなあ≠ニ思いました。また統計などをつくるとき、私たちきょうだいは手分けをして計算や、写しなどを手伝わされましたが、おかあさんの仕事をみんなで手伝うのはたのしいことでした。」

 また母親が仕事好きで働いているばあいでも、この問題は起こりえます。それは、母親自身が「仕事好き」というのを、自分の立場からだけみて、子どもの利益と対立させて考えてしまうからです。そうすると親はつねに負い目を感じ、物質的に代償しようといつもおみやげを買って帰ったり、むりをして不つりあいな玩具や学用品、自転車、ピアノなどを買ってやったりします。

 母親の社会へでる姿勢が前向きでも、子どもにたいする愛情と配慮、表現の仕方が利己主義的では矛盾を起こします。母親の考え方と実際の生活態度との矛盾が、共働きはいやだというようにさせるのではないでしょうか。親が働くことに誇りをもつと同時に、子どもを信頼し子ども自身にも責任をもたせ、ともにはりをもった生活をきずきあげてゆくことが大切です。
(近藤・好永・橋本・天野著「子どものしつけ百話」新日本新書 p28-29)

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 女は素直でやさしく、男につかえ、子どもを生み、家庭の雑事をする、こうしたイメージと要求は、過去の教育によって、ほとんどの男性の血肉のなかにしみこんでいます。これが女性を苦しめているのはいうまでもありませんが、女性自身も、女は夫に従い、わが子はわが手で育てたいと考えているものが多くいます。資本家階級は、この遅れた意識を悪用して、前述のように、働く女性の権利ばかりでなく、男子労働者の権利までも、うばっています。

仲間である女性の低賃金が男性賃金の足をひっぱり、夫と妻の収入の合計を減らしていることに気づかねばなりません。しかし、女性が社会的に低くあつかわれ、家庭で男に従属していることに、優越感をもつ男性が多いことは、女の道のけわしさを物語っています。

 しかし、男性は敵ではありません。愛すべき仲間です。この仲間の意識をかえること、この伸間を共にたたかう同盟者にすること、これこそ女でなければできない、もっとも大きな仕事であり、生きがいだと思います。というのは、ほっておけば、男の方からはなかなか変わってこないからです。

 このごろの若い青年は、教育ママから過保護に猫可愛がりに育てられ、勉強さえしていればすべてを母が肩代りしてくれる。母にヘソのおをくっつけ、乳ばなれのおくれているものがふえています。肉体だけはおとなになっていても、精神的には子どもです。自分のとった行動に責任のとれないふぬけがいかに多くの女性を傷つけていることか、こういう男性は自己中心的で、恋人や妻を、母の代理、性の道具、さびしいときのなぐさめ的存在としてあつかいます。それが社会の発展をおくらせ、女性の人権を無視しているとも思わず、男のしあわせさえ傷つけていることにも気づいていません。

 男の子をこのように育てた母親に責任があるとはいえ、いつの日か、恋人となり夫となるこれらの青年をどのようにささえてゆくか、正しく育てかえていくかは、やはり若い女性たちに課せられた任務です。「きらわれずに愛されながら男性をかえていく」、むずかしい大仕事ですが、なんとやりがいのあるおもしろい仕事でしょう。

 「女性の生きがい」とは何かと問われてーロで答えようとすれば、「ー生働きつづけること」とやはりいわねばなりません。まず、働いて経済的に独立すること、それなしには本当の自由はありません。働くことがどんなに苦しくても、仕事にしばられて全く自由がないように感じられても、自分のくいぶちは、自分で稼ぐことと、社会的労働に参加していることの二つを欠いては、独立人とはいえません。

親の財産や夫の収人でどんなにゼイタクがさせてもらえても、それは、首につながったくさりが長いだけです。その長さを直径にした円の中だけの自由でしかありません。一人前の独立人といわれても低賃金であくせく貧乏しているよりくさりにつながっていても、物質的に豊かな方が、いいという人もいるでしょう。しかしこのくさりは、いつ短くなるかもしれず、いつ切れてしまうかもわかりません。ひもの切れたタコのようにあなたまかせの人生がいかにたよりなく、せつないかは、母たちの生きた人生が、多くのことを教えてくれます。今は貧しい独立人であっても、働くものの力がつよくなりその社会的地位があがれば、それとともに彼らは豊かになり社会的地位も上っていきます。

どちらの道を選ぶかは、いわずともあきらかです。働いているそのままの現状の中には明るい展望がないように見えても小さな闘いにちょっとでも勝利したという経験が現状の変革が可能であることに気づかせます。働いているものは働いている場の条件をよくする、働いていないものは、どうやって働ける条件をつくるか、この努力のなかから働くものの誇りと生きがいが求めようとしなくても湧き出てきます。
(田中美智子著「恋愛・結婚と生きがい」汐文社 p67-70)

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◎「働くことに誇りをもつこと、人間として生きるうえでの労働の意義について親自身がどれだけ自覚と確信をもっているか、さらにそれが日常生活の中にどれだけ表現されているか」と。

日常的に……。