学習通信050614
◎種籾(たねもみ)を見つけること……

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まえがき

 いまマルクスは忘れられたひとである。しかしマルクスは忘れてはならないひとである。
 なぜマルクスは忘れられたのか。なぜマルクスを忘れてはならないのか。

 マルクスが忘れられたのは、二十世紀後半の歴史の状況による。忘却の理由は多々あるが、なかでも二十世紀の六〇年代以降に徐々に知られるようになった事実、すなわちマルクス主義を看板にかかげたソ連邦の政治と社会の荒廃がマルクス忘却を急速に促進した。スターリンがつくり上げたソ連の国家体制と日常的社会生活は、ソルジエニーツィンの言葉を借りていえば収容所列島にひとしいことが全世界的に明らかになったからである。

 市民社会を特微づける公共性と公開制は、ただでさえロシアには微弱であったことにくわえて、それを守り育てる市民精神がソ連ではついに育たなかった。公共的市民社会が息づいていない場合には、古来そうであるように、秘密警察的管理体制のみがかろうじて国家体制を維持する。淫靡(いんび)な密告社会が生まれ、万人が万人を互いに告発することによってかろうじて動物的に生き延びることを確保するという社会では、ひとはまことに生きづらい。くわえて日々の食料品を手にいれるというたたそれだけのために配給所前に行列して一日の大半を費やすのが恒常的になった社会は、戦時体制ならいざ知らず、まともな社会ではない。

 これはマルクスが予想した社会なのかと誰もが首をかしげる。マルクス主義に好意的であったひとびとも、この現実を見てソ連の看板イデオロギーである「マルクス=レーニン主義」(実際にはスターリン主義のこと)に反感をもったのは当然である。国家イデオロギーとなったマルクス主義をみて、その源泉がマルクスにあると見るのも自然である。マルクスには気の毒なことながら、皮肉なことにロシア革命とソ連のおかげでいまや諸悪の根源とされてしまったのである。いうまでもなく、マルクスとロシア「マルクス主義」を同列に扱うことはできないのだが、そう主張するのは一部の専門家のつぶやきでしかない。

 なによりもソ連の民衆がその国制から離反した。どの国家も民衆の信頼と合意を失うなら必ず崩壊する。古来そうである。崩壊をとどめようとして警察的管理に訴えるなら、それがますます民衆を離反させる。信頼と合意が国制の正統性を保証するのだが、その意味でソ連は正統性をすでになくしていたのだ。落ち目の国家は落ち目の政策を必ずとる、ソ連によるアフガニスタン侵略戦争は、かつてのアメリカのベトナム戦争と同様に、自己崩壊を加速させた。

 二十世紀後半のわれわれはソ連の解体とソ連型社会主義の死滅を眼前で見ることができた。しかしマルクスにとっては、不幸にもこれが死活を左右するダメージになった。ソ連的社会主義の崩壊は、社会主義への不信と同時に、たとえ誤解であれ、ともかく全世界の民衆のなかにマルクス不信の感情を植え付けることになった。一般に、かつてのキリスト教がそうであったように、国家の看板イデオロギーになることは、ひとつの思想が卓越していればいるほど危険なことである。マルクスにもイエスの思想と同じ危険な不運がおそったのである。

 二十世紀の巨大な事件がマルクスを忘れさせたのは、ある意味では余儀ないことであった。しかし他方では、いま新しくマルクスの書物を読もうとするひとびとにとっては、ひとつの積極的な意味もあった、二十世紀の政治主義的なイデオロギーがごっそりはげ落ちたことは、よけいな思惑をなくし、冷静に虚心坦懐にマルクスを読む条件を生み出したといえるからである。

 では、なぜマルクスは忘れてはならないひとであるといえるのか。彼のどこにアクチュアルな意味があるのだろうか。それはマルクスが一生をかけて研究した資本制経済の理論のなかに、さらに資本制経済がすみずみまで浸透する市民社会の理論のなかにある。著作を特定していえば、マルクスの『資本論』のなかに書き込まれている彼の学説が現代的意義をもっているのである。

 たしかにそのなかで使われている材料は十九世紀の経済からとられたもので、いまの経済と比べるといかにも古くさくみえる。ひとは生まれる時代を選ぶことはできないのだから、材料が著者の同時代のものであるのは当然である。材料が古いからといって学説や思想もまた古くなることはない。もしそうなら古代ギリシアの哲学者たちの書きものはすべて古びるはずだが、そんなことはない。それと同様にマルクスの『資本論』の内容も古びない。マルクスが同時代の材料を使いこなしてひとつの時代とひとつの社会の全体的構造を描き出す理論的な精神こそがいまもなお注目されるべきである。

 ここで強調しておきたいことがある。それは、『資本論』へと成熟するまでのマルクスのすべての著作が、経済と政治と文化の諸相を組織してひとつの構造体となった資本制社会を、第一に経済構造から、第二に文明史の角度から、トータルに把握する壮大な企てであったことである。資本主義近代は、人間の内面までひそかに支配するほどに強くて悪魔的な活力をもっているが、その強烈なパワーをマルクスほど見事にとらえたひとはいないだろう。

十九世紀よりも二十一世紀のわれわれの生活のほうが、マルクスが描いた資本主義の強烈な力を如実に実証している。十九世紀では資本主義はまだようやく確立したばかりであった。マルクスは上昇しはじめた資本主義社会のエッセンスをその出足のところでとらえようとしたのだが、彼の把握はその後の資本主義の一般傾向をよくとらえていた。二十世紀を経て現在にいたるまでの歴史的経験は、ほとんどマルクスの指摘のとおりであり、マルクスの予想をこえるほどに資本主義の地球支配の度合は高いといえる。

 ところで、前に『資本論』の材料は古いといったが、見方を変えればその材料は十九世紀の時代的真実を高い水準で証言したものとして読める。たとえば十九世紀イギリスの経済的現実は、幼い子どもと女性をわずかな賃金でこきつかってもうける経済であったが、その悲惨な都市生活がイギリス社会をどれほど陰惨なものにしたかをマルクスは克明にえがく。けっしてためにする記述ではない。いまの用語でいえばそれは都市人類学の先駆的研究である。

これは一例にすぎないが、『資本論』のなかには現代の諸学問を先取りする要素がある。知性を剌激して新学問を創造せしめる種まきもまた多々なされている。そうした種籾(たねもみ)を見つけることもまた、『資本論』を現在読むときの快楽になるのではあるまいか。『資本論』がいま輝いてみえるのは、彼の道徳的憤激の批判的表現よりも、われわれが生きる現代のもっとも深いところをえぐり出す学的精神であり、発展可能な種々の学問の基礎づくりである。要するに、『資本論』は種々の学問を創造する出発点となりうる可能性をかかえる宝庫である。こうして学者マルクスがふたたびよみがえる。

 本書のねらいはマルクスの学問的精神により多く光をあてて、多くの読者の関心をそれへとかき立てることにある。著者のねらいが少しでも読者に通じることを願ってやまない。
(今村仁志著「マルクス入門」ちくま新書 p7-11)

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 ここでソ連・東欧問題についてふれておきたいと思います。あとでもうー度ふれるつもりですが、ここでは唯物論哲学とのかかわりについて私の意見を述べておきたいと思います。

 マスコミが「社会主義は崩壊した」と大合唱をやっていますが、社会主義をゆがめ、社会主義の理念に反する政治体制をしいてきたスターリン・ブレジネフ以来のできそこないの体制が崩壊したのであって、社会主義の思想・理論は少しも崩壊したのではなく、昨今のアメリカ経済の破綻や日本の超過密労働強制の実態やバブル経済・金融スキャンダルの様相を考えてみますと、資本主義の本性はまさにマルクスが『資本論』で批判し、レーニンが『帝国主義論』で批判したとおりであって、科学的社会主義の理論の正しさがむしろ実証されつつあるといえましょう。

 ところがソ連・東欧諸国は、社会主義を国是とし、唯物論哲学で国民を教育し国造りをしてきたのではなかったか、今日の事態から考えて唯物論哲学がまずかったのではないか、唯物論に欠陥があるのではないかという議論があります。

 この点をどう考えるかは大事な間題だと思います。たしかにスターリン以来、今日のゴルバチョフやエリツィンにいたるまで、ソ連共産党幹部の考え方にはおかしい点があります。幹部だけでなく、かなり広範にソ連共産党員のなかに間違った思考法がひろがっていただろうと思われる点があります。

 中央指令型の官僚主義的な経済運営、人びとの労働意欲を失わせるノルマ制労働、農民の意識状態を無視した強制的な農業集団化、とくにスターリン時代には長期にわたって正規の党大会や中央委員会を開かず民主集中制を侵犯しただけでなく自分の意見に従わない幹部にスパイ容疑など勝手な理由をつけて多数を粛清するなど、近代法治国としては考えられないような言語道断の民主主義破壊をやりました。こんなことがなぜ起こったのか。これは大きな問題であり、ロシア社会の構造や人びとの意識状態から経済・社会・政治・文化など全面的歴史的に解明すべき重大問題です。これから私たちは徹底してこの仕事をやっていかねばならぬと思います。

 しかしここできわめて明白だと私が思うのは、このようなスターリンの蛮行は彼が唯物論者であったからおこなったのではなく、彼が唯物論を口ではいいながら、実際の行動においてはまったく唯物論とは縁もゆかりもない行動をとったところに起こったということです。

 スターリンは有名な『弁証法的唯物論と史的唯物論』という本を書いています。これはソ連共産党員の教科書でしたからもちろん唯物論哲学のことが書いてありました。分かり易いと当時はいわれていましたが、それは哲学書としては理論的な粗雑さが目立ち、弁証法や史的唯物論の扱い方など、今日からみるといろいろ問題のある本ですが、しかしともかく唯物論の立場で書かれておりました。しかし彼の死後次第に明らかになってきた彼の粗暴な蛮行は、彼自身の筆にした唯物論の精神をまったく裏切るものでした。

 唯物論は先に述べましたように、科学的世界観の伝統のなかから生まれ育ち、近代科学の真の精神に完全に一致するものであるばかりでなく、それは広範な人民の生活の現実全体から出発してものを考えるわけですから、当然、近代民主主義の精神に一致するものです。人びとが平等な人格と理性をもつ存在であるからこそ、どんな逆境にあっても、奴隷制をうち破り、封建制をうち倒して世界の人民は前進し続けてきました。この歴史の現実を認めることこそ唯物論哲学の立場です。

この現実を認めるならば、当然、民主主義と人民の自発性を認めねばならぬはずです。科学的社会主義(唯物論)の基礎を築いた古典家たちの理論は(マルクスもエンゲルスもレーニンも)みなそのような民主主義の精神に立っていました。それをスターリンやブレジネフなどは乱暴に踏みにじったのです。そしてこの官僚主義的な「国家社会主義」の体制は、人民の怒りによって倒されました。当然のことといえましょう。ソ連の体制がこんなにもあざやかに打倒されるとは十年ほど前までは夢にも思いませんでした。不明を恥じる次第です。近年はどのような倒れ方をするのか注目していましたが、実に人民の力は偉大であるというべきだと思います。

 ソ連の社会主義革命についていえば、第一次世界大戦の最中という混乱のなかで、資本主義の発達もブルジョア民主主義も科学技術も未成熟のままに、歴史の組み合わせから世界最初の社会主義国にならねばならぬことになり、また周囲の帝国主義諸国からの干渉戦争(日本軍もシベリアヘ大軍を送った)に耐えねばならなかったなどの不利な条件があったというような点はもちろん考慮に入れねばなりませんが、それにしてもスターリンなどの指導者の誤りは巨大なものでありました。

 その誤りの大きさはあれこれの一部の政策の誤りや、一部の理論の理解の誤りなどではなく、科学的社会主義の根本精神を誤解し、唯物論を口では唱えながら、行動においてはまったく唯物論に従っていないという根本的な誤りだというべきだと思います。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p90-94)

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〔ソ違の党とともに崩壊した「マルクス・レーニン主義」とは〕

 それでは、ソ連の党ともに崩壊した「理論」、彼らが「国定の哲学」としてかかげていた「マルクス・レーニン主義」とは、どんなものだったか。ー言でいって、レーニンが批判した「セクト主義」そのものであったのが、彼らのかかげていた「理論」であったといっていいでしょう。そして、その「セクト主義」の教条の内容も、マルクスやレーニンののべたことの教条主義的な一面化にとどまらず、自己の誤った政策の合理化のためにつくりだした「新手」の教条もくわわり、およそ科学的社会主義の立場からはとおくはなれさったドグマの体系に変質していたのです。

 このことは実は、最後には、この党の当事者自身もみとめざるをえなくなったことでした。ソ連共産党が解体する直前にひらかれ、この党の最後の中央委員会総会となった九一年七月の総会で、ゴルバチョフは、つぎのようにのべていました。

「過去において、党が自己のインスピレーションの源泉と認めていたのは、マルクス・レーニン主義であった。しかも、この学説そのものが、当面の実利主義的(プラグマテイック)な方針の都合に合わせて途方もなく歪められ、一種の経文集に変えられていた」

 これまでのみずからの立場が、科学的社会主義のほんらいの見地を「途方もなく歪め」た、「経文集」となっていたことを認めたことは、当然でした。しかし、ここからゴルバチョフが導き出した結論は、科学的社会主義のほんらいの立場にたちもどろうとする努力ではなくて、科学的社会主義を公然と放棄する方向でした。さきの引用につづけてゴルバチョフがのべたことは、つぎのことでした。

「現在では、われわれの思想的武器庫に祖国および世界の社会主義思想および民主主義思想の豊かさ全体を含める必要がある」

 つまり、科学的社会主義の思想を、あれこれある「社会主義思想」、「民主主義思想」と同列において、せいぜいその「あれこれの一つ」としての値打ちしかもたないものにしてしまうことによって、人類の知識を集大成した世界観としてのこの学説の真理性を否定してしまったのでした。崩壊したソ連の党が到達した最後の結論はこれでした。この党は、すでに解散声明がだされる前から、思想的には完全に死滅していた党だったのです。

 かつては、「セクト主義」的なみずからの立場の絶対化と、その全世界へのおしつけ。それが破産したことから今度は一足とびに、科学的社会主義を「あれこれの一つ」として放棄していった。これは一見正反対の立場のように見えますが、どちらにも共通しているのは、科学的社会主義を人類知識の集大成としてとらえる科学的立場の欠如にほかなりません。そういう真の意味での科学的社会主義の理論的前進と蓄積が、数十年にもわたって断ち切られてきた党にとっては、それを放棄することもさほど不思議なことではなかったのです。
(志位和夫著「科学的社会主義とは何か」新日本新書 p30-32)

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◎「人びとが平等な人格と理性をもつ存在であるからこそ、どんな逆境にあっても、奴隷制をうち破り、封建制をうち倒して世界の人民は前進し続けてきました。この歴史の現実を認めることこそ唯物論哲学の立場」と。