学習通信050620
◎東京空襲(一九四二年四月十八日)……

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「生きていたらアンネは小説家に」

 「アンネの日記」の著者として知られる少女、アンネ・フランク(一九二九−四五年)のいとこで、アンネ・フランク財団会長、バディ・エリアスさん(80)=スイス・バーゼル市在住=が十八日、広島県福山市内で講演し、「アンネは元気な女の子だった。生きていたら小説家かジャーナリストになっていただろう」と話した。

 アンネの父親と、エリアスさんの母親は兄姉の間柄。ナチスの迫害を逃れオランダ・アムステルダムの隠れ家で暮らし、収容所で亡くなったアンネについて、エリアスさんは「誕生日のお祝いに、お菓子や花をブレゼントしたこともある」と涙ぐみながら語り、講演に先立つ記者公言慨アンネの遺志である人類の平和を伝えたい」と若い世代に呼び掛けた。福山市にある「ホロコースト記念館」(大塚信館長)が招いた。
(日経新聞20050619)

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キティ様 一九四二・一〇・九(金)

 今日は、憂うつなニュースをお知らせしなければなりません。おおぜいのユダヤ人の友だちが、一度に十人、十五人と連れ去られて行きます。その人たちはゲシュタポからちりほどの思いやりもなく扱われ、家畜用のトラックで、ドレンテにある最大のユダヤ人収容所ベステルボルグヘ送られています。百人に一つの洗濯湯しかなく、便所も十分にありません。男も女も子供も、一つの場所に雑魚寝なので、ひどく風紀が乱れ、そこにしばらくいる女には──子供でさえ!──妊娠しているものが多いという話です。

 そこから逃げ出すことは出来ません。収容所に入れられている人は、たいてい頭をくりくり坊主に刈られているし、また多くの人は、ユダヤ人特有の顔ですぐわかるからです。

 オランダでさえこんなにひどいのなら、遠くの野蛮な地方へ送られたらどんなでしょう。そういうところへ送られた人たちは、たいてい殺されたのだと思います。イギリスのラジオは、その人たちは毒ガスで殺されていると言っています。

 毒ガスがいちばん早く死ぬでしょう。わたしは気が転倒しそうです。ミープがこの恐ろしい話をしているとき、聞くまいと思っても、聞かないではいられませんでした。ミープ自身も、わたしと同じように興奮していました。

ごく最近の例ですが、貧しい、年老いた、かたわの女のユダヤ人が、自分の家の戸口に腰かけていました。それより先、ゲシュタポが来て、彼女にそこで待っていろと言って、車をとりに行ったのです。この哀れな老婆は、上空のイギリス機目がけて撃ち出される高射砲の響きと、まばゆいサーチーライトの光におびえながら、言われたままに、そこにじっとしていました。しかし、ミープも老婆を家に入れてやろうとはしませんでした。だれだってそんな危険はおかさないでしょう。そんなことをしたら、ドイツ軍は情容赦もなくなぐりつけます。

エリーもとても無口になりました。彼女のボーイフレンド、ディルクがドイツへ連れていかれたからです。エリーは、連合軍の飛行士が、ディルクの頭の上に、ときには合計百万キロも爆弾を投下するだろうと心配しています。「一人に百万キロの爆弾は落ちないよ」とか「一つ食らえばそれまでさ」とかいう冗談はよくない趣味です。もちろん、連れて行かれたのはディルクだけではありません。毎日、青年たちが何台もの汽車にぎっしり詰められて出発します。汽車が途中小さな駅にとまったとき、すきを見て逃亡するものもいます。しかし、うまく成功するのは少数でしょう。あなたにお知らせする悪いニュースは、これだけではありません。あなたは人質という言葉を聞いたことがありますか。これは破壊行為に対する最近の処罰方法です。こんな恐ろしいことを想像できますか。

 知名の市民──もちろん罪のない人々──がどしどし監獄に入れられて、明日をも知れない運命を待っています。もし破壊行為の犯人が見つからないと、ゲシュタポは約五人の人質を、いともかんたんに銃殺してしまいます。その人たちの死亡がちょいちょい新聞に発表されますが、こんな非道な殺し方をしながら、「事故のための死亡」と書かれます。ドイツ人て、何とりっばな国民でしょう! わたしもかつて、ドイツ国民の一人だったと思うとなさけなくなります。ヒトーラーはずっと前に、わたしたちユダヤ人から国籍を取り上げました。ドイツ人とユダヤ人は、この世の中で、不倶戴天の敵同士なのです。
       アンネより

──略──

キティ様  一九四二・一〇・二〇(火)

 びっくりしてから二時間もたつのに、手がまだふるえています。家の中に消火器が五個あります。わたしたちは、だれかが中身の充填に来ることになっていることを知っていましたが、だれもいつ大工さんなり何なりが来るのか、あらかじめ知らせてくれませんでした。

 ですから、わたしが書棚でカムフーラージした隠れ家の入口の向こう側の踊り場に、金槌の音を聞くまでは、だれも静かにしていようとはしませんでした。わたしはすぐ、大工さんが来たのだなと思って、いっしょに食事をしていたエリーに、階下へ降りてはいけないと注意しました。お父さんとわたしは、来ている人が行ってしまったことを確かめるために、ドアのわきで張番をしながら、耳をすましていました。

十五分も仕事をしてから、その人は金槌と道具を書棚の上に置いて(わたしたちはそう思いました)やがてドアをノックしました。わたしたちはまっさおになりました。たぶん、その人は、何かの音を聞きつけて、わたしたちの隠れ家を調べようとしたのでしょう。どうもそんな気がしました。しぱらくドアをノックしたり、引っ張ったり、引手をねじったりしていました。わたしはこの見ず知らずの人が、わたしたちのりっぱな隠れ家を見つけ出すかもしれないと考えて、気が遠くなりそうでした。いよいよ最後の時が来た、と思ったその瞬間に、「ドアをあけて下さい。わたしですよ」と言うコープハイスさんの声が聞こえました。

わたしたちはすぐドアをあけました。秘密を知っている人ならわけなくはずせる、書棚をおさえておくかぎが引っかかって、はずれなかったのでした。だからだれも大工さんの来ることを知らせられなかったのです。仕事に来た人はもう階下へ降りて行ってしまったので、コープハイスさんがエリーを連れに来たのですが、ドアがあかなかったのです。わたしはほんとうにほっとしました。ドアがノックされたり、押されたりしているとき、ドアの向こう側にいる人は、わたしの空想の中で、次第次第に大きくなり、ついに巨大なファシストになっていきました。

 やれ、やれ、幸いにも万事OKです。ときに、月曜日にはとてもおもしろいことがありました。ミープとヘンクはここに泊まりました。わたしとマルゴットはその晩、お父さんたちの部屋に寝て、わたしたちの部屋をミーブ夫妻のためにあけました。夕食はとてもおいしかったけど、食事中、お父さんの部屋の電灯のヒューーズがとんだため、急に真暗になって、とても困りました。うちにヒューズが少しありましたが、ヒューズ・ボックスの場所は暗い物置の裏だったのです。夜になってからなので大変な仕事でしたが、男の人たちが動きまわって、十分後にはローソクを消すことができました。

 今朝は早く起きました。ヘンクは八時半に出かけなければなりませんでした。楽しい朝食をすませてから、ミープは階下へ降りて行きました。外は大雨で、ミープは自転車で事務所に来る必要がないのを喜んでいました。来週はエリーが泊まりに来ることになっています。
      アンネより
(アンネ・フランク著「アンネの日記」文藝春秋 p48-52)

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 緒戦の急襲作戦に成功した南方軍と南海支隊は各戦線とも戦果を拡げ、開戦から六ヵ月でほぼ初期の進攻段階を終えた(一九四二年二月十五日、第二十五軍はシンガポール占領。三月九日、第十六軍はジャワ占領。五月七日、第十四軍はフィリピン制圧。五月十八日、第十五軍はビルマ制圧。同時に外郭要点を占領)。これによって資源地域の東南アジアを新秩序・共栄圏の中核体とし、その外側に触覚を張りめぐらす長期自給態勢は形成されたことになり、当初の作戦目的はおおむね達成されたと考えられた。

 こうして一九四二年六月ごろから占領地をいかにして安定確保するかという防衛戦略の段階に入る。戦略転換は進攻目的が一応達成された結果でもあるが、同時に占領地域が拡大し、補給線も伸びきって国力の限界が見えてきたことにもよる。

 防衛戦略は現状維持を意味する。戦局の主導権を相手側に引き渡すことであり、受動的な消耗戦を強いられることでもあった。補給能力を十分に持たないうえに長大な兵站(へいたん)線を抱える日本軍にとって最も苦しい戦略展開であった。

 防衛戦略期とは、時に外郭要点に対する攻勢作戦のおこなわれることはあっても、それは局部的・限定的なものにとどまり、全般的には占領地域内を固め、兵力を整理、獲得した資源の戦力化を急ぎ、連合軍の反攻に備えることをいう。

 戦略転換を示すのは東京空襲(一九四二年四月十八日)、ミッドウェイ海戦(六月五日)、南方軍に対する大本営命令(六月二十九日)であった。

 束京空襲はドーリットル中佐指揮の爆撃隊(B25一六機)によっておこなわれた。爆撃隊は束京、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を銃爆撃し、通り魔のように東支那海に飛び去った。総反攻の狼煙でもあった。車首脳部は愕然とした。ミッドウェイ海戦は束京空襲への報復の意味も含め、連合艦隊がアメリカ機動部隊の殲滅を企図して仕掛けたものだが、連合艦隊の惨敗に終わった。ミッドウェイ海戦の敗北は戦いの流れを変え、これ以降、日本側は実質的に防衛態勢への移行を余儀なくされる。大本営命令は占領地域の防衛強化、軍政の浸透、軍の現地自給促進による南方要域の安定確保を指示したものである。

 戦略転換はヨーロッパ戦線とも深くつながっていた。一九四二年十一月には連合軍は北アフリカに上陸、第二戦線を設定、四三年二月にはソ連軍はスターリングラードでドイツ軍を撃滅、七月には連合軍はシシリー島上陸、九月にはイタリアが降伏、一九四四年六月には連合軍はノルマンディーに上陸、一九四五年五月にはドイツが降伏した。

アメリカの反撃

 飛び石戦法

 防衛戦略期は連合軍側の反攻作戦期でもある。連合軍の反撃は一九四二年に開始された。東からするアメリカの反攻作戦は南西太平洋方面を重点とした。

 日本側防衛圈(占領地域)の外郭線にとりつき、航空基地を設定、アメリカ・オーストラリア連絡ルートを守るとともに(このときコレヒドールから脱出したマッカーサー大将は西南太平洋連合軍司令官に任命されてダーウィンにあった)、そこを足がかりに外郭線内に楔を打ちこみ、次いで防衛圏内に進入しようとする作戦だった。このためアメリカ軍は日本海軍の機動部隊による真珠湾奇襲のなかで生き残った空母降を拠りどころに反撃態勢を整え、機動部隊を編成して外郭線に追った。

 アメリカ軍は「飛び石戦法」(蛙とび戦法)をとった。次の躍進に役立つ地点に上陸し、その他の島嶼(とうしょ)群は素通りする。上陸にあたっては砲爆撃を徹底的におこない、制空権を奪い、陣地を破壊し、日本軍の二倍から五倍に及ぶ大兵力を展開する。日本軍の奇襲戦法とは正反対で、正面から力をもってする堂々の正攻法である。

 西からする英軍の反攻作戦は一九四三年一月十四日から二十六日にかけて北アフリカ・モロッコのカサブランカで開かれた第二回戦争指導会議(ルーズベルト米大統領、チャーチル英首相。両国の幕僚長も出席)で基本戦略が決定された。ビルマ奪回である。中国は十一個師団をもって雲南から、二個師団をもってレドから、英国は三個師団をもってカレワから、さらに南西沿岸に上陸作戦を試みるというものだった。

 ー九四二年は連合軍の反撃が日本軍の外郭陣地に対する威力偵察と海空軍撃滅に指向される段階である(三月、マーシャル諸島ラバウル、ウェーキ島、南鳥島に対する空襲。四月、ドーリットル爆撃隊の本土空襲、六月、ミッドウェイ海戦、八月、米軍のガダルカナル、ツラギ上陸。十二月、英軍のビルマ西南部、中国軍の同北東部に対する進攻)。

 一九四三年は連合軍の反撃が日本軍の外郭要点に取りつき、そこを奪取する段階である(二月、ガダルカナル占領。ウィングート空挺兵団の北ビルマ進入。五月、アッツ上陸、七月、キスカ上陸)。

 米軍は日本側外郭陣地の南方第一線をなすソロモン諸島から東部ニューギニアにかけての地区(メラネシア)に攻めてきた。この地区に日本空軍の基地が完成されると、アメリカとオーストラリアとの連絡ルートは遮断され、またニューヘブライズ諸島、ニューカレドニア諸島はいうまでもなく、遠くオーストラリア、ニュージーランドまでも爆撃の脅威にさらされる。オーストラリアは開戦以来、アメリカからの海上輸送によってアメリカの対日反攻基地化しつつあったので、連絡ルートはあくまでも守らなければならなかったのである。

 米機動部隊の攻撃は一九四二年八月から四四年二月にかけておこなわれた。日米陸上部隊がまともに対決する緒戦である。この地区の持つ戦略的重要性からともに死力をつくし、とくにガダルカナル島の攻防は凄惨をきわめた。
(丸山静雄著「日本の「七〇年戦争」」新日本出版社 p152-155)

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あなたは人質という言葉を聞いたことがありますか。これは破壊行為に対する最近の処罰方法です。こんな恐ろしいことを想像できますか。