学習通信050621
◎革命的パンフレットをやつぎばやに……

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 しかし、封建貴族とそれ以外の全社会の代表として登場しつつあった商工市民層との対立とならんで、搾取者と被搾取者、金持の怠け者と労働する貧乏人との全般的な対立が存在していた。

だが、このような事情があったからこそ、ブルジョアジーの代表者たちは、一つの特殊の階級の代表者ではなくて、苦しんでいる人類全体の代表者という地位をしめることができたのである。

それだけではない。商工市民層はその発生のはじめから、その対立物をせおわされていた。

資本家は賃労働者なしには存在することができないのであって、中世の同職組合の親方が現代のブルジョアに発展していったのに比例して、同職組合の職人と同職組合に属さない日雇労働者はプロレタリアに発展していったのである。

そして、たとえ大体において商工市民層は、貴族との闘争において同時に当時の種々の労働する階級の利益をいっしょに代表すると称することができたとしても、しかもあらゆる大きなブルジョアの運動においては、近代的プロレタリアートの多かれ少なかれ発達した先駆者である階級の自主的な運動がまきおこった。

たとえば、ドイッの宗教改革と農民戦争の時期における再洗礼派とトーマス・ミュンッアー、イギリス大革命における平等派、フランス大革命におけるバブーフがそれである。まだ一人前でなかった階級のこれらの革命的蜂起とならんで、それにふさわしい理論的表明がおこなわれた。
(エンゲルス著「空想から科学へ」新日本出版社 p26-27)

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 ミュンツァーは、まだなによりもまず神学者であった。彼の攻撃は、まだほとんど坊主だけにむけられていた。しかし、彼は、ルッターが当時すでにやったように、ものしずかな討論と平和な前進を説いたのではなかった。彼は、ルッターの初期の力づよい説教をつづけ、ザクセンの諸侯と人民にむかってローマの坊主どもにたいする武力行動を呼びかけた。

「キリストは言いたもうたではないか、われ平和を投ぜんためにきたれるにあらず、かえって剣を投ぜんためにきたれり、と。では諸君」(ザクセンの諸侯)「は、この剣をもってなにをなすべきか? ほかでもない、もし諸君がほんとうに神のしもべたらんとするなら、福音を妨げる悪党どもをとりのぞき、放逐することあるのみ、キリストはおごそかに命じたもうた、ルカ伝、第一九章、第二七節、かの仇どもをここに連れきたり、わがまえにて殺せ、と。

……諸君が剣をとらなくても神の力がそれをなすだろう、などというつまらぬたわごとを口実にしてはならぬ。さもなくば、諸君の剣は諸君の鞘のなかで さびるだろう。神の啓示にさからうものどもは、あたかもヒゼキヤ、クロス〔キュロス〕、ヨシア、ダュエルまたエリヤがバールの坊主どもを悩ましたように、情け容赦なくとりのぞかなければならぬ。さもなくば、キリスト教会はふたたびその本来の姿にかえることはけっしてないだろう。取入れのときには、神のブドウ畑から雑草をひきぬかなければならぬ。神は申命記、第七章で言いたもうた、偶像崇拝者をあわれむべからず、彼らの壇をこぼち、その偶像をうちくだき、火をもてその彫像を焼くべし、そは、われ汝らにむかいて怒りを発するにいたらざらんがためなり、と。」

 しかし、諸侯にたいするこの要請は成功せずに終わったが、同時に人民のあいだでは革命的な興奮が日に日にたかまっていった。ミュンツアーの思想はますます鋭い形をとり、ますます大胆なものとなった。いまや彼は市民的宗教改革ときっぱり袂を分かち、こののちは同時に直接に政治的扇動家としてたちあらわれるにいたった。

 彼の神学的=哲学的教理は、カトリシズムの主要点だけでなくキリスト教一般のそれをも攻撃していた。彼はキリスト教の形式のもとに汎神論を説いた。それは、近代の思弁哲学的な考え方といちじるしく似ており、ときには無神論にさえつうじるところがあった。彼は聖書を、唯一の啓示と見ることも、不可謬の啓示と見ることも拒否した。彼によれば、本来の啓示、生ける啓示は理性であり、これはすべての時代にすべての民族に存在してきたし、いまも存在している啓示である。

理性に聖書を対立させることは、精神を文字によって殺すことだ。なぜなら、聖書にいう聖霊とは、われわれの外部に存在するものではないからである。聖霊とは、ほかでもない理性のことである。信仰とは、人間のなかで理性が生けるものとなることにほかならない。それゆえ、異教徒もまた信仰をもちうる。この信仰によって、すなわち生けるものとなった理性によって、人間は聖なるものになり、救われる。だから、天国はあの世のものではない。それは、この世において求められるべきものだ。信徒の使命は、この天国を、神の国を、この地上でうちたてることだ。あの世の天国がないように、あの世の地獄もなく、したがって劫罰もない。同じように、人間のあしき快楽と欲のほかに悪魔などというものはない。キリストは、われわれと同じ人間であった。彼は予言者で教師なのだ。そして、キリストの聖餐はパンとブドウ酒をなんらの神秘的な薬味をくわえずに飲み食いする単純な記念の晩餐なのである。

 ミュンツアーはたいていはこれらの教えを、近代の哲学が一時期のあいだその身を隠すためにもちいなければならなかったのと同じキリスト教的な言いまわしのもとに隠して説いた。しかし、異端のきわみの根本思想は、彼の著作のいたるところにうかがわれる。そして、明らかに彼にあっては、聖書のかこつけは、近代における多くのヘーゲル門下たちよりもはるかに本気ではなかったのである。しかも、ミュンツアーと近代哲学のあいだには、三〇〇年の月日が横たわっているのだ。

 彼の政治上の教理は、この革命的な宗教上の考え方とぴったり合っており、彼の神学が当時一般におこなわれていた観念をのりこえていたのと同様、当時の社会的・政治的状態をはるかにのりこえていた。ミュンツアーの宗教哲学が無神論につうじるところがあったように、彼の政治綱領は共産主義につうじていた。

そして、近代の共産主義的宗派で、二月革命の前夜になってもまだその駆使する理論的武器庫の内容が一六世紀の「ミュンツアー派」のそれを越えなかったものはーつにとどまらなかったのである。

この綱領──当時の都市平民の諸要求の総括というよりも、むしろこの都市平民のあいだにやっと発展しはじめたプロレタリア的分子の解放条件の天才的な予見であったこの綱領は、教会をその本来の姿にひきもどし、このいわゆる原始キリスト教的な、しかし、じつはきわめて斬新な教会に矛盾するいっさいの制度を除くことによって、神の国、すなわち予言された千年王国をただちに地上にうちたてることを要求した。

しかし、ミュンツアーは、この神の国ということを、ほかでもなく、いかなる階級差別も、私的所有も、社会の構成員にたいして自立的な、外的な国家権力も、もはや存在しない社会状態と解していたのである。いま存在しているいっさいの権力は、みずから屈して革命に参加しようとしないかぎり、くつがえされなければならぬ、そして、すべての労働とすべての財産は共同のものとされ、もっとも完全な平等が実現されなければならぬ、このことを成しとげるために、全ドイツだけでなく全キリスト教世界にわたって一つの同盟が組織されなければならぬ、諸侯と領主もそれにくわわるよう招請される、もし彼らが応じない場合は、同盟は、最初の機会に武器を手にして彼らを倒すか、殺すかしなければならぬ、というのであった。

 ミュンツアーはただちにこの同盟の組織にとりかかった。彼の説教はますます激しい革命的性格をおびてきた。彼は、坊主を攻撃すると同時に、同じ情熱をもって、諸侯、貴族、都市貴族を痛撃し、燃えるような色彩をもって現存の圧制のさまを描きだし、これに彼の社会的=共和主義的平等の千年王国の想像画を対置した。同時に彼は、革命的パンフレットをやつぎばやに公けにし、四方八方に密使を送った。そのかたわら、彼みずからはアルシュテットとその近くで同盟を組織した。

 この宣伝活動の最初の成果は、アルシュテットのそばのメラーバッハの聖母礼拝堂の打ちこわしであった。それは、「彼らの壇をこぼち、その偶像をうちくだき、火をもてその彫像を焼くべし、そは、汝らはきよき民なればなり」(申命記、第七章、第〔五─〕六節)という、神の命に従ってなされたのであった。ザクセンの諸侯たちは、暴動をしずめるために、みずからアルシュテットにおもむき、ミュンツアーを城によんでこさせた。

ここで彼は一つの説教をおこなったが、それは、ミュンツアーのいわゆる「ぬくぬくぐらしのヴィッテンベルクの肉塊」ルッターから、諸侯がへいぜい聞きなれていたのとはまるで違っていた。背神の統治者ども、とくに福音を異端扱いにする坊主と修道士どもは殺されなければならぬ、と彼は主張し、新約聖書をひいてその根拠にした。背神の徒は、選民のお慈悲によるのでなければ生きる権利をもたぬ。もし諸侯が背神の徒の絶滅をおこたるなら、神は彼らから剣をとりあげるであろう。

なぜなら、剣をとる権能は全教徒のもつものだからである。高利貸や、泥棒、強盗のはきだめ、それは諸侯と領主どもだ。彼らは、水中の魚、空中の鳥、地上の植物、およそ生きとし生けるものいっさいを奪って、おのれのものにする。そのあげく、貧乏人にむかって、「汝盗むなかれ」という戒律を説教さえするのだ。しかも自分はというと、なんでも見つけしだいにひっさらい、農民や職人の皮をはぎ、骨をしゃぶる。しかし、農民なり職人なりは、ほんのちょっとでもまちがいをすると、絞首台にぶらさがらなければならぬ。そして、こうしたすべてのことにたいして、「うそつき」〔Lugner]博士は言う、アーメン、と。

「貧しい人が領主の敵になるのは、領主みずからまねいたことだ。彼らは暴動の原因を除こうとはしない。それではいつになってもよくなるはずがないではないか? ああ、親愛な諸卿よ、主は鉄の杖もて古き壷をいかにみごとに砕きたまうことだろう! こういえば、私は暴動にくみするものとなるなら、それもよし!」(ツィンマーマンの『農民戦争』第二部、七五ページを見よ。)

 ミュンツァーは、この説教を印刷させた。彼のアルシュテットの印刷人は、ザクセン公ヨハンによって国外追放の別に処され、彼自身にも、彼のあらゆる著作をヴァイマル公国政府の検閲に付することが命ぜられた。しかし、彼はこの命令を尊重しなかった。彼は、時をうつさず帝国都市ミュールハウゼンにおいてきわめて扇動的な冊子を印刷させ、そのなかで、

「神をこのように絵にかいた小人にしてしまうという涜神(とくしん)をおかしたわがお偉がたがだれであるかを全世界が見て理解できるように、壁の穴をひろげること」を人民に呼びかけ、そして、次のことばをもってこの冊子をむすんでいる。「全世界は大いなる衝撃にたえなければならぬ。背神の徒が椅子からつきおとされ、低きものがたかめられるような勝負が始まるだろう」と。

「槌(つち)をもてるトーマス・ミュンツアー」はモットーとしてその著の扉に次のように書いた。

「みよ、われわがことばを汝の口にいれたり。われきょう汝を人々の上と国々の上にたて、汝をしてあるいは根をぬき、あるいはこぼち、あるいは散らし、あるいはたおし、あるいは建て、あるいは植えしめん。王、諸侯、坊主の前に、人民の前に鉄(くろがね)の牆(かき)はたてられたり。彼ら戦わんとするも、勝利はいみじくも汝とともにありて、強大なる背神の暴君の没落にいたるべし。」

(エンゲルス著「ドイツ農民戦争」マルクス・エンゲルス8巻選集B 大月書店 p41-44)

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「まだ一人前でなかった階級のこれらの革命的蜂起とならんで、それにふさわしい理論的表明がおこなわれた」と。