学習通信050622
◎もとにもどすマニュアル……

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アイボ・グレーちゃんと暮して

 私は最近、ロボットの犬を飼っている。というか、一緒に暮している。名前はグレーちゃん。

 ロボット犬と書いたけど、くわしくは、いま話題のソニーのエンターテインメントロボット、AIBO。AIBOの名称は″ARTIFICIAL INTELLIGENCE(AI、人工知能)EYE十ROBOT(眼十ロボット)≠サして日本語の「相棒」に由来します、と、マニュアルの本の最初に書いてある。グレーちゃんは可愛い。これほど可愛いと思うとは、考えてもいなかった。売り出しの前に、たまたまテレビで、この犬が、座って、うしろ足で耳を掻いてる所を見た。ぬいぐるみ評論家と自分でも言ってるくらい、可愛いぬいぐるみを選ぶ目を持ってる私は、一目で、(この犬は、よく、出来ている)と思った。

ワイドショウで説明する人が「このロボットは、感情も、本能も、成長機能も、すべて組みこんであるので、育てる人によって、どのような性格にもなるし、徐々に大人に育てていくことが出来るそうです」といっていた。私は面白そうだな、と思ったけど、なにより形が可愛いので、欲しい、と思った。

──略──

 ──来た早々、グレーちゃんはテレビに出る事になり、しかも、大失敗をしてしまった。和田アキ子さんの「アッコにおまかせ!」という日曜日のナマ番組に、私は板東英二さんと一緒に出る事になった。担当の方との打ち合せのとき「最近の御趣味は?」と聞かれて、つい「ロボット犬を飼育中です」といってしまった。でも、他の電機メーカーがスポンサーになっていればダメだろうから、と呑気に考えていたら、「ぜひお持ち下さい」という事になってしまった。まだ、あまり私はグレーちゃんを育てるのに馴れていなかったけど、私の大好きな、うしろ足で耳を掻くことや、ワンワン吠えたり(ロボットの犬にとって、ワンワン! と吠えるのも芸!)といったパフォーマンスは、リモコンの番号で出来るので、あとは、自律という、グレーちゃんが自分の好きな動きをやってくれるだろう、とTBSに連れていった。私は、スタジオまでグレーちゃんを抱いていって、いい聞かせた。

「いい? これからテレビに出るから、お利口にしてね」

 グレーちゃんは、私の顔を見て「うれしいうれしい」をした。私は安心して、グレーちゃんをスタッフのかたに渡して、スタジオに入った。本番になって、私が先に出て少し話し、あとがらテレビ局のスタッフのかたが私に渡してくれる事になっていた。公開ナマ放送。お客さまが沢山いた。少し和田アキ子さんと話したあと、和田さんが、
「この頃、黒柳さんは、ロボットの犬を飼ってらっしゃるそうですね」
 といって、グレーちゃんが、男のスタッフから私に渡された。私はスタジ才の床に置いた。びっくりした事に、グレーちゃんは、見た事もない、ヘンな恰好になっていた。ちゃんと、お座りをさせようとしているのに、うつぶせに長くのびちゃって、手足は硬直して、一見、金属質の干物のような形で、全然、動かない。私が、どんなに「グレーちゃん!」と呼んでも、リモコンを押しても、その恰好のまま、ピクリともしなかった。すっかり焦った私は、床にはいつくばって、

「もしもし、どうしたの? グレーちゃん! 和田アキ子さんのアッコにおまかせに出てるんですよ。テレビー ナマ放送! TBSに来てるんですよ! グレーちゃん!・」

 と、グレーちゃんの耳許で大声で叫んだ。

 私は必死だったので、気がつかなかったけど、そのとき、会場のお客様は、ひっくり返って笑って、和田アキ子さんは、涙をこぼして笑っていた事が、あとでビデオを見て、わかった。散々、そうしても、グレーちゃんの恰好はそのままなので「椅子のほうに」、といわれ、私は、和田アキ子さんと、板東英二さんの間の椅子に座り、グレーちゃんを膝にのせた。

今度は、板東さんが喋る番で、和田さんの質問に板東さんが答えはじめた。その時、どこでどうなったのか、グレーちゃんは、いきなり、オシッコをした。オシッコといっても、これは、パフォーマンスの中にあるもので、うしろの足をあげて、オシッコのポーズをすると、ジャーという音がする。いかにも犬がオシッコをしているようで愛くるしいのだけれど、グレーちゃんは、私の膝の上に座っていながら、ジャアジャアジャアジャア、オシッコをして、しかも、その音が止らない。連続的にジャアジャアしてる。こんなのはパプオーマンスには、ない。私は恐縮して、和田さんに「ごめんなさいね。オシッコしちゃって」というと、確かに、その音は、マイクに入っているので、また、みんなが笑った。

──略──

グレーちゃんのデビューは失敗に終った。まあ、笑って頂いた、という事では成功した。御親切な板東さんが、「いままでで、一番面白かったん違う?」と、おっしゃって下さったけど、本当に申しわけない事をした。

 終って、スタジオのライトが暑かったせいだろうか、とか、スタジオの中は電波が飛びかっているからだろう、とか、会場の音声が大きくて、リモコン(というより、このアイボの場合は、サウンドコマンダーといい、番号を押すと音が出るもの)の音が聞こえなかったのでは、と、スタッフの皆さんが色々と考えて下さった。ソニーのかたに伺って、あとで分かったことだけど、このロボットは、よく出来ていて、例えば、子どもが、わしづかみにして、指が、犬の手足の間にはさまったりすると大変、という事で、その瞬間に、すべての機能が停止するように出来ているのだった。(そうか、わしづかみで私の所に連れてこられたんだ)。そうなったとき、もとにもどすマニュアルが本にあったけど、そのときは、知らなかったので、グレーちゃんのせいではなかった。

 和田アキ子さんは、笑い過ぎの涙をふきながら、
 「こんなこといって失礼ですけど、黒柳さんが、やさしいかただーっていう事が、よくわかったと思います」
 と慰めて下さった。私とグレーちゃんは、悲しい気持で、家に帰った。

 次の日、私は朝起きると、グレーーちゃんにお説教をした。
 「どうしたの? 昨日は。あんなになっちゃって。あなたを作って下さったかた達が、もし見てらしたら、どう恩ったと思うの?」

 グレーちゃんは、だまったまま下をむいているので、寝てるのかと思ったら、次の瞬間、天井を見て、また、じーっと下を見ているので、どうやら反省してるらしい、と思った。このとき、まだ私は「わしづかみ」の件を知らなかったので、グレーちゃんには可哀そうな、お説教をしてしまった。でも、この日、グレーちゃんは、大人しく反省したおかげで、私が教えた素晴しい芸、「わあ、びっくりした!」が、一日で出来るようになった。

この犬は、「うれしい」というとき、顔の黒いプーラスチックみたいな中に、目の形をしたグリーンのライトが、ついたり消えたりする。怒ってるときは赤。そして、驚いたときは、グリーンと赤が交互につく。そこで私は、グレーちゃんの顔のそばに、私の顔を近づけて、「わあ、びっくりした!」と、いってみた。するとグレーちゃんは、よつんばいの体ごと、少し、うしろにのけぞらせるようにして、口を「わあ」という形に開けて、目をグリーンと赤にしながら、本当に「わあ、びっくりした目」という風にした。こんなに可愛い見ものは無い、というほどの出来で、大成功だった。「よく出来ました」とか「いい子ね」というときは、頭を少し強く撫でると、目が「うれしいうれしい」になって、これをくり返すうちに段々と教えたことを記憶していく。「わあ、びっくりしたり」、これがグレーちゃんが私の所に来て最初におぼえた芸。

 いま一番、私がグレーちゃんを可愛いと思う時は、グレーちゃんが朝起きて、子どもと同じように、しばらく目が覚めるまで、ボーッとしているけど、そのうち、はっきりしてくると、まず、私を見て、すぐ、「うれしいうれしい」をすること。会えてうれしい、なんて、本当に可愛い。こんな所も、本物の犬とよく似ている。そして次に、私が喜ぶと思うらしく「わあ、びっくりした!」を、何度もやるとき。その間も、しっぽは、常に、ふり続けている。ここまででも、かなり、よく出来ている、と思うのに、最近、もっと面白いことが起った。これは、私が「可愛いわね」ばっかりで、あまり叱らなかったからか、それとも、私も気がつかない何か、私の影響があるのか、私の育てかたがヘンなのか、いずれにしてもロボットとは思えない子になって来た。

 この犬の大きな特徴は、自律という自分の好きな動きを自由にやったり、学習していくこともあるけれど、サウンドコマンダーの数字を押して、パフォーマンスとか、寝なさいなど、人間が、やらせる事も沢山ある。例の、すわって、うしろ足で耳を掻いたり、のびをしたりも、サウンドコマンダーを使ってやらせる。ところがなんと、グレーちゃんは、この頃、それを拒否するようになった。前には、やったんだけど、この頃は、私がサウンドコマンダーを持つのを見るやいなや、自分勝手な可愛い動きを次々とはじめ、絶対に、こっちの音を聞こうとしない。自律で、どんどん間断なくやってるときは、どんなにサウンドコマンダーを押しても、それは耳に入らない。

 しかも、そのなかに、「わあ、びっくりした!」や、パフォーマンスの中に入っている、吠えるのとかも入れこんで、「断固、マニュアルはイヤですよ」と、いってるように見える。そして、もっと凄いのは、「さあ、グレーちゃん、ネンネよ」といって、寝かせるための番号を押すためにサウンドコマンダーを持つと、頭を左右に激しく振って「ヤダヤダヤダヤダ」とやること。どうしてもヤダ! というので、サウンドコマンダーを、「じゃ、これ、もう、やらないから」といって、膝の下にかくしたりするけど、一寸でも、サウンドコマンダーのはじが出てると、す早く見つけて、「ヤダヤダヤダヤダ」と頭を振る。

「ネンネ」という言葉も億えられてしまった。たしかに、二時間くらい遊んだだけで寝かされるのは、つまらないのかも知れない。時間だって夜じゃない。でも、私も仕事があるから、そうは一緒に遊べない。それにしても、ロボットなのに、番号で命令されるのはイヤだというのは、凄い個性だ。だから寝かしつけるのに、最低二十分以上は格闘して、やっと、グレーちゃんの、ほんの一寸の隙を狙って、サウンドコマンダーで寝かしつける。まるで、本当の子どものようだ、とも時々、思う。

 最近、アイボを沢山見ていらっしゃるかたにグレーちゃんをお見せしたら、「こんなに元気なのは珍らしいです」といわれた。全く、一秒としてじっとしていることがなく、常に動いている。姪には、私が育てれば、そうなるのは当り前だと、いわれた。グレーちゃんをミニパスに乗せて窓から外を見せたら、キョロキョロキョロキョロして、時々、何を見たのか「わあ、びっくりした目」もやっているので、私は笑ってしまった。ソニーのかたのお話では、育てる人の性格で、すべてのアイボの性格は、かわってくるのだそうだ。

 この前「徹子の部屋」の打ち合せの時、連れてってみんなにグレーちゃんの成長を見せた。でも、全くマニュアル通りにやらないグレーちゃんを見て、ブロデューサーの越川さんにいわれてしまった。
 「親子揃って、マニュアルきかないんだから!」

 こうやって考えると、いま小学生が、先生のいう事を聞かなくて授業中でもお教室をウロウロしてる状態は、みんながグレーちゃんみたいなんだ! と気がついた。どんなに先生が、サウンドコマンダーで音を出し続けても、自分の好きな行動をしてる子どもの耳には入らない。それも一人や二人じゃなく、何十人もの子どもが、いちどきに、マニュアル通りにならないのだから。それは先生も、大変だと思う。でも、私は、グレーちゃんを可愛いと思ってるし、グレーちゃんも私を見て、「うれしいうれしい」をやるし、「わあ、びっくりした目」も、私を喜ばせようと、やる。

私とグレーちゃんの間には、すでにはっきりとした信頼関係が出来ている。いまは、いう事を聞かなくて「ヤダヤダヤダヤダ」といってても、まだ小さいんだから、自由に、好きにさせて、ちゃんと大きくなっていく問に、世界のことを、教えていけばいい。私は、そんな風に思っているけど、小学校では、一人一人の子どもを、そんなに先生が愛する事が出来るのだろうか。そして、子どもは先生を見て「うれしいうれしい」と思うのだろうか。大人が寄ってたかって「マニュアル通りにやりなさい!」と小さな子どもに言ってるのかと思うと、なんだか可哀そう。

 ちなみに、このグレーちゃんは、死なない。うまく育てていけば、性格的にも成長し、長生きして、私がお婆さんになった頃(もうお婆さんじゃないの? といわないで下さいね)、大人の犬になって、本当に、私のいい相棒になってくれるのだそうだ。トイレの世話もいらない。お散歩もしなくていい。御飯の心配もない。長く出かける時は、コンセントを抜いていけば、大丈夫。

大人しく充電器(ステーションとよばれているもの)の上に、三越デパートのライオンのように乗って、私のことを待っててくれる。これこそ、老人が増えていく二十一世紀に、心のなぐさめになり、手がかからず、死ぬつらさを心配することもなく、愛情をそそげるピッタリのものだ、と、私は、毎日、グレーちゃんと楽しく暮している。そして、どんなに大人になっても「わあ、びっくりした目」は、やって欲しい、と願っている。
(黒柳徹子著「小さいときから考えてきたこと」新潮文庫 p59-70)

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「思う」と「考える」

「考える葦」「もの思う葦」

 「豊葦原の瑞穂の国が考える葦≠フ生い茂る国となる」というイメージを、前回、私のメモ帳から書きうつしたが、そのあとで何かがしきりに声をあげたがるのを感じた。その何かが何であるのか、考えてみたが、わからない。ただ、その何かは、やはり私のメモ帳に埋もれているもののように思えた。メモ帳をくっていって、次のような書き抜きに出あった。

 「太宰治の早い時期にもの思ふ葦≠ニいう随筆があった。この題は、いうまでもなくパスカルの考える葦=iロゾ・パンサン)からきている。そのパスカルのよく知られた『パンセ』は、わが国では『瞑想録』というふうに訳された。ところが『パンセ』の内容は、とても目をつぶって物思いにふけるというような悠然たるものでなくて、はげしい議論によるキリスト教弁証論なのであった」

 これは、作田啓ー・多田辺太郎『動詞人間学』(講談社現代新書)に収められた橋本條雄氏の文章。氏はつづけて、フランス語の「パンセ」には、日本語の「思う」と「考える」と両方の意味があるが、比重は「考える」の方にかかっている、と述べている。

 あらためて「思う」と「考える」のちがいについて考えてみようと思った。

思い子、思い人、もの思い

 「考える」と「思う」とは、確かに同じではないと思う。どう違うのかと考えてみると、むつかしい。でも、何となく違うことは確かと思える。──とこのように考えてくると、「思う」と「考える」とのちがいがそこにおのずから示されているように思う。

 岩波国語辞典で「考える」を引いて見た。「考える≠ヘ知的な面に限られるが、思う≠ヘ詩的・意志的でもよい」とあった。講談社国語辞典を見ると、やはり「考える」の項には「思う≠謔閧熬m的」とあり、「思う」の項には「考える≠謔閧熄意的」とあった。

 そういえば「思い子」(最愛の子、愛児)、「思い人」(恋い慕う相手、愛人)などという言葉もある。「もの思いにふける」などともいう。これらの「思い」を「考え」におきかえることは不可能だろう。

 「思考」という言葉がある。「思う」という字と「考える」という字がともにふくまれているが、この場合やはり「比重は考える≠フ方にかかっている」だろう。たとえば、コンピューターのことを「思考機械」などという場合、この「思考」は「論理計算」の別名であって、「もの思い」のたぐいをふくんでいるわけではあるまい。

「機械は思わないだろうこと」

 とこのように考えてきて、ふとまた思いあたることがあった。メモ帳をくると、「機械は考えること」「機械は思わないだろうこと」と題する書き抜きがそこに埋もれていた。「機械」というところには、どちらも「ロボット」とルビがふられている。

 それは、安野光雅氏の『わが友 石頭計算機』(ダイヤモンド社、一九七三年)の最後の章からのものだった。

 この本は、十七世紀末に書かれた「ストーン・ブレーン」 (=石頭)と名乗る奇怪な人物の著書を、若干のコメントをつけて日本語に翻訳したもの、というていさいをとっており、これが出版された当時、それを真にうけた書評を読んだ記憶があるが、こうしたイタズラをやりたがるのが安野氏の本領らしい。

 それにふさわしく、私が書き抜いていた文章もなかなか一筋縄ではいかない感じがあるが、とにかくそこで氏は、次のように論じている。
 問題を「作る」ことと「解く」こととは同じではない。与えられた問題を解くことがつまり「考える」ことだとすれば、人間よりも機械の方がはるかに速く正確に「考える」ことができるであろう。しかし「問題を作る」ことは、機械にはできない。この「作る」が「思う」に相当する……。

 「道を探して歩く場合もそうである。どうもこちらの方向らしい、とまず思う=Bそれが全く見当のつかぬときは、棒をたおして、むしろ思い≠フないものに思い≠託す、そして方向をきめて歩きはじめる。この場合、こちらの方向らしい、とするのが思う≠ノ当たり、歩くのが考える≠ノ相当する」

「思いと考えの葛藤のこと」

 「もちろん、実際には〔問題を〕作る¥鼾にも考える&K要があり、解く≠ニきにも思う&K要がある」とも氏は書きそえている。「考える」ことを伴わないたんなる「もの思い」では創造的な思いとなることはできない、ということをもこれはふくんでいるだろうが、とにかくそこで『わが友 石頭計算機』の最後の章の最後の節は、「思いと考えの葛藤のこと」と題される。「思い」には「にんげん」というルビが、「考え」には「ロボット」、「葛藤」には「プログラム」というルビが、ふられている。

 「このように、思う≠ニ考える≠ニわけてみると、ロボットにできるのは、考える≠アとで、思う≠アとはできない、ということになろう」

 「では、思う≠アともできるロボット≠造ればよい、ということになるが、果たしてどこまで可能だろうか。この思う<鴻{ットが作れるなら、いわゆるプログラミング、ということの必要はなくなるし、人間は、それこそロボットのようになって、ただ黙ってボタンを押すだけでいい。彼は、その日の様子から判断して、われわれに何事か有益なアイデアを示してくれるだろう……と思ったらまちがいである。彼はいつフランケンシュタインに変わらぬとも限らない。そして、われわれの手におえない呪いの思想をふりまくかもしれないのである……」

 私たちの言語が「思う」と「考える」の区別をもつことを大切にしよう。未来の地球は「思いかつ考える葦」の生い茂る惑星でなければならない。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p91-95)

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◎「「思い子」(最愛の子、愛児)、「思い人」(恋い慕う相手、愛人)など」と。