学習通信050623
◎半歩ほど前を歩む……

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 教訓としてではなく実例としていくつかの場合をあげれば十分だろう。

 不案内な洗濯女が夜遅くなって汚れもの≠洗いに来て,間違って患者の病室に突然入り込んでしまい,ちょうどうとうとしかけていた患者を驚かせる。患者自身はその理由がわかれば笑ってすませ,人にそれを告げることもしないだろうが,このことが与える影響は取り返しのつかないものである。このとき,看護婦はちょうど夕食中であってそれはそれでいいのだが,彼女は洗濯女が迷って違う部屋に入り込むことのないようにしておかなかったのである。

 患者のいる部屋は窓をいつも開けているだろう。しかし,その部屋の外の廊下には大きな窓がいくつかあるのに,その一つとして今まで一度も開けられたことがないかもしれない。それは,病室の責任には外廊下の責任も含まれるということが理解されていないためである。その結果,よくあることだが,看護婦は病室を家全体の汚れた空気の換気孔にすることに精を出すということになる。

 使われていない部屋,ペンキを塗ったばかりの部屋,きれいに手人れされていない戸棚や食器棚は,ともすると家全体の汚れた空気の溜まり場になりやすい。なぜならばそれは,管理者がこれらの場所に常に外気を入れ常に清潔であるよう手はずすることを少しも考えないからだ。彼女は自分がそこに入ったときに自分で窓を開けるだけなのだ。

 心をかき乱す手紙や伝言が届けられ,重要な手紙や伝言が届けられないことがある。患者にとって会うことが重要な人が面会を断られ,会わないでいることのほうがもっと重要だという人が面会を許されることがある──これは責任者が自分がそこにいないときに何がなされるか≠ニいう疑問をもったことがないためである。

 とにかく,間違いなく言えることは,一人の看護婦が患者に付き添い,ドアを開け,自分も食事をとり,伝言を受けることまですべて同時にはやりおおせないということである。にもかかわらず,責任者がこれは不可能だときちんと受け止めているとは決して思えない。

 そのうえ,この不可能なことを無理してでもしようという行為が何よりも,気の毒な患者のあせりと不安を高めるのだ。

 あなたが覚えていなくても,患者はあれもこれも忘れていないことを誰も考えない。患者は,面会人や手紙が来るかどうかを考えなければならないだけでなく,それが来るかもしれないちょうどその日その時刻にあなたが取り継いでくれるかどうかも考えなければならない。だから,あなた自身が取り継ぐ≠ニいう中途半端なやり方は,患者によけいな心配をさせるだけである。ところが,あなたがそこにいてもいなくてもそれが必ずなされるようにあなたが手配できれば,患者はそのことをまったく考えなくてよい。

 これらの理由から,責任者が管理の精神をもっていないかぎり,患者は自分でできることは自分でしたほうが心配が少なくてよい。

 患者にとっては,ある手紙の返事のことが念頭を去るまで,すなわち,その返事を書いてくれることになっている人が実際に書いてくれるまでに,その人と4回話し合い,5日間待ち,6回も心配するよりま,すぐに自分で返事を書くほうが苦労は明らかにずっと少ない。
(フローレンス・ナイティンゲール著「看護の覚え書き」日本看護協会出版会 p44-47)

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綱引きの思い出

 どこかで、こんな言葉を読んだことがある。
 「我々は祈願するものから出て祝福するものにならなければならない」
 一丸世紀後半のドイツの哲学者ニーチエの言葉である。

 これを文字どおりに理解するなら、人は最初、つまり若年期には人に求めたり願いを念じたりしながら育つけれど、どこかで転換点がやってきて、大人として人に与える人格となる必要がある、ということのように思う。キリストはこのことを、「もっているものをすべて与えよ」とか、「あなたがしてほしいと思うことを人にしてあげなさい」といった言葉で解いている。日本語の慈悲や施しも、これに近いイメージかもしれない。いずれにせよ、個人として生きるうえで、手本としたい考え方の一つであろう。

 とはいえ、自分の時間や身を犠牲にして人に与えるなんて、「言うは易く行うは難し」の代表格ではないだろうか。もし私が、「あなたはちゃんと与えていますか」などと聞かれたら、恥ずかしくて笞えに窮してしまうことだろう。私のような凡人が一人の人間としてできることは、誠に頼りないものだからだ。

 だがしかし、実はこのニーチエの箴言(しんげん)がキーワードになる場面があると思う。それは、リーダーと呼ばれる人たちと、そこに集うメンバーたちの関係が生まれるときだ。そしてその関係の中では、この仮言は難しいどころか、とても楽しいことにさえなり得るように思えるのだ。

 私が初めてリーダーについて意識的に考えたのは、小学五年生の秋、運動会で白組のキヤプテンになったときだった。
 盲学校の小学部は、当時全部で六〇人程度だったと思う。それを半分に分けて赤組と白組にして対戦するのだから、組の人数は三〇人程度の小さなダルしフになってしまう。けれども、一クラスが多くて四、五人という世界だから、三〇人の、それも学年の違う友だちをまとめることは、かなりの難事業になるのである。

 競技にはちょっとした工夫がこらされていた。たとえば行進などには、まったく見えない子と、少し見える子がパートナーを組んで参加する。綱引きのときは、そうして行進し、ポジションについてから、手を離して綱をもつ。

 音もとても大事な役割をもっていた。球入れや徒競走などでは、ゴールで先生が楽器を鳴らしてくれる。一コースは鈴、ニコースはカスタネット、三コースはタンバリンといった具合である。私たちは、自分のコースの音を覚え、それを頼りに走っていく。

 自転車で校庭を走りまわる「自転車パレード」では、トラックのコーナーに先生が立ちやはりいろいろな楽器を鳴らしては「ここがコーナーだよ」とシグナルを送ってくれる。これで、まったく見えなくても悠々と白転車を乗りこなすことができるのだ。もちろん、すべて補助なしである。私は自転車が大好きだったので、このパレードは毎年一番の楽しみだった。片手を離して観客に手を振ったり、直線コースを両手離しで走ったりもする。こうして、運動会ではいつも、まるで音楽教室のリトミックみたいにたくさんの楽器が鳴り響いているのである。

 その運動会で、私は白組のキャプテンになった。そして赤組のキャプテンは、クラスメイトで、声が美しく利発で細かなことにもよく気のつく女の子だった。話し合いや応援の練習が、毎日昼体みのほとんどを割いて続いた。議題は目白押しだったけれど、私たちはそれなりに順調にことを進めていた。幸い、私と仲良しだった子たちがまとまって白組になっていて、彼らと協力して小さい子たちをリードしながら、練習を続けることができた。

 ところが、私の力ではどうしようもない難題が持ち上がった。それは、みんなをとどこおりなく整列させることだった。なあんだ、そんなことか、と思うかもしれない。だが、見えない子供同士で全員が正確な位置についているかどうかを確かめ、安全と出席を確認するのは、なにげなく点呼をとるのとはわけが追違っていた。

 整列のときに、少しでも見える子にお願いしてみんなをまとめてもらうというやり方があった。サブリーダーを上手に活用すれば、整列はそんなに難しくなかったかもしれない。だが私は、その方法をあえてとらなかった。もしまとめ役の子が見落として誰かがいなくなったりしたら、私の責任である。それに、限られた時間で一人ひとりと心を通わせて信頼してもらうためには、まだ人を使って整列させられる段階でもなかった。

 結局私は、一人ひとりの名前を呼んでは返事を頼りに手探りで整列の位置を確かめ、順番が違っていないかどうか確認した。けれど、そのとき決まっていなくなってしまう人がいた。それが、何と私の大の仲良しの一人だった。元気とちやめっ気いっぱいだったその子は、なぜだか整列のときになるといなくなってしまい、私は一年生の子たちが並び終わってもなお、その子の名前を呼びながら校庭を探したりもした。

 いま思えば、実はその子はそこにいて、ちょっといたずら気を出して返事をしなかっただけなのかもしれない。あるいは本当に何かをとりに教室へでも戻っていたか、私に協力するつもりで、小さい子たちを探しに行ってくれていたのかもしれなかった。だが私からすれば、とにかくみんなと一緒に並んでいてさえくれればよかったのだ。仲良しなら、そのくらい分かってくれていると思ったのに、と少しショックでもあった。「みんな、お願いだから素早く並んでよ」と心の中でつぶやいてみても、はい、と即座に列を作ってもらえるはずもない。そんなこんなで、整列は私にとって、大きな頭痛の種だった。

 整列ができなければ競技にも入れない。自分が並ばなかったわけでなくても、叱られるのはもちろんキャプテンだ。友だちでいるときには仲良しだったりかわいい後輩であっても、こうして真剣勝負になると、ことは一変するものらしい。このとき私は初めて、リーダーとは先輩とも友だちとも違う関係で、ふだんとは別の何かを発揮しなければならないものであることを理解したのである。だが、それならリーダーとして、いったいどうすればよいのだろうか。
(三宮麻由子著「目を閉じて心開いて」岩波ジュニア新書 p68-73)

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仲間とともにそして何時も仲間の半歩前を

 たたかいの人生をささえる生きがい、それは学習と連帯にあるというのは、私たちの体験にもとづく一つの結論でした。私たちは一人ぼっちではたたかえません。組織ぎらいなどというぜいたくなものとは無縁の存在です。

 私たちは、そもそもの時期からほんとうにすぐれた友人、仲間たちに恵まれてきました。何十年たって互いに白髪をいただくようになったいまでもツーといえばカーと通じあえる、そういう友をもっていることはほんとうに幸せなことだと思います。と同時に共通の理想に結ばれる新しい仲間をつくっていく、この仕事ほどやりがいのある仕事はないといえるでしょう。私たちもそういうふうにして前進してきました。

 そして、そのなかから、仲間をつくり仲間とともに、しかもその半歩ほど前を歩むことの大切さを学びつづけたのです。
(有田光男・有田和子著「わが青春の断章」あゆみ出版社 p247-248)

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◎「責任者が管理の精神をもっていないかぎり,患者は自分でできることは自分でしたほうが心配が少なくてよい」と。

統制ではなく管理の精神=c…リーダーの精神にも。