学習通信050626
◎二十世、十九世紀型の「普通の国」……

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 りっぱだった収容所のアンネ

 フランク氏は道路工事の仕事にまわされたが、幸い監督はいい男で、フランク氏が同じ班の若い男たちに負けないように働こうとすると、「もっと加減して働けよ。へばるとガス室へ入れられるぜ」といつも注意した。

 しかしファン・ダーン氏はひどい生活のためだんだん健康を害し、ついに十月五日、ガス室に送られてしまった。これがアウシュビツで行なわれた最後のガス殺人だった。フランク氏の作業班は間もなく解散になった。

 気候は次第に寒くなってきた。寒い冬に屋外で仕事をさせられたら死んでしまうと思って、フーランク氏は屋内の作業班に入れてもらおうと決心した。幸い、申し出が許されて、屋内でジャガイモの皮むきをやらされた。ところが、喜んだのもつかの間、残酷な監督に虐待されて、彼はすっかり健康を害してしまった。

 十二月のある日曜日の朝、フランク氏はとうとう起き上がれなくなった。しかし幸運にも、同僚たちがユダヤ系オランダ人の医者にうまく話をしてくれたため、フランク氏は病院に入れられた。病院では待遇も悪くなかったし、それにペーターがときどき、こっそり食物を待って見舞いに来てくれた。

 一九四五年の一月にはいると、アウシュビツに遠雷のようなソ連軍の大砲の音が聞こえるようになり、一月十七日、一万一千人の囚人を全部ドイツヘ移せという命令が出た。ただし、病人だけは残されることになった。したがってフランク氏も残されることになり、。ペーターとの最後の別れとなった。ペーターと歯医者のデュッセル氏は、どこでどう死んだかわからない。一万一千人の囚人たちは、爆撃を免れたいちばん近い停車場まで、十日間の強行軍をさせられたため、多くは途中で倒れ、生き残った者は数えるほどしかなかった。

 一月二十七日、アウシュビツにソ連軍がやって来て、フランク氏は救出された。彼は少数の生存者といっしょにコートビツに移され、そこからチェルノビツヘ、そして最後に黒海の港オデッサに移された。フランク氏は西ヨーロッパから来た他の生存者と共に、ここからニュージランドの船に乗せられて、病み疲れた身を、ただひとりオランダヘ帰った。

 コートビツにいたとき、フランク氏はオランダから来たある友人に、アンネの母親が一月に過労のために死んだという悲しい知らせを聞かされた。アンネとマルゴットはそれより数ヵ月前にドイツヘ移された。あとでフランク氏は、アウシュビツの駅で別れてから妻と娘たちにふりかかった運命について、くわしい話を聞いた。

 アウシュビツの収容所では、女も男と同じように、労働のできる者とできない者とにえり分けられ、年寄り、小さな子供、赤ん坊、身体の弱い者はすぐガス室へ入れられて殺された。残された者は男と同じように裸にされ、頭を丸坊主に刈られ、シャワーを浴び、ぼろを着せられ、そして腕に番号を入墨された。しかしチフスが蔓延していたため、女たちはすぐ労働はさせられず、しばらく隔離所に入れられた。

 秋も浅いある日、S・Sの監視兵がマルゴットを手ごめにしようとした。娘の危難を見た母親は、気違いのようになってかけつけ、監視兵にむしやぶりついたが、かえってなぐり倒され、その場から引きずり去られた。アンネもマルゴットもそれきり母親に会えず、二人は母親の安否を気づかいながらドイツヘ連れて行かれた。

 アウシュビツの収容所で生き残ったある婦人は、収容所におけるアンネについて次のように語った。

「フランク家の三人の女のうちで、一番年のいかないアンネが最も勇敢で元気がありました。彼女は何時間も続いた収容所内のつらい行進ちゅうも、しっかりした態度を保ち、泣言ひとつもらしませんでした。彼女はいつも乏しい食物を母親や姉に分けてやり、お腹のすいている人には、とっておきの小さなパン切れを惜しみなくやりました。彼女は勇気と精神力であらゆる苦しみに耐えました。りっぱな子供でした。実に驚くほどりっぱな……」

アンネの死

 アンネとマルゴットが一千人の若い女たちと共に、ドイツのベルゲン・ベルゼンヘ移されたのは一九四四年十月三十日であった。アンネはそこでもアウシュビツの収容所におけると同じように、勇気と忍耐力を示した。どこの姉妹でもやるように、アンネはときどきマルゴットと口論した。たとえばこんなことがあった。──あるときアンネは仲間の女たちに、白分たちの小屋でこっそりスープのごちそうをこしらえる計画だと語った。マルゴットはこれを知って、アンネが自分たちの秘密をもらしたことを、カンカンになって怒った。このことについて、ベルゲン・ベルゼンの収容所で二人を知っていたリエン・ヤルダチという婦人は、こう語った。

 「しかし、それは全くアンネらしいですよ。親切で、直情的で、感情が豊かで、開放的なアンネは、心の中にあることを決してかくしませんでした。このため、アンネはマルゴットよりつらい目にあいました。マルゴットはアンネよりずっと控え目で、人あたりがよかったので、気性の強いアンネより思いやりのあるような印象を与えました」

 一九四五年二月、二人ともチフスにかかった。マルゴットはアンネの上の段の寝台にねていたが、ある日彼女は起き上がろうとして床へ落ちてしまった。すでに衰弱しきっていた彼女は、ショックのため死んでしまった。マルゴットの死は、ナチのどんな極悪非道な行為でさえなし得なかったことをした。──姉の死でアンネの気力はガックリくじけた。マルゴットの死体が運び去られるのを見たアンネは、ベッドの中で頭をもたげてつぶやいた。

「お父さんもお母さんも、もう死んでいるに違いないし、これでわたしは家へ帰る目的がなくなった」

 それから数日後、連合軍の部隊がすでにフランクフルトに進入していた三月はじめのある日、アンネはローソクの灯が消えるように、静かに息をひきとった。(訳者編)

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チャイルド・ソルジャー

「はじめて銃を持ったときは、うれしかったです」
 十歳から十三歳までの三年間、少年兵だったという小柄な男の子は、うつむきかげんで私にそういった。
「命令で兵隊になったの? それとも志願したの?」
 私の質間に、彼は顔をあげて、きっぱりといった。
「自分からです」
「どうして?」
「友だちも、みんな、なるといってたし、闘いたかったから」
「人を撃ったの?」
「撃ちました。何度も銃撃戦に参加しましたから」
「撃ったとき、どんな気がした?」
「うれしかったです」
「人が死んで血なんか流れたのを見て、どう思ったの?」
「やった! と思って、うれしかったです」
「お金を払ってくれると大人は約束しましたか?」
「くれるといいましたけど、くれませんでした。でも、お金より闘いたかったんです」
「あなたは、自分が正しいことをしている、と思っていたんでしょうね」
「そうです」
「もし、いま銃をあなたに渡したら、あなたは、また人を撃ちますか?」

 私は、自分でも、こんな風に少年を問いつめるみたいなのはイヤだと思った。この子は、たった十歳だったんだから。でも、少年兵が、どんな考えで、そして、どんな状況で、内戦に参加していたかは、ちゃんと知らなければならない。少年の黒い顔から、汗がふき出して流れた。少年は、小さい声で答えた。
「もう、撃ちません」

 この会話を聞いたら、みなさんは、なんて凶暴な子どもだろう、とお思いかも知れない。でも、この子は、大人たちにあおられて、兵隊になった。戦争が終わったいま、殺された側の人たちから人殺しと呼ばれ、離れた村に住む両親も、この少年兵の親ということで、まわりの人たちから嫌われているという。

 生活は、すべて戦争で台無しになった。この子は、行くところがなくて、アメリカ人の宣教師が一九九二年に作った、子どもの、「いやしの家」にいた。戦争の犠牲になった子どもや、兵隊だった子どもたちを藪の中から探し出し、ここに連れてきて、社会復帰できるようにする。心のケアもしてくれるという。小柄だけど、いま十七歳になったという、その少年を私は見た。

(自分のしたことが、なぜ、いけなかったんだろう。正しいことだと思ってやったのに。一体、あれは何だったんだろう)。

私は、きっと、その子がそう思っているのだろうと思った。だけどいま、誰も彼に対して責任をとってはくれない。私は、涙をこらえるのに必死だった。その子とダブって、私には、日本の軍国少年や、特攻隊の若者や、我先にと死んでいった志願兵のことが浮かんだからだった。特攻隊の生き残りで、一生涯、屈折したまま死んだ俳優の顔も浮かんだ。戦死した戦友たちに済まない、という思いが、生きている間中、彼を悩ましていたことも知っていた。彼の心の傷の責任も、誰もとってはくれなかった。

「いま、あなたに対して、石を投げたり、悪口をいったりする人のことを、あなたは、どう思います?」
 少年兵だったりベリアの少年は悲しそうに答えた。
 「仕方がないです。戦争だから」

 十一歳の女の子は、つい最近レイプされ、たった一人で悩んでいたので、ここに連れてこられていた。チャイルド・ソルジャーの中には、少女もいた、と聞いていた。でも、あまりにも小さい女の子で、オドオドしていたので、可哀そうで、私は、何も聞くことが出来なかった。

 次に部屋に入ってきたのは、十六歳のやせた少年だった。その子は、ひじの上のところから下の両腕がなかった。その子は、敵が村に攻めてきたとき、民兵としてかり出された。十三歳だった。武器は、どっちも斧だった。
 「斧で、腕をやられました」
 「あなたは、いまでも、あなたの腕を切った人たちを憎んでいますか?」
 私の質間に、両腕のない少年は、おだやかな顔でいった。
「憎んでいません。ここに来て、許すということをならいました。それに、戦争ですから」
 その子の両親は生きているけど、両腕のなくなった彼に「家に帰って来るんじやない」といったという。この子も帰るところがない。少年はいった。
 「でも、いい義手を手に入れられたら、家に帰れます。学校にも行けます。どんな仕事でも出来ます」

 この施設は、首都のモンロビアから、ガタガタ道を車で二時間半か三時間行った、人里はなれた静かなところにあった。傷を持った子どもの心のケアは、なるべく、そういう所がいい。ここには現在、男の子が五十四人、女の子が十四人、収容されている。少年兵だけで逃げまどっているとき、食べるものがなくて、人肉を食べた子も中にはいるという。少年兵たちのリーダーは大人で、多くの人がマリファナとか、いろんな向精神薬を飲んでいた、と話してくれた子もいた。想像するだけでも胸が痛かった。町の中をうろついていたストリート・チルドレンの中にも元少年兵はいた。

 戦争中、十二歳だった、もとNHKのアナウンサーの山川静夫さんは、静岡の大空襲のとき「戦闘員は防空壕から出ろ!」とメガホンでいわれて、「日本を守るのは自分たちだ!」と大叩きで焼夷弾が落ちてくるのを防ごうとした。あたり一面、火の海の中で、戦闘員といわれた十二歳の少年は火と闘っていた。頭の上を大きなB29が白いお腹を見せて帰って行った。ハイテクの大きな飛行機と、自分は火叩き。それでも山川さんは、「負けるものか!」と思っていた。リベリアに行く前、八月十五日の「徹子の部屋」のゲストに来て頂いて聞いた話だった。山川さんのこの話も、リベリアの少年たちと重なった。

 前にもちょっと書いたけど、私は戦争中、駅で兵隊さんを見送ったことが忘れられない。自由が丘の駅で、出征する兵隊さんを見送りにいくと、スルメの焼いた細いのを一本もらえた。もう、その頃は、たべるものが全くなかったし、それまでたべたことのないスルメの味は魅力だった。私は、せっせと、日の丸の小旗を振っては、「万歳! 万歳!」と大人にまじって声を出した。そして、スルメを一本もらった。その見送った兵隊さんたちの、何人が生きて帰って来られたのだろうか。たったスルメ一本のために、子どもだったとはいえ、何も考えずに旗を振って見送った私を、私は許せないでいる。今でも、あの自由が丘の駅の光景をはっきりと億えている。六十年近く経っても、たったこれだけのことでも、これは私の心の傷になっている。

 (どんなことがあっても、子どもを戦争にまきこんではいけない)。サウナのように、むし暑い部屋。もと少年兵だった子どもたちと、膝がくっつくくらいの狭い部屋で、むかいあいながら、私は、そう思っていた。私が悲しそうな顔をしていたからだろうか、私を慰めるように、両手のない男の子がいってくれた。

 「でも、ここには御馳走がありますから」
 帰りがけに、チラリと見たたべものは、ユニセフが必死で手に入れた、子どもたちのランチだったけど、私には、とても御馳走とは見えなかった。でも、国中の子どもが満足にたべていないことを思えば、御馳走かも知れない。両手がなくて、どうやって御馳走をたべるのだろう。義手があれば、親が迎えてくれると、その子は信じている。でも親は、全くその気がない、とソーシャルワーカーの人はいっていた。

 モンロビアに帰る車の中で、私は、ただ涙を流すだけだった。どんな時でも、泣かないで来たつもりだったけど、やはり、これはひどすぎると思った。「戦争ですから」といいながら、文句もいわないでいる子どもたちの心の中を思うと、あまりにも可哀そうで、慰めの言葉もなかった。

 三年前に内戦が終わったといっても、リベリアの北のほうでは、まだ内戦は続いている。少年兵の存在を国は否定して、十八歳以上という条件を守っている、といっているけど、私には信じられない。闘っている少年兵を見た人は沢山いる。もし、大統領領が本当に、この国の子どもを愛しているのなら、絶対に子どもを戦闘に巻き込まないでほしい。

 栄養失調の子ども。汚水の中で暮す子ども。少女の売春。一家離散。数え切れない孤児たち。凄い匂いのゴムエ場で働く労働者たちには、マスクも手袋もなかった。マラリア、下痢、貧血など病気になっても、初診料の2リベリア・ドル(約百円)が払えなくて、病院に来られない母と子ども。病院では、検査用の器具や薬品も足りないけど、とりあえず試験管がほしい。

別の病院では、ICU(集中治療室)にドアが欲しい、といった。障害を持った子どもたち。難民キャンプでも、食べものを欲しがっていた。大統領夫人は、女性の権利を守る活動に力を入れていらっしやるが、「食料を配給する配給センターがないので、なんとか欲しい」と私に訴えた。目の前で、人が殺されるのを日常的に見た子どもたち。そして、少年兵たちの心の傷。今回、私が会った人たちは、このような人たちだった。

 でも、市場を取り仕切っている元気な小母さんにも会った。売り物の、金物の七輪を帽子みたいに頭にかぶって、とびはねてる少年にも会った。自動車用のバッテリーなどを使って、一日、十八時間もラジオの放送をして、大人の役に立っている、子どもだけのラジオ局でインタビューを受けた。ラジオを聴く人たちは、手製の昔の鉱石ラジオ。そして、最後に、あのサッカーの花形選手ジョージ・ウェアは、この国のスラムの出身。自由ほど素晴らしいものはないとプライドを持って世界で活躍している。五十五年前の終戦のとき、私も何もなく裸足だった。でも、平和がきたことで、しあわせだった。リベリアの子どもたちが、少しずつでも、しあわせになれるように。大統領! お約束ですよ!
(黒柳徹子著「小さいときから考えてきたこと」新潮文庫 p158-169)

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憲法9条を守り抜けば世界史的な出来事に
 経済同友会終身幹事 品川正治さん講演から

──略──

「普通の国」は

 改憲へ向け、経済界が先鞭(せんべん)をつけている印象をみなさんもお持ちだろうと思います。私が属している経済同友会が提言を出し、日本経団巡も憲法改定を問題にし、日本商工会議所も具体的な条文の改定に関して提言をしています。

 なぜ経済界はこうなったのか。今の経済界の欠点は、「もっと成長」「もっと近代化」を目指すばかりで現代の課題が見えないからです。ましてや九条がもっている燦然(さんぜん)と輝く光は見えません。むしろ「普通の国」になれといっている。二十世紀型、十九世紀型の「普通の国」を志向して、軍隊がないことが、「普通の国」として欠落しているとしか見えないのです。

 「普通の国」という言葉と九条を変えようという言葉はまったく同じです。グローバリゼーション(地球規模化)という言葉も、アメリカが戦争している以上、経済用語ではなく、戦略用語です。

 でも、憲法九条を守ることはそんな生易しいことではありません。今が勝負です。──以下略

(しんぶん赤旗 20050624)

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◎「生活は、すべて戦争で台無しになった」と。