学習通信050629
◎片寄っている特別な人間……
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政治、政党、民主主義
「政治のこと、政党のことをもちだすと、みんなから何か特別な目で見られる」ということがよくあるみたいです。いつ頃からそうなったのでしょうか。
「政党員になるなんて、特殊な人間だけのやることだ」みたいな感覚がひろくあるみたいです。いつ頃からそうなったのでしょうか。
次の文章を読んでみてください。これは、一九四七年八月、つまり日本国憲法公布の一〇ヵ月後、施行の三ヵ月後に、文部省によって書かれ、発行された中学一年生用の教科書『あたらしい憲法のはなし』──その第九章「政党」の全文です。
「政党≠ニいうのは、国を治めてゆくことについて、同じ意見をもっている人があつまってこしらえた団体のことです。みなさんは、社会党、民主党、自由党、国民協同党、共産党などという名前を、きいているでしょう。これらはみな政党です。政党は、国会の議員だけでこしらえているものではありません。政党からでている議員は、政党をこしらえている人の一部だけです。ですから、一つの政党があるということは、国の中に、それと同じ意見をもった人が、そうとうおおぜいいるということになるのです。
政党には、国を治めてゆくについてのきまった意見があって、これを国民に知らせています。国民の意見は、人によってずいぶんちがいますが、大きく分けてみると、この政党の意見のどれかになるのです。つまり政党は、国民ぜんたいが、国を治めてゆくについてもっている意見を、大きく色分けにしたものといってもよいのです。民主主義で国を治めてゆくには、国民ぜんたいが、みんな意見をはなしあって、きめてゆかなければなりません。政党がおたがいに国のことを議論しあうのはこのためです。
日本には、この政党というものについて、まちがった考えがありました。それは、政党というものは、なんだか、国の中で、じぶんの意見をいいはっているいけないものだというような見方です。これはたいへんなまちがいです。民主主義のやりかたは、国の仕事について、国民が、おおいに意見をはなしあってきめなければならないのですから、政党が争うのは、けっしてけんかではありません。民主主義でやれば、かならず政党というものができるのです。また、政党がいるのです。
政党はいくつあってもよいのです。政党の数だけ、国民の意見が、大きく分かれていると思えばよいのです。ドイツやイタリアでは政党をむりに一つにまとめてしまい、また日本でも、政党をやめてしまったことがありました。その結果はどうなりましたか。国民の意見が自由にきかれなくなって、個人の権利がふみにじられ、とうとうおそろしい戦争をはじめるようになったではありませんか。
国会の選挙のあるごとに、政党は、じぶんの団体から議員の候補者を出し、またじぶんの意見を国民に知らせて、国会でなるべくたくさんの議員をえようとします。衆議院は、参議院よりも大きな力をもっていますから、衆議院でいちばん多く議員を、じぶんの政党から出すことが必要です。それで衆議院の選挙は、政党にとっていちばん大事なことです。国民は、この政党の意見をよくしらべて、じぶんのよいと思う政党の候補者に投票すれば、じぶんの意見が、政党をとおして国会にとどくことになります。
どの政党にもはいっていない人が、候補者になっていることもあります。国民は、このような候補者に投票することも、もちろん自由です。しかし政党には、きまった意見があり、それは国民に知らせてありますから、政党の候補者に投票をしておけば、その人が国会に出たときに、どういう意見をのべ、どういうふうにはたらくかということが、はっきりきまっています。もし政党の候補者でない人に投票したときは、その人が国会に出たとき、どういうようにはたらいてくれるかが、はっきりわからないふべんがあるのです。このようにして、選挙ごとに、衆議院に多くの議員をとった政党の意見で、国の仕事をやってゆくことになります。これは、いいかえれば、国民ぜんたいの中で、多いほうの意見で、国を治めてゆくことでもあります。
みなさん、国民は、政党のことをよく知らなければなりません。じぶんのすきな政党にはいり、またじぶんたちですきな政党をつくるのは、国民の自由で、憲法は、これを基本的人権≠ニしてみとめています。だれもこれをさまたげることはできません」
だれも──会社も、政府も、そしてもちろん労働組合も──これをさまたげることはできない、というのです。
話が急にとぶみたいですが、先日『日本の詩歌』というシリーズの(中公文庫)「俳句集」をひっくりかえしていたら、中塚一碧楼(いっぺきろう)という俳人の次のような連作が目にとまりました。
沈丁花が一株あり日本社会党に与(くみ)する
小母さん自由党をいう春のうすい日ざし地に照る
浅蜊(あさり)そのほかの貝持参共産党支持のこの友
一碧楼が六十歳で死んだのは一九四六年の一二月三一日ですから、この連作の背景となっているのは、その年の四月におこなわれた第二十二回総選挙(戦後はじめての総選挙)にちがいありません。社会党に与することをきめた一碧楼にたいして、小母さんが「私は自由党だね」といってその理由を述べたてている。そこへ共産党支持の友人が手みやげをもって訪ねてくる──そんな光景が目に浮かんでくるようです。
そういえば、まちがいなく同じ頃の作品だと思いますが、『サザエさん』にも、いっしょに仕事をしていた大工さんと左官やさんが、おやつの時間にお茶をのみながら、「あたしゃあ、キョウサントウに入れるね!」「だめだよあれは! なんといっても自由トウだよ」「キョウサントウでなきゃあ、どうしたってだめだよ!」「なにいってんだよ、自由トウだよ!」と激論を交わしているくだりがありました。
その一年後に刊行された『あたらしい憲法のはなし』も、まさしくこのような雰囲気のなかで準備されたのでしょう。戦後民主主義の原点、出発点──それはこのようなものでした。
でも、この『あたらしい憲法のはなし』が教科書として使われたのは、わずか二、三年でした。偏向教科書第一号として、文部省自身によっていちはやく葬りさられたのです。じつは文部省自身こそが「偏向」していった──戦後民主主義の原点から、憲法そのものから──のですが。
今日、「政治のこと、政党のことを話題にするのは特別な人」みたいな感覚がひろがっているとすれば、それは今日のわが国が、戦後民主主義の原点からどんなにへだたったところへ連れこまれているかを示すもの、といえるでしょう。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p140-145)
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「かたよらない」はいいことか……*
政治的自由の問題でもう一つ重要な例をあげておきますと、「政治的中立」の問題があります。国民主権の考え方からすると、国民は一人ひとりが政治の主体でありますから、中立ということはほんとうはあり得ないことです。日本語の「中立」というのは、たとえばAとBという人が争っている、その争いにたいして関係のない第三者のCという人が中立だというのが中立の意味です。
けれども、政治についてはすべての国民が当事者ですから、第三者にあたる人はいないわけです。そういう意味で、国民主権の原則からは政治的中立という考え方は出てくる余地がありません。国民は、どんな立場でもいいのですが、とにかくなんらかの政治的立場を持っていなければならないはずです。ところが日本では「どの立場にも属さない」ことが政治的中立ということばで語られています。この政治的概念が通用するのは日本ぐらいではないでしょうか。
そういう点で日本が政治的後進国といわれるのです。たとえば新聞をとりあげてみても、外国では新聞がそれぞれの政治的立場を明らかにしてキャンペーンをすることがめずらしくありません。たとえばイギリスには大きな新聞が二つあります。『タイムズ』というのは保守系で『ガーディアン』というのは労働党系であります。フランスでいえば『フィガロ』といえば保守系の代表的な新聞で、『ユマニテ』といえば共産党の代表的な新聞です。それぞれ政治的立場を明らかにして新聞を出しているのです。
ところが日本の商業新聞は、『朝日』・『読売』・『毎日』、等々とありますが、いずれもこれは政治的に中立を名のっていて、どの立場も出さないということが新聞の使命であるということになっています。アメリカの特派員が日本に来て、日本で新聞らしい新聞といえば保守系の『サンケイ』と共産党の『赤旗』しかない、といっていましたが、日本では逆に考えられています。
それから裁判官などにしても、たとえばアメリカの最高裁の判事は共和党か民主党か、政治色がはっきりしている場合が少なくありません。裁判官が政党に属していても、それは裁判の公正とは関係ないというのがアメリカの常識です。日本では、裁判官は政治的中立でなければならないというふうにいわれていて、自民党員であったり共産党員であったりするのはけしからんということになりかねないのです。
いまのべたようなことは、市民社会全体にも反映していますから、社会の中で人々が自分の政治的立場を明らかにして議論するということをなかなかしません。私はこれを日本社会の非政治的体質というふうに呼んでいます。自分の政治的立場を明らかにして行動すると、何か片寄っているというようにみられがちです。ほんとうは、片寄っていない人というのはいないはずなのです。
たとえば自民党から見れば共産党は片寄っているし、共産党から見れば自民党は片寄っているわけで、つまり、相対的なものです。それが日本ではどこにも属さないことが片寄っていないことになるという変な理解とすりかわってしまいます。これは非常に大きな問題です。日本の社会で政治運動がたいへんやりにくいということも実はこれと関係があります。政治運動を行なうと、片寄っている特別な人間のように見られるという社会的土壌は、根本的に民主主義の歴史が浅いというところからくるのだと思います。
このように、日本社会における政治的後進性というべきものが国民の意識の中にもあるのです。
(渡辺洋三著「憲法のはなし」新日本新書 p22-24)
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◎「日本には、この政党というものについて、まちがった考えがありました。それは、政党というものは、なんだか、国の中で、じぶんの意見をいいはっているいけないものだというような見方です。これはたいへんなまちがいです」と。