学習通信050630
◎親の生活は、子どもには強い影響力……

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親は自信と誇りをもって

 ある人が「うちは商売をしていて、夫婦共働きで年じゅう忙しくてガサツな生活をしているから、子どもはしつけのいい、落ちついたミッションの幼稚園に入れようとおもう」といいました。

 子どもは、そのような親の期待にこたえてくれるでしょうか。どうも疑問です。

 第一に、親の生活のなかで子どもの生活があり、それはまた性格づくりにも大きく影響するということです。親がガサツで子どもにそれがうつっては困るならば、まず親自身を変えなければだめです。しかし、第二に「しつけ」とは何でしょうか。おとなしくおとなのいうことをよくきき、お行儀よく、じょうずにごあいさつできることなのでしょうか。

子どもが社会人として生きていくための基本的生活習慣は、なにもていねいなことばや、上品な生活のなかでしかつくられないものではなく、親が生きて働いている場のそれぞれの生活のなかから、その家庭の特徴を土台にしてつくられていくものです。両親が商売をしたり、共働きや活動などで忙しかったら、そのなかで子どもにどういう生活習慣を、どのような方法で教えるか、そのなかで工夫してみてください。

 何もかも理想的に教えることはできなくても、「これだけは」というものがあるでしょう。この本のなかでも、乳児や幼児についてのしつけについていろいろな考え方がだされていますが、それを参考に、何をとり、何には目をつむるか、親の生活に合わせて選択し、よく考えてください。誇りと自信をもって、いっしょうけんめいに働いている親の生活は、子どもには強い影響力をもちます。反対に自分の暮らしや職業を卑下し、共働きに誇りを持てないような親の生活態度のもとでは、子どもは自信をなくし、劣等感を持ち、たとえしつけのいい@c稚園に入れても、違和感が大きく、かえって成長をとめてしまう結果になりかねません。

 そして、劣等感にかならずつきまとう優越感をどこかで持とうとします。「よい幼稚園にはいっている」という親の優越感は、そのまま子どものものとなり、それはどんなにか子どもをそこなうかわかりません。劣等感は子どもの成長をはばみます。飯場の子≠ニいわれることに劣等感を持っていた子が、そんなことはなにもはずかしいことではないとよく説得したら、見ちがえるように明るく、学習もできるようになった例があります。子どもに劣等感とその裏返しの優越感をうえつけて差別してゆく──それがいまの社会です。それをなくすのには、親の生活にたいする姿勢が大きく影響します。
(近藤・好永・橋本・天野著「子どものしつけ百話」新日本新書 p36-37)

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次代の担い手としての子どもへの期待

 さらに、子どもと対話するためには、子どもをつぎの時代の担い手としてとらえ、子どもたちに、つぎの時代の人間と社会への私たちの期待をぶつけ、自己の成長と人類の発展・歴史の進歩とを結びつけて生きるよう呼びかけることが必要であろう。

 そうした子どもへの真剣な訴えの試みの典型的なものとして私たちの頭に浮かぶものは、一九三七年に吉野源三郎にょって書かれ、いまも読みつがれている『君たちはどう生きるか』である。

 吉野は、『日本少国民文庫』刊行の中心となった山本有三の、「表現の自由は極度にせばめられてきたとはいっても、まだ子どものものなら、本当のことがいえるんじゃないか、せめてつぎの時代を背負う少年たちに今のうちに伝えるべきことは伝えておこうじゃないか」という熱心な勧誘に共感して、この本を書いた。

彼は、その当時の気持ちをふりかえって、「……嵐の中で顔を伏せて堪えているようなものでした。支えてくれているのは、ただいつかは、いつかは……という未来への期待でした。……子どもへの期待というものも、私の場合、つぎの時代への期待だったのですね」と述べている。吉野は、ファシズムにギリギリ抵抗し、つぎの時代への期待を子どもに託すという「思いつめた気持」で、この本を書いたのであった(堀尾他『教育と人間をめぐる対話』新日本出版社、一九七七年)。

 この『君たちはどう生きるか』のような、おとなから子どもへのまっとうな人間的問いかけが、今日、新たな状況のもとで、真剣になされる必要がある。そして、そのような試みは、すでに始まっているといえる。

 たとえば、宮田光雄は、『きみたちと現代』(岩波ジュニア新書、一九八〇年)を書いて、日本の青年たちにむかって、現代において人間的に生きようとする場合、歴史を創る大衆の一員としての自覚をもって、政治へ主体的に参加しなければならないということを訴えて、つぎのように述べている。

 「現代をおおう政治という世界のなかでは、私たちのすべての行動の仕方や考え方は、いずれも政治の運命をおりなす糸となっているのです。きみたちのなかには、もう政治にかかおりたくないという意見のひともいるかもしれない。しかし、この政治にかかわりたくないという態度もまた、じつは政治に対する一つのかかわり方なのです。……たとえきみたちが、自分では中立であり、何もしていないといいはるとしても、政治の世界では、『不作為の責任』をまぬがれることができないのです。ヒトラーやファシズムの歴史は、そのことを私たちにいやというほど教えています。現代において『いかに生きるか』という問いは、この政治的次元にたいするかかわりを無視し去ることが許されないのです。」

 また、石田和男は、『思春期の生きかた』(岩波ジュニア新書、一九七九年)のなかで、いま矛盾の集中している日本の思春期の子どもたちにたいして、彼らが人間的な成長をとげるために、「思春期のゆたかな生き方」を探究し、「思春期をゆたかに生きる」よう、つぎのように呼びかけている。

「……思春期のからだやこころにおこる変化は、『性のめざめ』ですが、それは生物であるヒトが生きつづけるために、自然にそなわってくる『性のめざめ』であるだけでなく、社会のなかで人間が愛の生活をつくりだすためにうまれてくる『性のめざめ』でもあるのです。いま日本人は、日本の社会のあたらしい混乱のなかで、性を混乱させています。だから日本人の発展と日本の社会の進歩のためには、あたらしい努力がいるのです。性についても男女平等のあり方をつくりだすための、あたらしいなかまの努力を必要としています。」

 こうした問いかけを、私たちー人ひとりが、子どもにむかって行なう必要がある。そのためには、私たちが、この時代を精一杯生きることを通して、明日の時代の人間と社会のイメージを探究しなければならない。子どもと対話するということは、子どもとともに未来を語ることである。

 以上、子どもと対話しようとするものが、子どもにむかうときにおこさなければならない心のはたらきについて考え、それを、同時代人としての子どもへの共感と、おとなとは異なる子どもへの配慮と、次代の担い手としての子どもへの期待とが結合した精神活動としてとらえようとしてみた。

 子どもと対話するためにこうした精神活動が求められるということは、自分の現在の生き方への問いを軸に、子ども時代の自分、自分とともに生きた親の生き方をふりかえり、自分とともに育ちつぎの時代を生きる子どもたちの生き方に思いをやることが求められているということである。それは、別の言いかたをすれば、親と自分と子どもたちの具体的な生き方のイメージを含んだ、三代百年ほどの時代についてのアクチュアルな歴史意識を自分のなかに形成することが問われているということでもある。
(田中孝彦著「子育ての思想」新日本新書 p76-80)

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◎「私たちが、この時代を精一杯生きることを通して、明日の時代の人間と社会のイメージを探究……子どもと対話するということは、子どもとともに未来を語ることである」と。