学習通信050702
◎彼の蝶への成長は……
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一九世紀の社会革命は、その詩を過去から汲みとることはできず、未来から汲みとるほかはない。それは、過去ヘのあらゆる迷信を捨てさらないうちは、自分の仕事を始めることができない。
これまでの革命は、自分自身の内容について自分をあざむくために、世界史を回想する必要があった。一九世紀の革命は、自分自身の内容をはっきり理解するために、死にたる者に死にたる者を葬らせなければならない。以前には文句が内容をこえていたが、いまでは内容が文句をこえている。
二月革命は奇襲であり、古い社会の不意を襲ったものであった。そして、人民は、この思いがけぬ不意打ちを、新しい時代をひらいた世界史的行為だと宣言した。一二月二日に、二月革命は、いかさま賭博師の指先の手品でちょろまかされる。ひっくりかえされたと見えるのは、いまではもはや君主制ではなく、一〇〇年来の闘争によって君主制から奪いとった自由主義的譲歩のほうである。
社会そのものが新しい内容を獲得したのではなくて、国家がそのいちばん古い形態に、サーベルと僧衣のずうずうしく率直な支配に、逆もどりしただけのように見える。
こうして、一八四八年二月の不意の平手打ちに、一八五一年一二月の上からの暴挙が答えた。得たのもたやすければ、なくすのもたやすかった。そうは言っても、その中間の時間はむだにされたわけではない。
二月革命が正規の、言ってみれば方式どおりの発展をしたとして、革命が表面の動揺以上のものとなるためにはぜひともさきだってなされていなければならなかった学習や経験、それをフランス社会は、一八四八年から一八五一年までに、おくればせに補った。しかも、革命的であるゆえに、速成的な方法で補った。
いまこの社会は、その出発点よりももっとうしろまで、戻ってしまったように見える。ほんとうは、社会は、その革命的な出発点を、つまりそのもとでだけ近代の革命が真剣なものとなる状況、諸関係、諸条件を、これからはじめてつくりださなければならないのである。
一八世紀の諸革命のようなブルジョア革命は、成功から成功へとあわただしく突進し、劇的効果をたがいにきそいあい、人も物もけんらんたる光彩につつまれて見え、有頂天が日々の精神である。しかし、それは短命で、すぐに絶頂に達してしまう。こうして、社会は長い二日酔にとりつかれてしまい、そうしてからはじめて、しらふで、疾風怒涛の時期の成果を消化することができる。
ところが、一九世紀の諸革命のようなプロレタリア革命は、たえず自分自身を批判し、進みながらもたえず立ちどまり、すでになしとげられたと思えたものに立ちもどっては、もう一度新しくやりなおし、自分がはじめにやった試みの中途半端さ、弱さ、けちくささを、情け容赦もなく、徹底的に嘲笑する。
この革命が敵を投げたおしても、その敵は大地から新しい力を吸いとって、まえよりも巨大な姿となってふたたび起きあがり、革命にはむかってくる結果にしかならないように見える。
この革命は、自分の立てた目的が茫漠として巨大なことに驚いて、たえずくりかえしてあともどりするが、ついに、絶対にあともどりできない情勢がつくりだされ、諸関係自身がこう叫ぶようになる。
ここがロドスだ、ここで跳べ!〔Hic Rhodus,hic salta!]
ここにバラ〔Rose]がある、ここで踊れ!
(マルクス著「ルイ・ボナパルトのブリューメル18日」マルクス・エンゲルス八巻選集B p156-157)
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すでに明らかにしたように、剰余価値は流通からは生じえないのであり、したがって、それが形成される場合には、流通そのもののなかでは目に見えないなにごとかが、流通の背後で起こっているに相違ない。しかし剰余価値は、流通から以外にほかのどこから生じうるであろうか? 流通は、商品所有者たちのいっさいの相互関連の総和である。この流通の外部では、商品所有者はもはや自分自身の商品と関連するだけである。
この関係は、彼の商品の価値について言えば、一定の社会的諸法則によってはかられた彼自身の労働のある分量をその商品が含んでいるということに尽きる。
この労働分量は、彼の商品の価値の大きさに表現される。そして、価値の大きさは計算貨幣で表わされるのであるから、この労働分量は、たとえば一〇ポンド・スターリングという価格に表現される。しかし、彼の労働は、その商品の価値ブラスその商品自身の価値を超える超過分に表わされはしない。
それは、一〇であると同時に一一である価格に、すなわち、それ自身よりも大きい価値に、表わされはしない。商品所有者は、彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自己を増殖する価値を形成することはできない。彼は、新たな労働によって現存する価値に新たな価値をつけ加えることによって、たとえば革で長靴をつくることによって、商品の価値を高めることはできる。同じ素材がいまや、より大きい労働分量を含んでいるから、より多くの価値をもつ。
それゆえ、長靴は革よりも多くの価値をもつが、しかし革の価値はもとのままである。革は自己を増殖しはしなかったし、長靴製造中に剰余価値を生み出しはしなかった。したがって、商品生産者が、流通部面の外で、他の商品所有者たちと接触することなしに、価値を増殖し、それゆえ貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能である。
したがって、資本は、流通から発生するわけにはいかないし、同じく、流通から発生しないわけにもいかない。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に、流通のなかで発生してはならないのである。
こうして、二重の結果が生じた。
貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が出発点をなす。いまのところまだ資本家の幼虫として現存するにすぎないわれわれの貨幣所有者は、商品をその価値どおりに買い、その価値どおりに売り、しかもなお過程の終わりには、彼が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。
彼の蝶への成長は、流通部面のなかで行なわれなければならず、しかも流通部面のなかで行なわれてはならない。
これが問題の条件である。
こがロドス島だ、ここで跳べ!
(マルクス著「資本論」新日本新書A p282-284)
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◎「この革命は、自分の立てた目的が茫漠として巨大なことに驚いて、たえずくりかえしてあともどりするが、ついに、絶対にあともどりできない情勢がつくりだされ、諸関係自身がこう叫ぶようになる」と。
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