学習通信050703
◎天国における労働の主要なもの……
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天国についての話の話
母なる地球と天国の所在
「やがてかつての航海者同様、新しい開拓者たちはこの暗黒の〔宇宙〕空間に挑戦してゆくことになろう」──インド洋からマラッカ海峡にさしかかる船のなかで、マゼランたちのことを思いうかべながら「私」は考える。「人類はやがて太陽系の呈々、あるいはさらに遥かな星星にまで足跡を残すにちがいない。……」
しかし、とさらに「私」は考える。「われわれはやはり母である地球にむすびつけられた生物であり、この大地を離れれば離れるほど測りがたい不安に直面することになろう」
北杜夫氏の『どくとるマンボウ航海記』の末尾近くに出てくるこの印象的な一節をふと思いうかべたのは、今から八四年も前、すなわち一九〇〇(明治三十三)年、内村鑑三が天国について述べているある文章を三、四〇年ぶりに読みかえしている時だった。
それは『宗教座談』と題するパンフレットの一節。それによると「宇宙の中心点はブラヤデスという星座のなかのハリシオンという星の近所にある」という説が当時あったらしい。そして、そうだとすれば「神の宝座もその辺にあるべければ、天国もそれより程遠からぬ処にあらんなどと想像している人」もいたらしい。
しかし、「私はこの肉体を去って後に億万星外のハルシオンまで旅行しようとは思いません」と内村はいう。地球は十分に美しい。この地球を「憂き世」としているのはただ悪人たちの存在であって、この悪人たちが一掃されるならば、「この地はありのままにてりっぱなる天国となすに足ると思います」
改造された地球──天国
「プラヤデスという星座」とはプレアデス星団、すなわち昴(すばる)のこと、そのなかの「ハリシオン(ハルシオン)という星」とは、プレアデス星団中もっとも明るく輝く四重星、アルキオーネのことではないかと思うが、それはともかく、こうした宇宙空間の彼方に天国を求めるこ
とを内村がしりぞけ、「改造された地球」に天国のイメージを求めていることは意義深い。
「もしこの日本も、無慈悲なる華族や、傲慢なる藩閥政府の役人や、憎むべき教育者や、偽善者的新聞記者や、その他牧師、伝道師、坊主、神主等すべての悪人や、すべての偽善者、すべての幇間(ほうかん)流の徒輩がことごとく跡を絶つにいたりましたならば、どんなに美わしい国土となることでございましょう」──その頃内村は、これら「悪人たち」とのたたかいのために、堺利彦、幸徳秋水ら社会主義者と「理想団」という結社をつくって、いわば一種の統一戦線を組んでいた。一九〇一年、幸徳が『二十世紀の怪物帝国主義』を著した時、万朝報紙上にこの書への序を寄せたのも、内村であった。
天国における労働について
つづけて内村が天国について述べていることのいくつかを、私は私のメモ帳に書きぬいた。
「さて我われは天国に往って何を為すのでありましょう」と内村は問いかけている。讃美歌ばかり歌っているのか。そうではあるまい。休息ばかりしているのか。そうではあるまい。「元来我らは休むために働くのではなくして、働くために休むのでございます」
だから「思うに天国には天国相応の労働があるに相違ありません」──では、それはどんな労働か。「もし再び此世に帰り来て罪悪と戦えよとの命〔神の〕がありますれば、私は決してこれを辞さないつもりでございます」とした上で、内村はいう──天国における労働の主要なものは、何といっても真理探求の労働=研究労働であろうと。
「私は世界の歴史は細大漏らすことなく知りたく存じます。私は宇宙のことは、恒星のことも、鉱物のことも、動物のことも、植物のことも、何もかもみな知りつくしとうございます」──私たちは天国においてこそ、何ものにもわずらわされることなくこの労働に従事できるであろう。
それからまた、教育労働も「天国におけるもっとも愉快なる労働」の一つであろう。教育とはもともと「霊魂の発達を目的とするもの」であるから。芸術労働もまた「天国市民の労働の一つ」であるだろう。芸術とは「物を以てする理想の発表」であるから。
すなわち、天国とは、マルクス流にいうならば、これらの労働が第一の生活欲求となるような社会にほかならない、ということになる。
天国における政治について
「また天国も一つの社会でありますから、その市民たるものにも社交的義務のようなものがついているだろうと思います」とも内村は述べている。だから「天国にも政治がある」と。
もちろん天国には「此世でいう政府なるもの」は存在しないであろう。軍隊や警察も、獄吏や執達吏も、弁護士・公証人のたぐいもそこには用がない。「今日此世において称する政治なるもの」は、確かにそれらの存在と不可分であるが、しかしそれは「政治の消極的半面」にほかならないのであって、ここでいう政治、本来の政治とは、それとは区別されたもの、「建設的政治、開発的政治」とでもいうべきものである、と内村はいう。
「政治とは、物の宜しきを定める術でありまして、これは応用倫理学の一種でございます。すなわち国民各個に彼相応の職を与え、彼をして他人の職を侵害せしめず、一意専心に天が彼に命ぜし職分をつくさしむること、これが政治家の本職でございます。故に人を見るが政治家第一の本分であります。学者をして学者たらしめ、美術家をして美術家たらしめ、工芸家をして工芸家たらしめ……」
このくだりをもふくめ、天国についての内村の考察を、私は科学的社会主義の財産目録のなかに書きくわえておきたいと思う。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p96-100)
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感動の表現として
先の「ヨハネの黙示録」にある宝石店のような描写は、イエス没後の一世紀末に書かれた文章です。古代ユダヤ人の多くはそうした「神の国」を夢見ていたかもしれませんが、イエスその人がそう考えていたわけではありません。イエス自身は何度も「神の国」を語っていますが、むしろ、次のような不思議な言葉で説明しているのです。
《神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る》(「マルコによる福音書」四・三〇〜三一)
カラシダネは、野菜を漬けるときに香辛料や防腐剤として用いられる植物で、直径一ミリ程度の種から大きく成長し、イスラエル周辺では三メートルに達することもあるそうです。しかし、これで「神の国」の意味が分かったでしょうか。イエスの弟子たちも、後世の人たちも、ますます分からなくなったかもしれません。
「神の国」が何を意味するのか、その後、二千年近くにわたって神学者たちが議論を重ねてきました。大まかにいえば、遠い世界のことなのか、あるいは身近にあることなのか、という論争です。二十世紀になってからは、「神の国」を静的な実体としてでなく、日々変化していく「過程」として考える「プロセス神学」も登場しました。また、仏教や西田哲学を背景にした日本の神学は世界的に注目されており、私の場合、ハ木誠一、高尾利数といった方々に勉強させていただきました。
イエスの説いた「神の国」は、仏教の「浄土」と同じように「心のありよう」を伝える言葉ではなかったか、と私はにらんでいます。絶望の末にハツと気づく世界、新しく生まれ変わった感動のことです。第四週の授業で紹介した、ハ木重吉の題名のない詩をふたたび読んでみましょう。
このかなしみを
よし とうべなうとき
そこにたちまちひかりがうまれる
ぜつぼうとすくいの
はかないまでのかすかなひとすじ
初めのうちは、カラシダネのように小さくて、はかない一筋の光ですが、そのうちに喜びはムクムクと大きくなり、この世界を新しく見直せるようになります。「ルカによる福音書」 一七・二〇〜二一にも、イエスのこんな言葉が載っています。
《ファリサイ派の人々が、神の国はいつ来るのかと尋ねたので、イエスは答えて言われた。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」》
この言葉も解釈はいろいろですが、「神の国」が死後や将来のことでないことだけは分かります。「ヨハネの黙示録」に描かれたような形ある世界の描写ではなく、むしろ「気づく」ことを通して得られる、生き生きとした「心のありよう」を示している、と私は思います。砂漠を背景に生まれたキリスト教と、森の豊かな地域で生まれた仏教とでは、表現やイメージはかなり違いますが、発想は似ているのです。偉大な開祖とその後継者たちは比喩を通して、彼らなりに「異次元の世界」を語っているわけです。
イエスの「あなたがたの間にある」という言葉を聞いて、第七週に私が紹介した『臨済録』の《赤肉団上に一無位の真人有って、常に汝等諸人の面門より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ》を思い出した方もいたのではありませんか。そうなのです。
臨済和尚も「ほら、真理はお前たちの中にあって、顔の真ん前から出入りしているではないか。まだ見届けていない者は、さあ、見てみろ、見てみろ」といっていたのです。ところが、これがなかなか理解されません。弟子がトンチンカンな質問をするので、臨済はさっさと退室してしまった、と記されています。
イエスの十二使徒たちも分からなかったようです。さすがの先生もいらだったのでしょう。四つの福音書の中で合計八回も「分からないのか」と叱っていました。さあ、どうすれば「神の国」や「浄土」を理解できるでしょうか。イエスは《これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました》(「マタイによる福音書」一一・二五)といっています。小賢しい知識や分別にとらわれないで、子どものように素直に世界をみなければいけない、というのです。
非神話化
ドイツの神学者ルドルフ・ブルトマン(一ハ八四〜一九七六)が一九四一年に発表した『新約聖書と神話論』は、「非神話化論争」として神学界に論争を巻き起こしました。聖書にある神話や寓話をどう解釈すべきか、こんな文章が並んでいます。
《もはやわれわれにとって、古い意味の「天」というものはまったく存在しないのである。おなじように、陰府(よみ)、すなわちわれわれが立っている地表の下方なる神話的下界なるものは存在しない》
《神話の本来的の意義は、客観的な世界像を与えることには存しない。むしろ神話は、人間自身が、自己の世界において、自己をいかに理解しているかということを言いあらわしている。神話は、宇宙論的でなく、人間学的に、むしろ実存論的に解釈されることを欲しているのである》
古代の人々にわかりやすく比喩として話された「天国」とか「地獄」といった言葉は、科学の発達した現代ではかえって、真意を理解するためのつまずきになる。しかし、それでイエスの言葉が無価値になったかといえば、そうではない。語りたかった本来の意味は何か、そこを深く汲み取らなければならない、といっているのです。
このブルトマンの「非神話化」という提言は、まだまだ受け入れられていません。アメリカ南部の教会には、グーウィンの進化論を否定する人たちが大勢います。人類はアダムとイブの子孫である、という『旧約聖書』の「創世記」をまともに信じているようです。イエスの真意はそんなところにないだろうに、これではキリスト教をますます時代遅れの迷信と思わせてしまいます。
むしろ、日本の仏教学者のほうがブルトマンを受け入れています。仏教には次週に詳しく述べる「方便」という布教諭があるからです。大衆に分かりやすく説明するには、大胆な比喩やフィクションを使ってもかまわない、という伝統です。「浄土三部経」だけでなく、「法華経」にも「維摩経(ゆいまぎょう)」にも「方便」がたくさん登場してきます。
そうはいっても、死んだあとには、できれば地獄ではなく、浄上や神の国に生まれ変わりたい、などと願う人は多いでしょう。しかし、何度も述べてきたように、だれも地獄や極楽から還ってきた人はいないのですから、「ある」とも「ない」ともいえないはずです。それならばいっそ、死後のこととしてではなく、生きている間に到達できるかもしれない世界としての「浄土」や「神の国」を、とりあえず目指してみてはどうでしょうか。
そして、小躍りしたくなるような「異次元の世界」をついに垣間見ることができたなら、そのときは死後の心配など、どうでもよくなっているでしょう。平安時代後期の今様を集めた後白河法皇撰の『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)』には、こんな歌も収められています。
極楽浄土は一所
つとめなければ程遠し
われらが心の愚かにて
近きを達しと思ふなり
(菅原伸郎著「宗教の教科書 12週」トランスビュー p131-136)
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◎──だれも地獄や極楽から還ってきた人はいないのですから、「ある」とも「ない」ともいえないはずです。それならばいっそ、死後のこととしてではなく、生きている間に到達できるかもしれない世界としての「浄土」や「神の国」を、とりあえず目指してみてはどうでしょうか。──