学習通信050704
◎ことばははっきりと京都のよさ……

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ついでに言えば、商品語も、ヘブライ語のほかに、もっと多くの、あるいはより正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている。

たとえば、ドイツ語のWertsein〔値する〕は、ロマンス語系の動詞、valere, valer, valoir〔イタリア語、スペイン語、フランス語の「値する」という言葉〕に比べて、商品Bの商品Aとの等置が商品A自身の価値表現であることを言い表わすには不適切である。Parisvaut bien une messe!〔パリは確かにミサに値する!〕
(マルクス著「資本論@」新日本新書 p90)

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 その地域、そのことば

 NHK発行の「放送文化」一九七八年一一月号に全国県民意識調査の結果が載っていて、それによると、「もし住む場所を自由に変えることができるとしたら、どの都道府県に住みたいか」という設問に対して、一位は京都であるという。このことをある人(大学の同僚で、大阪に住んでいる)に言うと、次のようなことばを噛んで吐き出すように言った。「あきれた、京都のようなところによくも住みたいと思うものだ。人はわるいし、気候もわるいし……」という次第である。郊外ながら、れっきとした京都に住んでいる私は、いささかむっとしながらも、その人の言うことも多少は認める。京都はなかなか「しんどい」ところである。きれいな観光写真の中のロマンの主人公のようにおさまりかえるわけにはゆかないのである。

 安易な京都案内書のたぐいから始まって、れっきとした京都の評価書も多い。いわばそのピンからキリまでのさまざまの説の中に、住んでみたいという京都の凜とした、あるいは確固としたイメージがさまざまの人の中に存在する。そうした京都のイメージ構築にあたって、何が決定的動機となってゆくであろうか。一つはもちろん山川草木のたたずまいのようなものであろう。なだらかな山ぎわの線、そこから月が昇り日がさし出る。やさしい川の流れがある。なにしろ可憐な川で、エジプトから来た人に、This is the Kamo river.と説明したら、相手は驚いて、No, stream.と言ったほどのささやかな代物だ。しかも、その流れに秋から冬にかけては何千羽の鳥たちがやって来て、流れに遊ぶ。鳥の羽ばたきの彼方には人の思いを誘うさびしげな空の色がある。またせつないような色あいの変化を見せながら、北の山々が限りなく重なっている。

 しかもそれらの風光は、何千年の人の歴史の営みによっても支えられてきている。寺々、人の思いのこもった町並み、そしてさまざまの行事の数々、何を見ても長い間の人の営みが結ばれて、心はいにしえにさまよう。京都に長年住んでいる私でさえ、四季折々にわが住まいするところ、日夜歩きまわるところへの思いは深い。誰しも心をひかれ、いっぺん住んでみたいと思うのも無理はなかろう。

 しかし、それらの人も、町の歴史にことばの問題がかかわるとはあらわには指摘しない。「京都ことばがいいですよ」とは、人はそれほど住みよさの条件にあげはしない。京都の町に育ったことばははっきりと京都のよさの成因の一つであると、それほどには語られることはない。それは言語の性格の一つである。パリのすばらしさをたたえる文章で、町並みやフランス料理といっしょにフランス語が並ぶことはそうないであろう。ことばというものは直接の価値の構成要素にはなかなかなりにくいしかし、フランス語を抜きにしてフランスを語れない。心の底の深い湖の、そのまたひそかな波紋のように、そのことばはなにほどかの、それが帰属する世界の性格の構成に影響を与えている。その人が、ある一定の土地に対して持つ印象の形成に、その人が、耳にし、それで用を足し、それの響き、意味などを無意識に考えたであろうことばが、どこかで役目を果たしていないとは考えられない。

 ドイツの印象にはドイツ語が、スペインの印象には,スペイン語が、アイルランドの印象にはアイルランド語が、なにほどかの役目をむしろ顕在的に果たしているだろうと考える。私は外国にいっぺんも行ったことがないけれども、さまざまのメディアによって、脳裏に描くことができるそれぞれの土地の風光には、その国のことばが響いているように思える。子供の声、若い娘の声、老人の声、はりきった若い男の声……時にはそれはうたとなってわが耳もとに響く。うたともなればそれはことばのなまなましいエネルギーが溢出する。

 時にはそれを恋をささやくことば、また折々には夫婦げんかのことば、そして寄合いで熱心に男たちが人を説得することば……そんなことばなしには人の暮らしはないとすれば、一つの土地の性格に、それは風景より以上に、人間の作り出す積極的なその土地の個性を描写するのに役立っているはずである。言うも陳腐な話ながら、例の啄木が上野駅で間くなつかしき故郷の訛は、故郷そのものであった。

 わが京都について言えば、やはり京都ことばは、濃厚に京都の形成に役立ってきていることは間違いない。それはどこの土地よりももっと濃厚であるかもしれない。京都の文化は、京都のことばであると言ってよい面がある。京都の文化のさまざまの特徴をあげつらうとき、それはいつの間にか、京都ことばの話をしているのにしばしば人は気づくのである。そのいやらしさはことばがつくり出し、そのみやびはまたことばのみやびでもある。そのデリカシーは京ことばのデリカシー。

 ことばを語ることは、その背後の全般を語ることになることが多いが、京都についてはまさしくそうなのだ。

 その京都とことばのかかわりを、このささやかな書において、私なりの視点からいささか考えてみたい。ことばを考えてみることによって、いっそう明確になる京都の特徴、そしてもし、ことばによってはじめてわかる京都の特性も描ければというひそかな期待をもって、私はこの本を書きはじめたいのである。
(寿岳章子著「暮らしの京ことば」朝日選書 p4-7」)

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言葉は生きる力につながる
  山根基世・「日本語なるほど塾」司会

 「日本語なるほど塾」も二年目に入る。この番組を担当してきたこの一年、「そうだったのか」と改めて、言葉を見直す思いをすることが多かった。

 時間を「水のようなもの」と「暗喩(あんゆ)(メタファー)」することでヽ「流れる」「遡る」などと、時間の概念を掴むことができヽメタファーによって人類は思考を深めてきたという指摘には、目から鱗が落ちる思いだった。何気なく使っていた擬音語・擬態語が、いかに「言葉にならない微妙なもの」をうまく表現しているかというのも、発見だった。他者とのコミュニケーションに言葉が大きな役割を果たすことは、重々承知しているつもりだったが、自分自身にかける言葉で、自分の心をも支配しているとは、これまで意識していなかった。

 思考し、表現し、自分の心をコントロールし、他者との関係を築く「言葉」。その言葉を使いこなす力は、そのまま人間の「生きる力」に直結していることに気づかされた一年でもあった。

 最近は長崎や大阪や、少年少女たちの引き起こす痛ましい事件が続いている。そんな事件の報道に触れる度に、「この子は、どんな言葉の環境の中で育ったんだろう」と、言葉のことが気にかかる。私自身も身に覚えがある。思春期にさしかかる頃、得体の知れないマグマのような感情が体内に渦巻き、のたうつような苦しみを昧わった。今考えると、思春期の苦しみというのは、「白尊心」と関わっているような気がする。

自分が「何者か」であると誇りを持ちたいのに、誇るべき何も手の中にはなく、世界で一番惨めな存在に思えてくるのだ。あの頃、自分の感情を見つめ、それを表現し、伝える力を持っていたら……。周辺に「自信を持っていいんだよ」と力づけてくれる人がいたら……事態は随分違っただろう。今、あの少年少女たちの言葉環境はどうなっているのだろう。「言葉の力」によって、思春期の苦しみはかなり軽減できるのではないかと思うのだが……。

 あのヘレン・ケラーのエピソードを思い出す。見えず聞こえず話せなかった少女のヘレンは、まるで獣のように暴れていたという。家庭教師・サリバン先生の献身的な教えで、井戸から流れ出る水に「水(water)」という名前があると識った瞬間から、言葉の存在に気づき、世界の認識が始まり、ヘレンは「獣」から「人間」になっていったという。体内に渦巻く荒々しい感情は、言葉というはけ口から出すほかなく、言葉で考え、言葉で表現し、思いを伝えることによってこそ、心のバランスをとることもできるのだ。そう考えると、水分や脂肪やタンパク質が私たちの身体を支えているのと同じレベルで、「言葉」が私たちの精神を支えているのを感じる。言葉の力こそ生きる力なのだ。

 悩む少年少女たちを勇気づけ、彼ら白身の「言葉の力」を培うことは、同時代を生きる大人の責任だ。私たちの出す番組が、どこかでそこにつながればと、願っているのだが……。
(「NHK日本語なるほど塾」4/5月 日本放送出版協会 p4-6)

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◎「商品語も、ヘブライ語のほかに、もっと多くの、あるいはより正確な、あるいはより不正確な、方言をもっている」と。

……商品とはなんぞや。
……「カローシ」はそのまま外国語になっているといいます。