学習通信050708
◎浅薄な人間理解にもとづく……

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社会的存在としての人間の自己認識

 じつは私は、けっして、いわゆる「政治ずき」ではありません。どちらかといえば体質的に政治にはなじみにくい方だと自覚しています。白状してしまえば、たったいま「戦後民主主義の原点」としてふれた一九四六、七年の頃、当時ハイティーンだった私は、まさしく「政治ギライ」の見本みたいなものでした。政治はみにくいもの、汚いもの、さわられるだけで身がけがれる──というのは少しいいすぎにしても、こちらから好んでさわりにいくべきものではない、そういうことは浅薄な人間、俗物のやることだ、と考える「内面派」でした。

 でも、そういう考え方こそがじつは浅薄な人間理解にもとづく浅薄なものだ、ということに、しだいに目を開かれていったのです。政治を拒否することそれ自体が政治的な意味をもってしまう、ということに気づいたのが、その第一歩であったと思います。

 こうしてしだいに私のなかに滲透し、血液のように私の内面をへめぐりはじめた新しい人間把握、それを「野蛮な」といいたいほどの強烈さで表現した文章があります。紹介させてください。前章でもふれた、井尻正二さんの『科学論』の一節です。

「人間は、社会という培養液のなかに生活の場をしめ、いつもその培養液(*)の性質によって、全身の生理現象を規定されながら、生活し、感覚し、思惟し、行動する生物(バクテリア)にたとえることができる」

*のところには、次のような注がつけられています。

「このところは、正確には、自分の新陳代謝作用(同化作用と異化作用)によって培養液の性質をかえながら、その培養液の性質によって全身の生理現象を規定され……≠ニいうべきである」

 これが、社会的存在としての人間の自己認識である、と思います。そして、社会科学の第一歩は、このような自覚からはじまるのだ、と思います。そしてさらに──戦後民主主義の第一歩は、このような自覚をともなっていた、と思うのです。これは、そのような人間把握にあえて抵抗しながら「真理というものは、これを斥けんとしてかえってこれを抱擁するにいたる」ということわざ通りの道をたどった、当時の一ハイティーンの、実感にもとづく証言です。

 井尻さんには、さらに、次のようなこれまた「野蛮」な発言があります。これは、随筆集『銀の滴金の滴』(築地書館、一九八一年)に収められている「原子的人間像」と題する文章ですが──

「いわゆる文化人とか、知識人とか、学者といった人びとは、一般に、政党や組合で代表される、民主集中制の組織が大きらいである。そして、岡目八目とばかり、そのような組織の動きを批判し、組織の人たちを烏合の衆と軽蔑することによって、自分の才覚を誇るのがかれらの一般的生態である。

 だが、これらの人たち、たとえば数学者A、生物学者B、音楽評論家C、政治評論家Dなどは、自分が世界における原子のような存在であることに気がつかないから不思議である。

 たとえば、水素原子は単独で(Hの状態で)活性水素となって強烈な還元力を発揮する。ウラン原子(U)は破壊的な放射線を放出する。ところが現実の世界は、原子よりはるかに進化した、複雑な分子の世界である。無機の鉱物、岩石といった、いわば低分子の世界から、有機物や生物といった、いわゆる高分子の世界まで、現実の世界は分子の世界にほかならない。したがって、原子が唯我独尊をとなえて原子にとどまるかぎり、かれらは現実の世界(分子の世界)をかいま見ることも、味わうこともできない。

 もちろん、分子の世界には、水素原子やウラン原子にくらべて、反応もおそく、働きもにぶい原子も加わっているであろう。また、できたての分子は構造も固まらず、反応もぎごちないかもしれない。

 とはいえ、原子と分子では、その世界の次元が異っている。しょせん、プロベラ機はプロペラ機で、どんな卓越したプロペラ機でも、ジエット機には、スピードでも、高度でも、したがって視界の広さでも、かなうものではない。これは、どんな一刀流の達人でも、隊伍をくんだ足軽鉄砲隊の敵ではなかった史実が教えているとおりである。

 また、かれらは、原子の結合である分子と同様に、組織というものはこわす(分解する)ことはやさしいが、つくる(結合させる)ことは、どんなに困難か、ということを察知するよしもない。したがって、かれらはいとも安易に組織やぶりをしてはばからない。

 さらに、数学者Aも、生物学者Bも、音楽評論家Cも、政治評論家Dも、ひとたび、有機体や生物よりも、もっと複雑な政治経済の現実におかれると、原子的個人の才覚ではなすところがなくなってしまう。したがってかれらは、例外なく原子的頭脳の判断力を失い、いつしか飼いならされて体制側の家畜と化してしまうわけである。……」

 戦後民主主義の第一歩でもあれば社会科学の第一歩でもあるものとして先ほど述べたことは、このような認識をもふくんでいた、と思うのです。
(高田求著「学習のある生活」学習の友社 p146-150)

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──社会−民主党の独特の性格は次のようにまとめられる。すなわち、資本と賃労働という両極端をともに廃止する手段としてではなく、それらの対立をやわらげて協調させる手段として、民主主義的=共和制的諸制度を要求する、ということである。

この目的を達するためにどんなにさまざまな措置が提案されようと、また、この目的が多少とも革命的な観念によってどんなに飾りたてられようと、内容はいつも同じである。

その内容とは、社会を民主主義的な方法で改造すること、ただし小ブルジョアジーの限界内で改造することである。ただ、小ブルジョアジーが主義として利己的な階級的利益を押しとおそうとしているのだというふうに、狭く考えてはならない。

むしろ小ブルジョアジーは、彼らの解放の特殊な条件が、近代社会を救い、階級闘争を回避することのできるただ一つの一般的な条件だ、と信じているのだ。

また、民主党の代議士といえば、みな商店主か、さもなければ商店主のために熱をあげている連中だ、と考えてもならない。

彼らは、その教養や個人的地位からすれば、商店主とは天と地ほどもかけはなれた人たちであるかもしれない。彼らが小ブルジョアの代表者であるのは、小ブルジョアが生活においてこえない限界を、彼らが頭のなかでこえないからである。

したがって、小ブルジョアが物質的利益と社会的地位とに駆られて実践的にめざすのと同一の課題と解決とにむかって、彼らが理論的に駆りたてられるからである。これが、一般にある階級の政治的および文筆的代表者と、彼らの代表する階級との関係である。

──略──

──だが、民主派は、小ブルジョアジー、つまり二つの階級の利害がともに中和しあっている中間的階級を代表しているという理由で、自分たちはおよそ階級対立を超越していると思いこむ。
(マルクス著「ルイ・ボナパルトのブリューメル18日」マルクス・エンゲルス八巻選集B 大月書店 p180-183)

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◎「小ブルジョアが物質的利益と社会的地位とに駆られて実践的にめざすのと同一の課題と解決とにむかって、彼らが理論的に駆りたてられるからである」と。