学習通信050709
◎実感≠ェない……

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──わたくしも、つね日頃学生諸君と接する機会が多いわけですが、一般的に日本と世界の動きにたいする無関心≠ニいうか、シラケムードがたしかに学生のあいだにはあるようです。

 しかし、わたくしは思うのです。青年には未来への潜在的なエネルギーがあるはずだ、と。青年は将来の日本の重要な担い手になるのですから。

 一九世紀前半にフランスで活躍したリアリズムの作家にバルザックがいますが、かれは、ある短編小説の始めにこんなことを書いています。「青年というものはみんな自分のコンパスをもっている。このコンパスで未来を測ることに喜びを感じる」。つまり、これからの長い人生を生きがいをもって生きるためにどういう世界観をもつか、また自分の進むべき道をどうきり開いていくか。これをコンパスにたとえていっていると思うのです。コソパスを小さく消極的に回顧的に描くこともできるだろうし、また未来をみつめた発展的な方向にむけて大きく雄大にコンパスで構図を描くこともできると思います。バルザックはつづけて「青年の意思が大胆にひらかれたコンパスの角度につりあうときに、世界はかれら青年のものになる」というふうに書いております。

 みなさんは、三十代の終わりのころに二一世紀を迎えます。二一世紀こそ悲惨な戦争のない世界──一方では核兵器をどんどん生産して殺人兵器をこしらえている、かたや、非常に貧しい人たちがいるという、そういったことのなくなる、そういう未来──のためのコンパスを二一世紀にむかって描いてもらいたいと思うわけです。その場合には何といっても、若々しい理性と情熱といいますか、しゃれた言葉でいえば、ロゴスとパトスをもって、であります。

 わたくしは思うのですが、未来にむかって雄大な設計をたて、思いきり希望に胸をふくらませることのできるのが、青春という、人間にとってかけがえのない時期の特権ではないでしょうか。

 わたくしは、きょう、原宿の賑わいのなかを歩いてきましたが、にぎやかな通りを歩いている若い男女が、みながみな政治に無関心だとはけっして思いません。けれども、あそこにある空気というのは、たしかに一応軍拡への道をひた走る日本の現状を忘れた平和でもあるようです。いろんな歌、音楽は流れてくるし、楽しい。楽しいのはけっこうだけれども、しかしそこに集まる一人ひとりが、やはり現在日本のおかれている状況をしっかり認識して、民主主義と平和の問題で一致した認識をもつようになってくれば非常にいい、と思うのです。もし何かというときに──たとえば日本の民主主義の危機というときに──、原宿に集まっている人々が一緒になって民主主義、そして平和のために立ちあがるだけのものがエネルギーとしてあるようになれば、すばらしいと思うのです。

 わたくしは、現在われわれのまわりにおかれている平和というのは、偽の平和だとあえていいたいと思います。

 もしも平和というのが、戦争のない状態だと考えるならば、日本はたしかに第二次世界大戦で敗北したのちに、直接的には戦争をしていません。だから日本は平和なんだ、平和な日本はいい、いまのままでいい、平和だったじゃないか、何が悪いんだということになるわけです。しかし戦争のないという消極的な状態がたんに平和かという問題をわたくしは提起したいのです。

 戦争から出発して概念規定をし、たんに消極的に考えていけば、たしかに戦争のない日本は平和であります。ベトナム戦争で、アメリカがベトナムの人たちを殺すために日本の基地を全面的に使い、日本の工場でさまざまな軍用品がつくられようと、それは新聞にはあまりでません。いや、朝鮮戦争のときもそうでした。日本は、アメリカに基地を提供し、その基地から朝鮮へのアメリカの侵略がおこなわれたのです。そして日本は逆にもうけたのです。

 このように、かつてベトナムや朝鮮への侵略の基地となり、いま、緊急投入部隊の基地となり、原子力潜水艦の母港となっています。大規模な合同演習がおこなわれ、核事故の演習さえも、そのさい、おこなわれています。海外派兵や徴兵制さえ、もくろまれて、いったい、それで日本は平和だったのでしょうか。平和なのでしょうか。「全世界の国民が平和のうちに生存する権利を有することを確認」するとうたっている憲法の前文は、まったくふみにじられています。

わたくしは、このさい、平和というものを積極的に概念としてとらえるべきだと主張したいのです。つまり平和を、本当に民主主義が維持され、民族自決の権利が確立され、相互に尊重される、そういう状態、そういう秩序と考える。民主主義の貫徹をとおして、どんな意味でも他民族への侵略や抑圧のないような国際秩序。そう考えると、現代の日本のように、ひたすら熱い戦争の準備をおこなっている状況、平和憲法の原則がふみにじられており、さらに改憲してしまおうという状況などはとても平和とはいえません。

 ある大学でこのことを話したら、あとである学生が、偽の平和だといっても、実感≠ェないというんです。

 この問題についてはカール・マルクスの言葉をかりましょう。彼は実感≠ニいう言葉ではなく現象という言葉を使っていますけれども。現象と本質が一致していたら、科学というのはないといいます。現象と本質が一致してないからこそ、本当は何かということで本質をつかむ。現象から本質を探究し、そこから現象を理解する科学があるんだということ。現象をとらえることは大切です。現象は出発点です。しかし、そこから本質をつかんでいくことにまですすまなければなりません。実感はもちろん大切です。しかし、実感のみにたよっていては科学にはなりません。かりに会社の運営がごくスマ−トで、就職した労働者には、搾取はされていても実感のわかないことだってあるんでしょうから。

 わたくしはさらに一部の学生の現状について無関心≠ニいう言葉を使いましたが、しかし、人間はやはり社会とのかかわりのなかで生きているわけであって、社会の激変のなかで、この無関心は、けっして固定的なもの、不変なものではありません。これをどのように打開していくかは、学生のみなさん、みんなのあいだで考えていってもらいたいと思います。

そして、ここに集まっているみなさんは意欲的に社会科学を学ぼうとされているわけですから、自分たちのその問題をぜひ、まわりの学生にも話していっていただきたい。歴史のなかで現在をどう科学的にとらえるかについて論議していただきたい。ここにも社会科学を学ぶ学生に課せられた期待、任務があるのだと、わたくしは、強調したいと思うのであります。
(岩崎允胤著「学問・科学と青春」白石書店 p16-20)

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 俗流経済学は、ブルジョア的生産諸関係にとらわれたこの生産の当事者たちの諸観念を教義的に代弁し、体系化し、弁護する以外には、実際にはなにも行なわない。

したがって、まさに経済的諸関係の疎外された現象形態、そこでは、この諸関係が明らかに≠ホかげたものであり、完全な矛盾である現象形態──そして、もし事物の現象形態と本質とが直接に一致するなら、あらゆる科学は余計なものであろう──において、まさにそこにおいて、俗流経済学が申し分のないくつろぎを感じるとしても、そして、この諸関係の内的連関が隠蔽されていればいるほど、しかも、この諸関係が通常の観念になじむものとなればなるほど、それだけますます俗流経済学にとってこの諸関係が自明に見えるとしても、われわれにとっておどろくにはあたらない。

それゆえ、俗流経済学は、それが出発点にする三位一体、すなわち、土地──地代、資本──利子、労働──労賃または労働の価格が、明らかに&s可能な三つの組み合わせであることには、いささかも気がつかない。

まず、なんの価値ももたない使用価値である土地と、交換価値である地代があり、その結果、一つの社会関係が、物として把握され、自然にたいして比例関係におかれている。すなわち、同じ単位で計量できない二つの大きさが相互に関係するものとされている。

次に資本──利子。資本が貨幣で自立的に表わされた一定の価値額として把握される場合、ある価値はそれがもつ価値よりも多くの価値であるなどということは、明らかに*ウ意味である。まさに資本──利子という形態では、いっさいの媒介がなくなっており、資本は、そのもっとも一般的な、しかしそれゆえにまたそれ自身からは説明できない、不合理な定式に還元されている。それだからこそ俗流経済学者は、資本──利潤という定式よりも、ある価値が自分自身とは等しくないという摩阿不思議な性質をもつ資本──利子という定式を好むのである。

なぜなら、資本──利潤という定式の場合には、いまや現実の資本関係により接近するであろうからである。さらにまた、四は五ではなく、それゆえ一〇〇ターレルは一一〇ターレルではありえないという不安感によって、俗流経済学者は、価値としての資本から資本の素材的実体へ、労働の生産条件としての資本の使用価値である機械設備・原料等へ逃げ込む。

こうしてさらにまた、四イコール五という最初の不可解な関係の代わりに、一方における使用価値・物と、他方における一定の社会的生産関係・剰余価値との、まったく同じ単位で計量できない関係をつくり出すことに成功する──土地所有の場合と同じく。ひとたびこの同じ単位で計量できないものに到達するや、俗流経済学者には万事が明らかになり、彼はもはやそれ以上考えめぐらす必要を感じない。というのは、彼はまさにブルジョア的観念の「合理的なもの」に到達したからである。

最後に、労働──労賃、労働の価格は、すでに第一部で指摘したように、明らかに♂ソ値の概念と矛盾する表現であり、同じく、一般的にはそれ自体価値の一定の表現にすぎない価格の概念とも矛盾する表現である。また「労働の価格」というのは、黄色い対数というのと同様に不合理である。しかし俗流経済学者は、ここでますます満足する。というのは、彼はいまや、自分は労働にたいして貨幣を支払うのであるというブルジョアの深遠な洞察に達しているからであり、また、価値の概念にたいするこの定式の矛盾こそは、価値の概念を把握する義務から彼をまぬがれさせるからである。
(マルクス著「資本論L」新日本新書 p1430-1432)

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◎「もし事物の現象形態と本質とが直接に一致するなら、あらゆる科学は余計なものであろう」と。