学習通信050710
◎その向うに黒い背景が……

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 この間またカメラを売りに行った。
 また、なんていうとまるでプロの行商人みたいだけど、そうではない。ぼくは一般人のシロートで、カメラといえば買う立場のものである。
 でもカメラが好きだから、つい欲しいカメラを買って、それに満足したらまた欲しいカメラが出てきて、もう充分だと思うのについまた努力して買ってしまって、そうやっていつの間にかカメラが増えてしまうのだった。

 そうすると使わないカメラが出てくる。本来は写真を撮りたくてカメラを買うんだけど、プロじゃないから、そういつも撮るわけじゃない。時間があいたときにたまに撮るくらいだから、使う回数は少なく、使うカメラが限られてくる。どうしても使わないカメラが増えてくる。

 自分の部屋の中にある出番のないカメラを見ているのは心苦しいもので、自分はもうこれ以上使えないけど、誰かに使って欲しいと思う。とはいえ、もとは苦労して買ったものだから、簡単に人にあげるというわけにもいかない。そこで売るということになる。

 前に二度ほど売りに行ったことがあって。そのとき売るのも気持いいなと思った。買った値段よりはぐっと安くなるから損した感情はあるんだけど、でも売らずにまた持って帰って得かというと、そうでもない。もう使わないことはわかっているんだから、安くても手放してしまった方が、風通しもよくなりすっきりする。それがまた中古カメラ店に並んで、誰か、いまの自分よりも欲しい人に買われて使われると思うと、むしろそれでカメラが再生する感じで気持がいい。

 そのときは買い取り専門の光陽商事というところへ持って行ったわけで、そこの中古カメラ鑑定のおじさんの見方がてきぱきとしていて、シャープで、お、プロだな、と思った。

 ぼくだって中古カメラ店で買うときには、そのカメラをためつすがめつ、あれこれ操作してみて、程度が良いか悪いかを判定する。

 といっても、こちらはやはりプロではないから、そういうときは欲しいカメラを見つけたことで舞い上がっていて、あれこれ見たつもりでじつは見ていない。目に厳しさが足りない。

 買って帰ってから、自分の机の上で満足満足とその物を見ながら、あれ? と欠陥部分を発見したりする。

 レンズのカビというのは、前後から明かりに透かしてやっと見えるもので、よほど酷いのは透かさなくても正面からでも見えるが、現場では案外見落していたりする。机の上で良いレンズだなあと眺め入っているときなど、ひょいとした角度でカビを見つける。バルサムの溶けた広がりなども、ひょいと見つけてがっかりする。あんなにちゃんと見たはずなのに。

 このカビとか曇りの細かいものは光に透かしただけではわからず、逆光に透かしながら、しかもその向うに黒い背景がないと見えてこない。だから光源の周りに黒い紙を張りめぐらして、それでレンズ鑑定用のライトセットとしている人もいる。

 でもやっぱりシロートなのだ。欲しい、嬉しいという感情でつい流されてしまっている。

 その買い取り専門中古カメラ店の鑑定人はそんなことはない。舞い上がってなんかいない。そりゃお客さんが来るたびに舞い上がっていたら仕事にならないだろう。

 つまり冷静である。冷静というより、平常である。当り前である。
 でも舞い上がるのも気持いいもので、こりゃいいと思って気分が昂揚して、それでいい物をつかんだりもする。
(赤瀬川原平著「目利きのヒミツ」知恵の森文庫 p20-22)

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補前線について

その熊の色は何色か

 人生の書として役立つような数学の本がないだろうか──たとえば次のようなことばが次つぎと出てくるような。

──目的は手段を教える。
──何、なぜ、どこ、いつ、どのようにの五つを友とせよ。忠告が必要なときはこの五人の友にきくこと。他のものにきくな。
──何事をも信ぜず、疑う価値あるものについてのみ疑え。
──最初にみつけた松茸の近くをさがせ。松茸は群をなして生えているものだ。

 そういう本に私は古本屋でめぐりあった。以来、手のとどくところにいつもおいてある。アメリカの数学者ポリアの『いかにして問題をとくか』(柿内覧信訳、丸善)がそれで、右はそのある一ページからの書き抜き。

 最近出た増補版には次のような問題も出ていて、ますますこの本が好きになった。

 「一匹の熊が一点Pから南へむけて一マイル歩き、そこで方向を変えて真東に一マイル進んだ。そこでもう一度向きを変えて真北に一マイル進んだとき、ちょうど出発点にもどったとする。この熊は何色をしているか」

 答えは白色。なぜなら、述べられている条件を満たすような地点は北極以外にはありえず、北極に住む熊は白熊にきまっているから。


問題をいかに解くか

 中学校のころ、平面幾何の証明問題で、よく「適当な補前線を引くことを考えろ」といわれた。何が「適当な補前線」であるのかがわからないのだから困ってしまうが、それでもそれは貴重なヒントだった。そしてついにその「適当な補助線」を発見すると、それまではまったく不愛想で、何の手がかりもつかませずそっぽむいているみたいだった問題が、急に愛想よくニコニコして、むこうから手招きしてくれるのだった。

 ポリアの本で私がいちばん強く印象づけられたことも、一つはこの「適当な捕前線を発見することの意義」についてだ。

 問題を解くには、まず問題を理解することが大事だ、と彼はいう。すなわち「未知のものは何か、与えられているもの(データ)は何か、条件は何か」と考えること。その上で、問題を解くための計画を立てよ。次のように。

──似たような問題、関係がありそうな問題、未知のものが同じか、またはよく似ている問題を知ってはいないかと考えること。
──そういう問題とその解き方が思いだせたら、当面の問題の解決にそれを利用できないかと考えること。それを利用するために、適当な補助要素が導入できないか?
──問題をいいかえてみること。与えられた問題がどうしても解けなければ、何かこれに関連した問題を解こうとせよ。もっとやさしくて似た問題は考えられないか? もっと一般的な問題は? もっと特殊な問題は? 類推的な問題は?……

 そのままこれは人生の問題についてもあてはまるだろうと思う。

『数学小辞典』からのメモ

 『数学小辞典』(矢野健太郎編、共立出版)から補前線の項目を私のメモ帳に書き技いた。

 「図形に関する問題を解くとき、与えられた図形にない直線や円(またはその一部)を補って問題解決に利用することがある。このような直線や円(あるいはそれらを組み合わせた図形)を一般に補助線という。直線や円以外の線を用いることもありうる。……補前線を引くには条件を適用しやすくする、あるいは結論を導きやすくするという原則とともに、図形の相互関係をつけるという原則もある。その引き方はいろいろあって一定の法則がないところがむずかしい」

 そのむずかしいところがまた、おもしろいところでもある。人生においても同じだろう。右の引用で省略した「……」のなかには、「図形に関する問題は、適切な補前線を引くことによって解決される場合が多いので、問題の困難さがしばしば補前線を見いだすことの困難さにおきかえて考えられる弊害がある」という文章もあるということ、これもここにつけくわえておくべきだろうと思うが。

ユークリッドはもう古い?

 私のメモ帳のなかには、補助線にかかわる書き抜きがもう一つある。

「旧制中学の数学は、代数と幾何に分かれ、その中でも徹底的にしごかれたのは、因数分解と平面鏡何の証明であった。いずれも、いわゆるパズルのようなもので、特に平面幾何に至っては、一本の補助線を考えつくか否かに解答の成否がかかってくる。授業時間以外でも、電車の中やこたつの中で、いろいろ線を引いてみる。そして、補前線一本ドンずばり≠ニ解けたときの嬉しさは、大げさにいえば、天にものぼる感じである」

 「しかし、あの喜びを、現在の中高校生たちは、味わうことがなくなってしまった。その理由を数学者に問くと、″平面幾何は、それだけであって、将来の数学に結びつかないし、また現代社会の要求する数的処理にもつながらない≠ニいうことであった」

 これは太田次郎氏の『文科の発想・理科の発想』(講談社現代新書)から。では、ユークリッド幾何学は、いまはもうムダなだけの過去の遺物なのか。

 「こんなことを考えていたとき、分子構造を研究している化学者から、どうも近頃の学生は、イメージに乏しい。その原因は、幾何をやっていないことにあるのではないか≠ニいわれた」とも氏は書いている。

 「無駄だからやめてしまえという前に、どうして問題を解く喜びを残してやらなかったのであろうか」

 同感だ。何十年ぶりかに平面幾何の証明問題にとりくんでみようと思う。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p106-110)

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◎「補前線一本ドンずばり≠ニ解けたときの嬉しさは、大げさにいえば、天にものぼる感じである」と。