学習通信050712
◎とつおいつ迷ったあげく……
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無欲人生
久しぶりの休みの日、雪もよいの空がひるから嘘のように晴れ上がった。
いそいで布団を干したり白菜を潰けこんだり……ひと働きしたあとヤレヤレと縁側に座りこみ、新聞をひろげた。その片隅に、ピカソの遺産の記事がのっていた。
遺産の総額は七百二十億円だという。
それがいったいどのくらいのお金なのか──私など数字をみてもピンとこない。とにかく大変なものだ、と感心した。
お金の魅力は素晴らしい。人間はそれを手に入れるためにはどんなことでもしかねない。お金さえあれば、やりたいことは何でも出来る、と思っているから……。
(私にも、誰か遺産をくれないかしら。ピカソの何百分の一でもいいわ、そうしたらそのお金で私は……)
日向ぼっこの私の夢は──そこでプツンと切れた──。
(そのお金で……何がしたいのだろう)。去年の秋、めずらしくデパートヘ行った。忙しく働いたあとの気晴らしだった。(せいぜいムダづかいをしてくるといい)。わが相棒は笑っていた。
一時間も店内を歩きまわったが、欲しいものがみつからない。着物は、なじみの染物屋が私に似合う手ごろなのを探してくれるし、節の高くなった指は、ずっと前から指輪をはめていない。立派な机もハイカラな椅子も、せまいわが家に置く場所がないのはわかっている。ウロウロするうちに、あまりにものの多さに圧倒され、息苦しくなってきた。
結局、買ったのは、バスタオル二枚、ハンカチーフ五枚、手拭いかけ一つ、塩鮭二切れだった。われながらしみったれた話である。
生まれも育ちも悪いせいか、私たち夫婦はこんな暮らしが身についてしまった。ものは入り用だけあればけっこう。多すぎるものにふりまわされるようで、どうも落ちつかない。
(それなら、そのお金は貯金したら?)
でもOのふえた通帳の数字をいくら眺めてもどうということはないし、現金を抱えていたら強盗にねらわれるかもしれない。
(じやあ別荘を買ったら?)
めったに出かけるひまがないし、たまに行ったら、おそらく掃除に明け暮れて、くたびれ果てて帰ってくるのがオチだろう。
(それじゃ、仕事をやめて遊んでいたら? セリフもおぼえなくていいし……)
身体もあたまも使わなければ錆びる。用がなくなった老人は早死にするときいている。
おいしいものはたくさん食べられないし、外国旅行は、もうくたびれるだろうし……つまり、必要以上のお金が手に入っても、つかい道がない、というわけである。
(それなら、一億円あげると言われても、キ然として断わるだろうか?)
そんなもったいないこと……でも、とつおいつ迷ったあげく私はたぶんこう答えるだろ(……ほかのことはとにかく、それを戴くといろんな人が寄ってきて、暮らしのリズムが狂わされますからねえ、残念ですけれど……)
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p47-49)
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無題雑録(2)
昴、オリオン、天狼星
このところ「昴(すばる)」という歌をよくきく。香港や韓国にも伝わって、はやっているらしい。
昴、すなわちプレアデス、すなわち牡牛座(おうしざ)の六連星(むつらぼし)といえば、旧約聖書ヨブ記の一節、「汝、昴宿(ぼうしゅく)の鎖を結び得るや。参宿(さんしゅく)のつなぎを解き得るや」を思いだす。「参宿」とはオリオン座の三つ星のこと。
それからまた、吉田一穂の詩を思いだす。オリオンと、シリウスと、プレアデスとをあわせてうたいあげた絶唱を。
オリオンが来た! あゝ壮大な夜天の祝祭
鴨は谿(たに)の星明りに水俗し、遠く雪嵐が吠えている……
波荒いロフォデン仲あたり、鯨を探すマストの上から
未来に渇えた鋭い天狼星(シリウス)に指ふれている者があるであろうか。
〈夜毎そなたの指先に描かれて美しき一巡の真珠
昴(ブレアデス)も今は妹の眠りに、その白銀の夢を鏤(ちりば)めているであろう。〉
落葉松林の罠に何か獲物が陥ちたであろう。
弟よ晨(あした)雪の上に、新しい獣の足跡を探しに行こう。
群れ星、妖霊星、ダンテの道
この詩はのちにすっかり書きかえられ、手近な吉田一穂詩集では、シリウスにもプレアデスにも出あうことができない。右を私は、私にとってなつかしい故野尻抱影氏の『星座めぐり』(昭和二年、研究社)の中扉から引いてきた。
他の国にくらべてわが国の今日のこされている文献には、星を具体的にうたった歌がいちじるしく少ない。「汝の馬車を星につなげ」とエマスンはいった。「昴」が一つの転機となることを期待したいのだが。
もっとも、その少ないなかには強く印象に残るものもある。太平記巻五に出てくる「天王寺のやようれぼしを、見ばや」はその一つ。「天王寺のや、妖霊星の意で、のやは呼掛け。但し妖霊星という星はない。妖星で箒(ははき)星のつもりか」と国見正雄氏の注(角川文庫)にある。鎌倉幕府の滅亡に先だって、天狗たちが歌う歌である。それから、「ゑけ 上がる群れ星や」という沖縄のおもろの一節。「ゑけ」は感動詞である。
それからもう一つ、以上とは性質を異にするが、気になっているものがある。「参宿はダンテの道に落ちかかり」というのだ。気になっているというのは、それがここ一〇年間につくった私の唯一の十七字だからというだけのことで、それが俳句のていをなしているかどうかは知ったことではない。
ヌカミソと脳ミソ
学習会のあと、「記念に一筆……」と女性に本をもってこられ、表紙裏に何か書いた。何を書いたかは思いだせない。「君の馬車を星につなげ……」であったかもしれない。
「ボクにも」とつづいてやってきた男に書いた文句、それははっきりおぼえている。「ヌカミソも脳ミソもかきまぜぬとくさる」──即座にそう書いたのだった。
「女性にはやさしいこと書いて、オレにはこんな」と彼は口をとがらせた。「馬鹿をいえ」と私がいった。男だから、女性には甘く男性には辛い、という人がいるが、断じてそんなことはない。
彼と彼女とはいま夫婦で、近くはじめての子どもが生まれる。それはそうと、先日ある学習会にいったら、「ヌカミソも脳ミソもかきまぜるとくさる」とはどういうことですか、と質問された。どうやら、あの文句が一人歩きをしているうちに化けてしまったらしかった。
わがおばQの賛
親しい一人の詩人がいる。「コメディアン」を歌って踊ると、なかなかさまになる。
その詩のいくつかが雑誌にのり、批評ものった。「等身大の詩であることが人を安心させる」うんぬんとあった。
批評をといわれて「批評はできないが感想なら」と、詩に一つ足りぬ賛を試みた。題して「おばQの感想」という。おばQとは私の雅号のつもり。
おばQの感想
等身大ということが
人を安心させるということが
これらの詩のメリットであるなら
同時にそのことがこれらの詩のデメリットでもあると
そう覚悟しなければならないだろう
人は背伸びするから身長が伸びる
それが芸術的安住であれ
あるいは階級的自足であれ
およそ安住と自足とをゆるがすところ
そこに生命のあかしがある
とまあこんなふうにいってはみたが
これはあくまで感想への感想で
それではお前の感想はときかれれば
でてくるのはやっぱり等身大の感想
一十三=四
二×二=四
これおばQの等身大の詩
それはじつに人を安心させる
「きびしい批評をどうも」と、次に会ったとき彼女はいった。「ほめたつもりでもあったんだけどな……」と私がいった。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p111-116)
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等身大ということが
人を安心させるということが
これらの詩のメリットであるなら
同時にそのことがこれらの詩のデメリットでもあると
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