学習通信050716
◎共産党が非合法で弾圧されつづけた国……

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潮流

 またまた本欄に、アインシュタイン博士に登場してもらいましょう。一九二二年十二月、米日中の博士がのちの労農党代議士、山本宣治(山宣)と会ったときの話です

▼反戦論者の博士は、日本の軍国主義を非難しながら嘆きました。日本には社会民主主義の政党もない≠ニ。博士は、日本の民衆は平和を愛しているようだとの印象も語っています。民衆の意思を代表する党があれば、と願ったのでしょう

▼しかし実は、反戦の党は五ヵ月前の七月十五日、産声をあげていました。わが日本共産党です。残念ながら、公然と人々の前に姿を現すにはいたっていませんでしたが。創立まもない党の苦難は、想像を絶します

▼平和を愛する民衆の口を封じ、天皇のため勇んで命を投げ出す民を育てようと人間の心まで支配する、専制政治に立ち向かったのですから。先輩の一人、伊藤千代子はことし生誕百年です。文学少女が、恋愛の挫折などに傷つきながら世の真実にめざめる

▼人党、逮捕。治安維持法の改悪に反対した山立が殺されたころ、彼女は獄中にいました。拷問、夫の裏切りの衝撃。一時は精神を病んだものの屈せず、一九二九年二十四歳でカ尽きました

▼逮捕のときにもっていた党の文書は、「わが党は……帝国主義戦争の準備に対して闘う」と結んでいました『時代の証言者 伊藤千代子』(学習の友社)を著した藤田廣登さんは、その崇高な課題が戦後の日本国憲法に結実した、と書きます。彼女のこころざしを継ぐ決意を込めて。
(しんぶん赤旗 20050716)

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ニ、日本共産党の創立
 ──二十世紀の世界史の本流にたって

 日本共産党の創立は、二十世紀の日本が、専制政治と対外侵略に反対し、主権在民と平和の実現をかかげる運動と政党をはじめて生みだした、歴史的なできごとでした。そして、科学的社会主義の党の創立は、近代日本の社会進歩の伝統をうけつぎ、発展させるものとなりました。

社会進歩の伝統をうけつぎ、発展させて

 二十世紀はじめの日本では、社会主義をめざす運動と階級的な労働組合運動、農民運動が、社会進歩の運動の主な担い手となっていました。

 社会主義運動は、天皇制政府によるきびしい弾圧をうけながらも、社会主義研究会(一八九八年)、社会民主党(一九〇一年)をはじめさまざまな組織をつくり、男女平等の要求、言論・出版・集会・結社の自由、労働者の団結の自由、普通選挙の実施と貴族院の廃止、八時間労働の実行、小作人保護などをもとめました。これらの要求は、自由民権運動でかかげられた自由と民主主義の要求をさらに発展させたものでした。

また、幸徳秋水、堺利彦らの「平民新聞」(一九〇三〜○五年)は、日露戦争に反対する立場を表明しました。さらに、一九一〇年代から二〇年代はじめには、「大正デモクラシー」とよばれた民主主義運動がたかまりました。しかし、この運動では、天皇主権の枠内で国民の権利や議会の権限の拡大をもとめる主張が支配的でした。

 一九一八年、米の安売りと生活困窮の改善をもとめた「米騒動」という大規模な国民運動がおこり、一九年から二一年にかけて各地で八時間労働制や賃金ひきあげ、労働組合の承認を要求する労働者の運動がひろがりました。二〇年五月には日本最初のメーデーもおこなわれ、労働者の相互扶助と親睦団体としてつくられた友愛会も、労働組合の全国組織としての性格を明確にして、二一年には名称を「日本労働総同盟」にあらためました。また、二二年四月には、農民運動の全国的組織として日本農民組合が誕生しました。

 このような社会進歩をめざす運動のひろがりと、一九一七年にロシアでおきた社会主義革命の国際的な経験をへて、二一年、日本共産党準備委員会が組織され、党創立をめざす活動がはじまりました。共産主義者のいくつかのグループは、二二年の一月から二月にかけて、革命運動の国際組織「共産主義インタナショナル」(コミンテルン)のよびかけでひらかれた極東諸民族大会に、代表をおくりました。この大会への参加と、一九二一年いらいコミンテルンで活動していた片山潜らの援助も、日本共産党の結成をうながす力となりました。

 一九二二年七月十五日、日本共産党は、東京・渋谷の伊達町での会合をつうじて創立されました。荒畑寒村、堺利彦、山川均らが最初の執行部をつくりました。党は、党規約をさだめ、コミンテルンへの加盟をきめて、代表をコミンテルンに派遣しました。創立期の党員は、百人あまりでした。

 日本共産党は、誕生のそのときから、民主主義と平和の旗をかかげ、その後も、この立場で一貫して奮闘しました。党は、自由と民主主義の基本的な権利が存在しないもとで、天皇制政府に破壊されることなく活動をおこない、国民的な運動をすすめるために、非合法の政党として出発することをよぎなくされました。今日、サミット会議(先進国首脳会議)に参加している七つの国(アメリカ、イギリス、イタリア、カナダ、ドイツ、フランス、日本)でも、同じころに共産党が生まれましたが、そのなかで、生まれた最初のときから共産党が非合法で弾圧されつづけた国は、日本だけでした。

日本共産党とコミンテルン

 ー九二二年十一月、日本共産党は、コミンテルン第四回大会で、正式に日本支部としてみとめられました。

 共産主義インタナショナル(コミンテルン)は、一九一九年三月、レーニンの指導のもとにつくられた国際組織で、一九四三年の解散まで、各国の共産党は、その支部として活動しました。コミンテルンは、各国の共産党の創立と活動を援助し、資本主義諸国だけでなく、植民地・従属諸国での民族解放運動を重視しました。しかし、その活動には、「世界革命近し」という性急な情勢論、レーニンによる「議会の多数をえての革命」の道の原理的な否定、「単一の世界共産党」という組織形態にともなう各国の党と運動にたいする画一主義的な傾向をはじめ、政治上、理論上の大きな誤りや弱点も少なくありませんでした。晩年のレーニンは、労働者階級の「多数者の獲得」をめざす目標をかかげるなど、あたらしい路線の積極的な探究をはじめていましたが、二四年のレーニン死後、その探究もとざされてしまいました。

 生まれたばかりの日本共産党は、今日のような自主的な立場を自覚的にもつにはいたっていませんでした。その活動は、世界の革命運動の国際的到達点にもささえられながら、天皇絶対の専制政治をうちやぶり、民主主義の実現に全力でとりくむものでした。その点で、戦前の日本共産党の活動には、日本における民主主義革命の実現を重視したコミンテルンの前むきの援助とともに、コミンテルンの方針にともなう誤りや弱点もさまざまな形であらわれることになりました。

 コミンテルンは、日本共産党の加入から「三二年テーゼ」の作成のころまでは、初発からくる政治上、組織上のさまざまなゆがみはあっても、全体としては、革命運動における健全さをまだもっていました。しかし、一九三〇年代後半、コミンテルンにもスターリンの専制と弾圧がおよぶようになり、その結果、コミンテルン自身が各国の運動の前進をさまたげる反対物に変質をとげてゆくことになりました。

民主主義革命の旗をかかげた「綱領草案」

 日本共産党は、一九二三年二月、第二回党大会(干葉・市川)をひらき、つづいて同年三月、東京・石神井でひらいた臨時党大会で日本のあたらしい進路をしめす「綱領草案」を検討しました。この草案は、コミンテルンの委員会に片山潜らも参加して起草されたものです。

 「綱領草案」は、日本共産党がなしとげるべき中心的な任務として、国民の苦しみのおおもとにある天皇絶対の専制政治をやめさせ、主権在民の民主政治をつくる民主主義革命の旗をかかげました。そして、民主主義革命を完成させ、ひきつづいて社会主義革命に前進するという革命の展望をあきらかにしました。

 「綱領草案」はまた、平和・民主の日本をめざす三つの分野と二十二項目の「当面の要求」を提起しました。

 政治の分野では、「君主制の廃止、貴族院の廃止、十八歳以上のすべての男女にたいする普通選挙権の実現」のほか、労働者と労働者政党の団結の自由、出版・集会・ストライキの自由、天皇の軍隊・警察・憲兵・秘密警察の廃止などをあげ、国民が主人公となる民主政治をつくることをよびかけました。

 経済の面では、八時間労働制の実施、失業者保険をふくむ社会保障制度の充実、最低賃金制の実施、天皇と地主の大土地所有の没収と小作他の耕作農民へのひきわたし、さらに累進所得税などによる税制の民主化をもとめました。これらの要求は、大資本の横暴をおさえるとともに、農民を苦しめていた大地主の制度をなくして、国民の生活を抜本的に向上させる基本的な方向をしめしたものでした。

 さらに、外国にたいするあらゆる「干渉企図の中止、朝鮮、中国、台湾、樺太からの軍隊の完全撤退」をかかげました。「綱領草案」が、ロシア革命と中国への干渉に反対し、日本軍国主義の植民地であった朝鮮、台湾の解放をもとめたことは、侵略と戦争に反対し、平和の政治をもとめる日本共産党の確固とした立場を表明したものにほかなりません。

 党は、これらの「当面の要求」を確認し、大会後も「綱領草案」の検討をつづけましたが、二三年六月、最初の大規模な弾圧をうけ、草案の正式決定にはいたりませんでした。

 「綱領草案」でかかげた民主主義の課題は、戦後の憲法制定と民主化のなかで大問題となり、その多くが実現しました。日本共産党が、天皇絶対の専制政治下にあって、反戦・平和と主権在民の民主主義の立場を明確にかかげたことは、二十世紀の世界史の本流にたつものとして、日本と国民の歴史にとって、かけがえのない値打ちをもちました。

治安維持法──はげしい弾圧に抗して

 一方、天皇制政府は、日本共産党の主権在民と反戦平和の主張と運動を弾圧するために、一九二五年四月には、戦前の弾圧体制の中心をなした「治安維持法」をあらたにつくりました。二十五歳以上の男子の「普通選挙法」の実施を機会に、日本共産党をはじめ、民主主義運動が力をつよめることをおそれたからです。

 治安維持法は、一九二八年、天皇の命令である緊急勅令によって、最高刑を「死刑」にひきあげ、さまざまな口実で国民を弾圧する「目的遂行罪」をもうけて、弾圧の対象を大きくひろげました。また、四一年の改悪では、刑期がおわっても政治犯を獄につなぐ「予防拘禁」制度をつくり、弾圧体制をさらに強化しました。

 治安維持法は、日本共産党を最大の弾圧対象におき、天皇絶対の政治体制である「国体の変革を目的」とした結社(政党)を「組織したる者」「結社の役員其の他指導者たる任務に従事したる者」に、死刑、または無期刑をくわえました(一九二八年に政悪された治安維持法の第一条)。治安維持法は、「国体」の変革にふれない資本主義批判の主張や運動を、十年以下の懲役としました。これは、一般的な社会主義の主張や運動は多少みとめても、天皇絶対の体制の変革をめざす主張や運動はけっしてゆるさないという、天皇制政府の立場をしめしたものでした。

 天皇制政府は、「特別高等警察」(特高警察)などの弾圧機関を全国にはりめぐらし、日本共産党にたいする猛烈な弾圧と迫害をくりかえしました。

 しかし、日本共産党は、これに屈することなく、民主主義革命と侵略戦争反対の旗をかかげて、敢然とたたかいぬいてゆきました。
(「日本共産党の八〇年」日本共産党中央委員会 p17-23)

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◎「……社会進歩をめざす運動のひろがりと、一九一七年にロシアでおきた社会主義革命の国際的な経験をへて、二一年、日本共産党準備委員会が組織され、党創立をめざす活動がはじま」ったと。