学習通信050717
◎どちらも「大人が主導である」……

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「育つ」と「育てる」

 お茶の水女子大学学長の本田和子さんは、二〇世紀の子ども観を次のように述べています。

かつて、子どもとは、「授かる」ものであり、身ごもった女性たちは神仏からの授かりものとして、自身に宿った生命の神秘に畏怖した。しかし、いま、若い女性たちの意識に、子どもは「作られる」ものとして位置付いている。

 本田氏が述べるように、今日、子どもは「授かる」ものという感覚ではなく、「作られる」ものという考え方へと変化をしています。たとえば、医療の充実によって周産期死亡率が低下し、試験管でヒトの基となる受精卵が作られたり、生命が人工的に操作されたりするようになりました。夫婦は、個人の思い描くライフスタイルや、経済上の都合に合わせたバースプランを選択することが当たり前になっています。

 同時に、子どもは「育つ」ものではなく、「育てる」ものとみなされるようになりました。

 ときどき私が小児科の外来で、「あなたの育て方が、子どもの性格に与える影響の割合はどのくらいだと思いますか?」と質問すると、多くの母親が「七〇パーセント」と答えます。ともに過ごす時間が長いだけに、当然のことかもしれませんが、この数字は、「子どもは育てるもの」「成長の度合いは親しだい」という考えを象徴しているように思います。

 私は、「授かる」ものから「作られる」ものへ、「育つ」ものから「育てる」ものへ変化した育児観には、一つの共通点があると考えています。それは、どちらも「大人が主導である」、つまり最初に大人の働きかけがある、という点です。

 子どもは大人が守るもの、子どもは守られる権利をもつものという価値観が当たり前の時代ですから、さほど驚くことではないのかもしれません。しかし私は、本章と続く第4章で、赤ちやんの脳と行動の連動性を取り上げつつ、このことに疑問を呈したいと思います。
(小西行郎著「赤ちゃんと脳科学」集英社新書 86-87)

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 子どもがなにも言わずに力をこめて手をさしのばすときには、かれはものにふれようとしているのだ。かれには距離がわからないからだ。かれは思いちがいをしているのだ。しかし、泣き叫びながら手をだすときは、もう距離について思いちがいをしているのではなく、そのものにこっちへくるように、あるいはそれをもってくるように命令しているのだ。

第一の場合には、ゆっくりと一歩ずつ、そのもののほうへかれを連れていくがいい。第二の場合には、かれの言うことがわかるふりさえしないことだ。いっそう泣き叫んだら、なおさら耳を傾けないことだ。子どもは人々の主人ではないのだから、人々に命令しないように、また、ものはかれの言うことが聞こえないのだから、ものにも命令しないように、はやくから習慣をつけさせる必要がある。

だから、子どもがなにか見ているもので、あなたがたがあたえてもいいと思っているものをほしがったら、それを子どものところにもってくるより、子どもをそこへ連れていったほうがいい。そういうやりかたから、子どもは年齢にふさわしい結論をひきだす。その結論をかれに暗示する方法はほかにない。

 サン・ピエール師は大人を大きな子どもと呼んだ。逆に子どもを小さな大人と呼ぶこともできよう。こういう文句は警句としては真理をふくんでいる。原理としては説明を必要とする。しかし、ホッブスが悪人を強壮な子どもと呼んだとき、かれはまったく矛盾したことを言っていたのだ。

悪はすべて弱さから生まれる。子どもが悪くなるのは、その子が弱いからにほかならない。強くすれば善良になる。なんでもできる者はけっして悪いことをしない。全能の神のあらゆる属性のなかで、善なるものであるということは、それなしには神というものをとうてい考えることのできない属性である。二つの根元的なものをみとめたあらゆる民族は、かならず悪を善より劣るものとみなしている。そうでなければ、かれらは不条理な仮定をしたことになる。あとで出てくる「サヴォワの肋任司祭の信仰告白」を参照していただきたい。

 理性だけがわたしたちに善悪を知ることを教える。わたしたちに善を好ませ悪を憎ませる良心は、理性から独立したものであるが、理性なしには発達しえない。理性の時期がくるまでは、わたしたちは善悪を知らずに善いことをしたり悪いことをしたりする。だから、わたしたちの行動には道徳性がない。ただ、わたしたちに関係のある他人の行動についてそれを感じることがあるだけだ。子どもは目にはいるものをなにもかもぶちこわそうとする。手の届くところにあるものをなにもかも折ったり割ったりする。石をつかむように小鳥をつかみ、自分がなにをしているのかも知らずに、それをしめころす。

 なぜそんなことをするのか。まず哲学は、生まれつきの悪ということで説明しようとする。人間の傲慢、支配欲、自尊心、邪悪さなどでそれを説明しようとする。それに、と哲学はつけくわえて言うかもしれない、自分が無力であることを感じている子どもは、とかく暴カ行為を好み、それによって自分のカをたしかめようとするのだ、と。

しかし、円を描く人生の道を歩んでふたたび幼年時代の無力に連れもどされ、弱々しく衰えた老人を見るがいい。老人はじっと静かにしているばかりでなく、さらに身のまわりのすべてのものが静かにしていることを望む。ちょっとした変化もかれの心をみだし、不安にする。かれはいっさいのものが静けさをたもつことを望む。本来の原因が変わらないとしたら、同じ情念と結びついた同じ無力な状態が二つの時期においてどうしてそんなにちがった結果を生むことになるのか。そして、その原因のちがいは両者の肉体的な状態のほかに、どこにもとめることができよう。

活動の根源はどちらにも共通のものなのだが、一方においては発展しつつあり、他方においては消滅しつつあるのだ。一方は形成されつつあり、他方は破壊されつつある。一方は生にむかい、他方は死にむかっている。衰えていく活動力は老人の心のなかに集中する。子どもの心には活動力があふれ、外へひろがっていく。子どもはいねば、まわりにあるすべてのものに生命をあたえることができるくらいに自分が生命にみちていることを感じる。なにかつくろうとこわそうと、それはどちらでもいい。ただ、事物の状態を変えればいいので、変えることはすべて行動なのだ。こわす傾向のほうがつよいように見えるとしても、それは性質が悪いからではない。ものをつくる作業はいつも時間がかかるが、こわす作業は手っとりばやいので、子どもの活発な性質にいっそうむいているからだ。

 自然をつくった者は、子どもにそういう活動源をあたえると同時に、それがあまり有害なものとならないように注意をはらい、子どもにあまり大きなカをあたえないで活動させている。しかし、子どもは、自分のまわりにいる人を心のままに動かすことができる道具のように考えるようになると、こういう道具を好きなようにもちいて、自分の無力をおぎなう。こうなると、子どもは扱いにくくなり、暴君になり、命令的で、意地悪で、手がつけられなくなる。この進化は生まれながらの支配欲によるものではなく、この進化が子どもに支配欲をあたえるのだ。他人の手で行動するというのは、さらに、舌を動かしさえすれば世界を動かすことができるというのは、どんなに愉快なことであるかを知るには、それほど長い経験を必要としない。

 成長するにしたがって人間はカを獲得する。もっと落ち着きができて、騒々しくもなくなる。反省力もついてくる。魂と肉体はいわば均衡状態におかれて、自然は自己保存に必要な運動だけをわたしたちにもとめるようになる。しかし、命令したいという欲望は、それを生じさせた必要とともに消え去るものではない。支配は自尊心を呼び覚まし、それに媚び、さらに習慣が自尊心をつよめる。こうして気まぐれが必要に代わり、こうして偏見と臆見が最初の根をおろす。

 ひとたび原則がわかれば、わたしたちはどこで自然の道からはずれたかをはっきりと知ることができる。そこで、自然の道にとどまるにはどうしなければならないかを見ることにしよう。

 子どもはよけいなカをもっているどころではない。自然がもとめることをみたすのに十分な力さえもたないのだ。だから、自然によってあたえられたすべての力、子どもが濫用することのできない力を、十分にもちいさせなければならない。第一の格率。

 肉体的な必要に属するあらゆることで、子どもを助け、知性においても力においても子どもに欠けているものをおぎなってやらなければならない。第二の格率。

 子どもを助けてやるばあいには、じっさいに必要なことだけにかぎって、気まぐれや、理由のない欲望にたいしてはなにもあたえないようにすること。気まぐれは自然から生ずるものではないから、人がそれを生じさせないかぎり、子どもがそれになやまされることはないのだ。第三の格率。

 子どものことばと身ぶりを注意ぶかく研究して、いつわることのできない年齢にある子どものうちに、直接に自然から生ずるものと臆見から生じるものとを見わけなければならない。第四の格率。

 これらの規則の精神は、子どもにほんとうの自由をあたえ、支配力をあたえず、できるだけものごとを自分でさせ、他人になにかもとめないようにさせることにある。こうすればはやくから欲望を自分の力の限度にとどめることにならされ、自分のカでは梅られないものの欠乏を感じなくてもすむようになる。
(ルソー著「エミール -上-」岩波文庫 p80-84)

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◎「こうすればはやくから欲望を自分の力の限度にとどめる」と。