学習通信050719
◎「わからない」と正直に語る科学者……

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主張
アスベスト被害の救済と防止を徹底して

 石綿(アスベスト)を取り扱った労働者が、がんやじん肺で三百五十人以上も死亡していたことが明らかになりました。被害は家族、周辺住民にも及び、不安が高まっています。徹底した実態調査と救済、被害防止の対策が急がれます。

■対策遅れが犠牲拡大

 耐火・耐熱性のある石綿は建材、自動車部品などに広く使われ、とくに建材が九割を占めます。一九七〇、八〇年代は毎年三十万トン前後も輸入され、最近でも毎年数万トンを輸入し使ってきました。

 花粉より細かい石綿の粉じんを吸入するとがんの一種である悪性中皮腫(ちゅうひしゅ)や肺がんなどを発症します。中皮腫は平均四十年前後も潜伏期間があり「静かな時限爆弾」とも呼ばれます。中皮腫による死亡者は今後四十年間で十万人にのぼるという予測もあります。

 石綿による健康障害は、早くから知られ、がんとの関係も一九五〇年代には知られていました。しかし、職場の労働者も家族も、石綿の健康被害の怖さを十分知らされず、長期に危険にさらされました。

 石綿を原因とする労災補償は、二〇〇三年に中皮腫八十三人、肺がん三十八人で、十年前の六倍に急増しています。石綿との関連が強いとされる中皮腫による死亡者は、九五年以降六千人を超えますが、認定は二百八十四人で5%にすぎません。

 犠牲者がこれだけ広がったこと自体、企業と行政による安全対策の遅れと不備を示しています。

 危険な石綿の吹き付け作業は一九七五年に原則禁止となりました。しかし、石綿の切断作業時の呼吸用の防護具、保護衣の使用が義務付けられたのは九五年からです。

 欧州諸国では八〇、九〇年代に石綿の使用禁止が広がり、ドイツは九三年、フランスは九六年に原則禁止としたのに、日本で大量使用を続けたことは重大です。

 九五年に毒性が強い青石綿、茶石綿の製造・輸入を禁止しましたが、製品の回収は行わず、白石綿は禁止しませんでした。〇四年十月から白石綿を使った建材などの製造は禁止ですが、全面禁止ではありません。

 “安くて使いやすい”として、安全対策も不十分なまま大量に石綿の製造や使用を続けてきた企業と、危険性が分かっていながら長期に使用を認め、被害を放置してきた政府の責任が厳しく問われます。

 これからとくに懸念されるのは、石綿を吹き付けた建物の改修・解体による被害です。石綿の飛散で、建設労働者や業者が危険にさらされ、住民への影響も心配されます。

 これまでも石綿の飛散防止策に費用がかかることもあり、防護策が十分とられていない現実があります。阪神・淡路大震災でも建物の解体の際、石綿を除去しないで解体する例が相次ぎ、問題になりました。

 石綿を吹き付けた建物解体のピークは二〇二〇年から四〇年ごろになるとみられます。今月から建物の解体時の被害防止策などを定めた予防規則が施行されました。対策を事業主に徹底し、防護策に必要な経費の補助も検討することです。

■実効ある対策が急務

 石綿を取り扱ったすべての労働者と退職者、家族や周辺住民の実態の把握と健康診断、健康管理手帳の交付などの救済と補償、労災の認定基準の改善や医療機関への徹底が急務です。公共施設の石綿の除去も不十分であり、民間施設を含めて石綿使用の現状把握と安全な除去など実効ある対策が求められます。
(「しんぶん赤旗」20050712)

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科学者の責任と倫理

 最近、科学者・技術者(あるいは、科学の訓練を受けた者)にかかわる事件が、次々と起こりました。阪神・淡路犬震災、オウム騒動、高速増殖炉「もんじゅ」の事故、エイズ訴訟などです。これらの事件の中で、科学に携わる者の考え方・限界・問題点などが大きくクローズアップされました。彼らが特別なのではなく、多かれ少なかれ、現在の科学者・技術者の考え方や生き方を反映していますから、それらの事件の中で見えた彼らの反応を振り返りつつ、現在の科学者が果たすべき責任やもつべき倫理を考えてみたいと思います。

阪神・淡路大震災

 あの大地震が起きたとき、京都のわが家も大きく揺れ、私はびっくりして飛び起きました。幸い茶碗を数個割ったくらいですんだのですが、豊中市にある研究室では本棚がすべて倒れており、もし昼間なら、私も本の下敷きになって命を失ったかもしれないと思ったものです。実は、「関西には地震は起こらない」という俗説があり、私も油断していました。「関西にも地震は起こる」と警告していた地震学者もいましたが、その声は一般の私たちには届いていませんでした。だから、地震対策も関西ではほとんど考慮されてこなかったのです。

 震災後のさまざまな報道を見、その中で科学者が発言していることを聞きながら、専門家と呼ばれる科学者が、自然や学問についての謙虚さを失っていることを強く感じました。

 地震学者は、長い間「地震は予知できる」と言い続けて、多くの研究予算を獲得してきました。そのため、私たちも地震がいつ起きるかの予知ができるはずという幻想を抱かされていたのです。今回の震災で、私は、地震学の現状を調べてみました。その結果、地震のデータは多く集まり、振動の波形分折・地殻の歪み・重力異常などから、地震の規模・伝播の仕方・起こり得る被害などを計算することができるようになりつつある、ということがわかりました。つまり、地震が起こるメカニズムや、いったん地震が起こればどうなるかの研究は大いに進んだのです。

 しかし、地震が、「いつ、どこで、どのような規模で」起こるかを予知することについては、さっぱり進んでいない、ということがわかってきました。というのも、地震は地下数十キロメートルでの岩石破壊現象ですから、岩石の性質を手にとってくわしく調べることはできず、また現代物理学が最も不得手とするカオスにからむ問題なのです。したがって、いずれ地震は起こるとは言えても、いつ、どこで起こるかは、現在の知識では言えないのです。「地震予知」とは、「いつ、どこで、どのような規模で地震が起きると予言する」ことですから、現段階では地震予知はできないのです。

 むろん、このことは当然地震学者もよく知っていることですが、必ずしも明言していないのです。逆に、「地震予知連絡会」という法律でつくられた組織に参加して、「地震を予知して内閣に知らせる」ことを義務にしています。実際にはできないことを、できると約束しているのです。なぜ、そんな矛盾した態度をとっているのでしょうか。地震予知事業に投入される研究予算を失いたくないからとしか考えられません。この態度は、何も地震学者に限りません。研究予算を確保するために、「作文」と称して、私たち科学者はできもしないことを約束することが多いからです。

 私は、このような態度は科学者の退廃であると思っています。研究予算がないと研究者として生きていけないのは事実ですが、それを獲得するために真実をゆがめるのは、科学者の真実を探求するという使命と矛盾しているからです。特に、人命にかかわるような分野では、殺人に加担しているといわれても仕方がないでしょう。

科学者とはどのような人間か

 科学者は、何もかもわかっている人間なのではなく、「「現在、何がわかっていて、何がわかっていないか」を最もよくわかっている人間」なのです。わからないことを研究しているのが科学者なのですから。だからこそ、「何がわかっていないかを正直に話すこと」が、科学者の責任なのだと思います。

 アメリカのサンフランシスコで地震が起こり、高速道路が壊れました。そのとき、ある交通工学の学者が、「日本ではあんな事故は起きない」と絶対安全を保証しました。しかし、阪神・淡路大震災で高速道路がひっくり返り、彼は何も保証したことになっていませんでした。「これ以上の地震が起こったら、この高速道路は壊れます」というのが、本来の科学者の役割なのです。つまり、「私の知識の限界はここまでですから、それを越える部分はわからないから保証できない」と言うべきだと思います。科学にかかわることで「絶対」はないのです。私たちは、まだ自然現象の一部分しか理解しておらず、未知の部分があるかぎり、「絶対安全」などと「絶対に」言えないはずです。「わからない」と正直に語る科学者の方が、「わかっている」と得意げに語る科学者より信頼できるのです。

 地震学者は、地震の予知ではなく、地震が起こった場合の防災にこそ、その知識が生かせるでしょう。地震の揺れから、規模や起こり得る災害を予測できるのですから。だから地震学者が中心になり、都市工学・交通工学・地方自治体こライフライン(水道・電気・ガス)の管理者が共同して、地震防災体制を組むべきだというのが私の意見です。そうしてこそ、科学者の社会的責任を果たすことになるでしょう。
(池内了著「科学の考え方・学ぶ方」岩波ジュニア新書 p162-166)

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科学──このすばらしきもの

 理論物理学──というのが私の専門だ。何やらいかめしく聞こえるが、物理学というのは、私たちの身のまわりのことから、手の届かない宇宙の彼方の出来事にいたるまで、まさしく森羅万象の理を解き明かす学問なのである。この学問の楽しさは、自然の深遠さ、神秘さに日々触れられることである。一見複雑にみえる事象も、それを支配している法則はとても単純であることがしばしば見出される。科学者がこんなことを言うのはおかしいかもしれないが、芸術品のように美しい法則に出会うとき、そこに神の手といったものを感じてしまうことがある。

 自然のベールを一枚、一枚取り除いていった人間の英知にもなんともいえない感動を覚える。自然科学が科学としての体裁を整え出したのは十七世紀だから、わずか三〇〇余年前のことである。地動説を支持したガリレイがローマに幽閉され、やっと許されたとき、「それでも地球は動いている」と言ったのは一六三三年のことである。それから手さぐりで、紆余曲折しながらも、科学は着実に進歩してきた。いく人もの科学者のいくつものドラマがあった。今、私たちは、宇宙の始まりのようすから、誰もその存在を確かめたことのない素粒子の構成要素の性質にいたるまで、多くのことを知っている。

 物理学をふくめた自然科学の成果は、技術を通して人間の生活にあらゆる形で還元されている。科学と技術は、時には一方が他方に先行し、影響を与えながら、相まって進んできた。科学者の立場から言うと、自分の研究によって自然の秘密を解き明かすこと自体、至上の喜びだが、それが何らかの形で人類のために役に立ち得るとしたら、二重の喜びになる。

 私の研究の一つにアモルファス物質がある。物質を構成している原子が秩序正しく並んだものを結晶と言い、そうでないものをアモルファス物質と言う。アモルファス物質は、原子の配列が不規則なために、数学的な取り扱いはむずかしく研究は遅れているが、不規則性のためにかえって優れた性質をもつことがある。たとえばアモルファス半導体は、大陽の光のエネルギーを電気のエネルギーに変えるのに使われる。太陽電池とよばれているが、廃棄物もないクリーンなエネルギーだし、天然資源のない日本のような国でも太陽の光さえあれば手に入るので、二十一世紀の夢の素材として注目されている。自分の研究がそういうものに結びついていることが分かっているときには、とてもやりがいがある。

 まだまだ分かっていないこともたくさんある。生命の機構などもやがては物理の対象になるはずのものだ。不治の病も解明され治療法がみつかるはずだ。

 科学の成果はいつも人類の幸せのために使われるとは限らない。どんなものだって悪魔の手にわたったならば、凶器になり得る。諸々の兵器が最たる例である。人間の英知は、人間が悪魔になることを防がねばならない。そしてこれは、科学者も含めたすべての人間の責任である。
(米沢富美子著「人生は夢へのチャレンジ」新日本出版社 p12-14)

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◎「人間の英知は、人間が悪魔になることを防がねばならない」と。