学習通信050722
◎暴政を避けんと欲せば……

■━━━━━

人は同等なること

 初編の首(はじめ)に、人は万人みな同じ位にて生まれながら上下の別なく自由自在云々とあり。今この義を拡めて云わん。人の生まるるは天の然らしむるところにて人力にあらず。この人々互いに相敬愛しておのおのその職分を尽くし互いに相妨ぐることなき所以は、もと同類の人間にしてともに一天を与(とも)にし、ともに与に天地の間の造物なればなり。譬えば一家の内にて兄弟相互に睦しくするは、もと同一家の兄弟にしてともに一父一母を与にするの大倫あればなり。

 ゆえに今、人と人との釣合いを問えばこれを同等と云わざるを得ず。ただしその同等とは有様の等しきを云うにあらず、権理通義の等しきを云うなり。

その有様を論ずるときは、貧富、強弱、智愚の差あること甚だしく、あるいは大名華族とて御殿に住居し美服美食する者もあり、あるいは人足とて裏店に借屋して今日の衣食に差し支うる者もあり、あるいは才智逞しゅうして役人となり商人となりて天下を動かす者もあり、あるいは智恵分別なくして生涯、飴やおこしを売る者もあり、あるいは強き相撲取りあり、あるいは弱きお姫様あり、いわゆる雲と泥との相違なれども、また一方より見てその人々持ち前の権理通義をもって論ずるときは、いかにも同等にして一厘一毛の軽重あることなし。

すなわちその権理通義とは、人々その命を重んじ、その身代所持の物を守り、その面目名誉を大切にするの大義なり。天の人を生ずるや、これに体と心との働きを与えて、人々をしてこの通義を遂げしむるの仕掛けを設けたるものなれば、何らの事あるも人力をもってこれを害すべからず。

 大名の命も人足の命も、命の重きは同様なり。豪商百万両の金も、飴やおこし四文の銭も、己が物としてこれを守るの心は同様なり。世の悪しき諺に、「泣く子と地頭にはかなわず」と。またいわく、「親と主人は無理を云うもの」などとて、あるいは人の権理通義をも任ぐべきもののよう唱うる者あれども、こは有様と通義とを取り違えたる論なり。地頭と百姓とは、有様を異にすれどもその権理を異にするにあらず。百姓の身に痛きことは地頭の身にも痛きはずなり、地頭の口に甘きものは百姓の口にも甘からん。痛きものを遠ざけ甘きものを取るは人の情欲なり、他の妨げをなさずして達すべきの情を達するはすなわち人の権理なり。この権理に至りては地頭も百姓も厘毛の軽重あることなし。ただ地頭は富みて強く、百姓は貧にして弱きのみ。貧富強弱は人の有様にてもとより同じかるべからず。

 しかるに今、富強の勢いをもって貧弱なる者へ無理を加えんとするは、有様の不同なるがゆえにとて他の権理を害するにあらずや。これを譬えば力士がわれに腕の力ありとて、その力の勢いをもって隣の人の腕を捻り折るがごとし。隣の人の力はもとより力士よりも弱かるべけれども、弱ければ弱きままにてその腕を用い自分の便利を達して差し支えなきはずなるに、謂れなく力士のために腕を折らるるは迷惑至極と云うべし。

 また右の議論を世の中のことに当てはめて云わん。旧幕府の時代には士民の区別甚だしく、士族はみだりに権威を振るい、百姓・町人を取り扱うこと目の下の罪人のごとくし、あるいは切捨て御免などの法あり。この法によれば、平民の生命はわが生命にあらずして借り物に異ならず。百姓・町人は由縁もなき士族へ平身低頭し、外にありては路を避け、内にありて席を譲り、甚だしきは自分の家に飼いたる馬にも乗られぬほどの不便利を受けたるはけしからぬことならずや。

 右は士族と平民と一人ずつ相対したる不公平なれども、政府と人民との間柄に至りてはなおこれよりも見苦しきことあり。幕府はもちろん、三百諸侯の領分にもおのおの小政府を立てて、百姓・町人を勝手次第に取り扱い、あるいは慈悲に似たることあるもその実は人に持ち前の権理通義を許すことなくして、実に見るに忍びざること多し。そもそも政府と人民との間柄は、前にも云えるごとく、ただ強弱の有様を異にするのみにて推理の異同あるの理なし。

百姓は米を作りて人を養い、町人は物を売買して世の便利を達す。これすなわち百姓・町人の商売なり。政府は法令を設けて悪人を制し善人を保護す。これすなわち政府の商売なり。この商売をなすには莫大の費えなれども、政府には米もなく金もなきゆえ、百姓・町人より年貢・運上を出だして政府の勝手方を賄わんと、双方一致のうえ相談を取り極めたり。これすなわち政府と人民との約束なり。ゆえに百姓・町人は年貢・運上を出だして固く国法を守れば、その職分を尽くしたりと云うべし。政府は年貢・運上を取りて正しくその使い払いを立て人民を保護すれば、その職分を尽くしたりと云うべし。

双方すでにその職分を尽くして約束を違うることなきうえは、さらに何らの申し分もあるべからず、おのおのその権理通義を逞しゅうして少しも妨げをなすの理なし。

 しかるに幕府のとき政府のことをお上様と唱え、お上の御用とあれば馬鹿に威光を振るうのみならず、道中の旅籠までもただ喰い倒し、川場に銭を払わず、人足に賃銭を与えず、甚だしきは旦那が人足をゆすりて酒代を取るに至れり。沙汰の限りと云うべし。あるいは殿様のものずきにて普請をするか、または役人の取り計らいにていらざる事を起こし、無益に金を費やして入用不足すれば、いろいろ言葉を飾りて年貢を増し御用金を云いつけ、これを御国恩に報ゆると云う。

そもそも御国恩とは何事を指すや。百姓・町人らが安穏に家業を営み、盗賊・ひとごろしの心配もなくして渡世するを、政府の御恩と云うことなるべし。もとよりかく安穏に渡世するは政府の法あるがためなれども、法を設けて人民を保護するはもと政府の商売柄にて当然の職分なり。これを御恩と云うべからず。政府もし人民に対しその保護をもって御恩とせば、百姓・町人は政府に対しその年貢・運上をもって御恩と云わん。政府もし人民の公事訴訟をもってお上の御厄介と云わば、人民もまた云うべし、「十俵作り出だしたる米のうちより五俵の年貢を取らるるは百姓のために大なる御厄介なり」と。

いわゆる売り言葉に買い言葉にて、はてしもあらず。とにかくに等しく恩のあるものならば、一方より礼を云いて一方より礼を云わざるの理はなかるべし。

 かかる悪風俗の起こりし由縁を尋ぬるに、その本は人間同等の大趣意を誤りて、貧富強弱の・有様を悪しき道具に用い、政府富強の勢いをもって貧弱なる人民の権理通義を妨ぐるの場合に至りたるなり。ゆえに人たる者は常に同位同等の趣意を忘るべからず。人間世界に最も大切なることなり。西洋の言葉にてこれをレシプロシチ(reciprocity 相互関係)またはエクウオリチ(equality 平等関係)と云う。すなわち初編の首に云える万人同じ位とはこのことなり。

 右は百姓・町人に左担(さたん)して思うさまに勢いを張れという議論なれども、また一方より云えば別に論ずることあり。およそ人を取り扱うには、その相手の人物次第にておのずからその法の加減もなかるべからず。元来、人民と政府との間柄はもと同一体にてその職分を区別し、政府は人民の名代となりて法を施し、人民は必ずこの法を守るべしと、固く約束したるものなり。譬えば今、日本国中にて明治の年号を奉ずる者は、今の政府の法に従うべしと条約を結びたる人民なり。ゆえにひとたび国法と定まりたることは、たといあるいは人民一個のために不便利あるも、その改革まではこれを動かすを得ず。小心翼々謹みて守らざるべからず。これすなわち人民の職分なり。

しかるに無学文盲、理非の理の字も知らず、身に覚えたる芸は飲食と寝ると起きるとのみ、その無学のくせに慾は深く、目の前に人を欺きて巧みに政府の法を遁れ、国法の何物たるを知らず、己が職分の何物たるを知らず、子をばよく生めどもその子を教うるの道を知らず、いわゆる恥も法も知らざる馬鹿者にて、その子孫繁昌すれば一国の益はなさずして、かえって害をなす者なきにあらず。かかる馬鹿者を取り扱うには、とても道理をもってすべからず、不本意ながら力をもって威し、一時の大害を鎮むるよりほかに方使あることなし。

 これすなわち世に暴政府のある所以なり。ひとりわが旧幕府のみならず、アジヤ諸国古来みな然り。されば一国の暴政は必ずしも暴君暴吏の所為のみにあらず、その実は人民の無智をもって自ら招く禍なり。他人にけしかけられて暗殺を企つる者もあり、新法を誤解して一揆を起こす者あり、強訴を名として金持の家を毀(こぼ)ち酒を飲み銭を盗む者あり。その挙動はほとんど人間の所業と思われず。かかる賊民を取り扱うには、釈迦も孔子も名案なきは必定、ぜひとも苛刻(苛酷)の政(まつりごと)を行うことなるべし。ゆえにいわく、人民もし暴政を避けんと欲せば、すみやかに学問に志し自ら才徳を高くして、政府と相対し同位同等の地位に登らざるべからず。これすなわち余輩の勧むる学問の趣意なり。
(福沢諭吉著「学問のすすめ」中央クラシックス p14-19)

■━━━━━

「国民による政治」が原則………

 民主主義の思想を政治制度にあてはめたものが、いわゆる国民主権主義です。国民主権というのは、国民が自ら政治の主人公であるという考え方を基本としています。単なる「国民のための政治」ではなくて、「国民による政治」というのが民主主義政治の原則なのです。「国民のための政治」ということなら、たとえば、仁徳天皇のように国民のことを思いやる独裁的支配者が出てきて、国民のために善政をほどこすということでもよいわけです。しかし、どんなにすぐれた独裁者の場合でも、独裁は、民主主義に反します。民主主義という以上は、国民こそが政治の主体でなければなりません。

 明治憲法では、天皇主権であって、国民が政治の主人公ではありませんでしたから、政治に責任をもつことができませんでした。かつてのあの無謀な戦争を引きおこしたのも、天皇と天皇をとりまく政治家や軍人たちの責任であって、国民に戦争責任があろうはずがありません。しかし、現行憲法のもとでは、国民が政治の主人公になりましたから、今や、政治を良くするも悪くするも、国民しだいということになります。物価があがるとか、税金がふえるとか文句をいっても、そういうことをきめる議会の議員は、国民がえらんだものなのですから、結局、そういう議員をえらんだ国民の責任ということになりましょう。

 しかし、この国民主権の思想が、はたして現実の日本で、どの程度、定着しているか、かなり疑わしいところです。たとえば、いまの政治や議会に対して不満をたくさんもっていながら、投票にも行かない人がいます。この人たちは、結局、「あなたまかせ」の精神から脱却していません。自分たちの手で、よい国をつくるのだという積極的主体性に欠けているといえましょう。若い人の間にも棄権が少なくないのは、困ったことです。過保護に育てられて、「あなたまかせ」が習慣となってしまったからでしょうか。この人たちは、一体、何のために憲法をまなんだのでしょうか。

 他方、投票に行けばよいというものでは、もちろんありません。買収選挙は、決してまれではないのです。買収する方も悪いのですが、買収される方も、無責任きわまるというべきです。これでは、国民主権が泣くでしょう。買収とまでゆかなくとも、政党の政策を全く知らないで、かっこがよいとか、義理人情とかで、わけがわからないまま投票に行くのも、主権者としての責任ある行動とは言いかねます。

政治的自由は民主主義の核心………

 もう一つ、国民主権の根本間題として、国民の政治的自由ということを取り上げてみます。国民主権を基礎にする以上は、国民の一人ひとりが政治に参加して、政治的活動をするのがむしろ原則になります。ところがわが国は政治的自由というものが大幅に制限されている非常にめずらしい国なのです。

いくつかの特徴的な例をあげてみますと、たとえば公務員の政治活動が禁止されています(国家公務員法、地方公務員法)。公務員が自分の政治的立場を公務の中に持ち込むことはいけないということははっきりしています。しかし、そういうことでなく、公務員が公務を離れて、つまり仕事から解放されて、家へ帰って市民として生活をしている場合であっても政治活動をしてはいけないというのがいまの法律なのです。これは非常におかしな法律です。

たとえば総理大臣をはじめ、大臣は最上級公務員ですが、自民党員である大臣は大っぴらに自民党の応援演説ができます。あるいは、○○省の元次官というような人が参議院選挙に立候補すると、その省の局長や課長が「先輩」のために選挙運動をしていることも広く知られているとおりです。ところが逆に末端の労働者である郵便局の配達員などの公務員、が革新政党支持のビラを、仕事が終わってから張っただけで、法律違反ということでつかまり有罪になるという、たいへん不公平でおかしな現象があります。私たちはこういう公務員の政治活動の禁止は憲法違反だと考えています。

裁判所は長い間この点について意見が分かれていましたが、最近の最高裁の判決では、公務員の政治活動を禁止することは合憲であるという判決を出しております(代表的なのは、昭和四十九年十一月六日の最高裁判決で、猿仏事件といいます)。このように公務員の政治活動を禁止する法律があるのは、国民主権の原則的考え方が、一般の国民にもまだよく理解されていないからです。

 第二に、公職選挙法という、これまたたいへん奇妙な法律をあげることができます。選挙の時期は国民の政治的関心が一番高まる時期ですから、選挙の期間中こそ、自由な政治的運動をする必要があります。ところが公職選挙法によると、選挙の告示があるまではできた政治的活動が、告示の途端にできなくなるのです。現行の公職選挙法ではビラまきが制限されています。最近の改正では街頭演説を規制したり、機関紙などを売ったりすることをも禁止し、ますます政治的自由が制限されてきています。

 また公選法には戸別訪間の禁止という条項があります。先進国で戸別訪問を禁止している国はほかにはありません。人の家か一戸一戸訪ねて、政治的問題をじっくりと話し合うということがなぜいけないのか。まちの中を、大きな声を出して自動車で走りまわるより、はるかに有効な政治的対話ができるはずです。憲法の国民主権の原則からいえば、戸別訪問をすることはあたりまえのことです。戸別訪問の禁止、その他の選挙期間中の政治運動の禁止の理由はどこにあるのかというと、要するに金のかかる選挙はいけない、戸別訪問を許すと買収があるかもしれないということがその理由とされています。

 しかし、たとえば買収はさきほどものべましたように、戸別訪問の禁止があってもなくても現実に行なわれているのです。戸別訪間を禁止しても買収がなくなるわけではありません。むしろこういうふうにあれをしてはいけない、これをしてはいけないということをきめることによって、国民の政治的関心が低くなるばかりです。国民の政治的関心が低くなれば、国会と国民との距離があいてしまいます。つまり国会は国民の目の届かないものになって、堕落するという結果を生みます。

 真に国民主権の原則からいえば、日本の国の政治の主体は国会ではなくて国民ですから、国会へは国民の代表を出すわけですが、その国会を国民の監視のもとに置かなければならないのです。絶えず国民が国会を監督し、コントロールすることが必要であり、そのための政治運動の自由ということがなくてはならないのです。

 国民主権の原則である政治的自由がなければ国民主権は「絵にかいたもち」ですから、これを制限する公職選拳法の改正は、民主主義の根幹にふれるきわめて重要な間題なのです。ところが、国民の間では、それほど重要な問題であるという意識は低いようです。政治的自由がどんなに大切であるかということについての認識が十分でないようです。

 新聞などにしても、日本の民主主義の根幹にかかわる重要問題だというキャンペーンはしません。こういうことも、民主主義の原点にさかのぼってもう一度考えなければならないと思います。
(渡辺洋三著「憲法のはなし」新日本新書 p17-21)

〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓〓
◎「絶えず国民が国会を監督し、コントロールすることが必要であり、そのための政治運動の自由ということがなくてはならない」と。