学習通信050723
◎オンブオバケ的なヒト意識……

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 国語学者でエッセイストの寿岳章子さんが十三日、亡くなり、その業績と人柄に「残念でならない」との声が相次いでいます。寿岳さんから「民主府・市政の会」代表委員を引き継いだ久米弘子弁護士の話を紹介します。

故寿岳章子さんを偲んで
「民主府政の会」代表委員で弁護士 久米弘子さん

 大きな存在であり、とても残念です。寿岳先生と出会ったのは三十年以上前です。当時から学者としてだけでなく、「憲法を守る婦人の会」など平和、女性、環境、暮らしとあらゆる運動の第一線で活躍されていました。

 早くから「アカンことはアカンと言おう」を合言葉に農村女性の学習会に出かけられるなど、憲法を暮らしに生かすために奮闘してこられた方です。素晴らしい先輩として尊敬し、またとても楽しい方でしたので親しみも待っていました。おいしい食べ物に目がない方でもありましたね。

 寿岳先生は東北大学を卒業されています。それは戦前、国内の帝国大学で女性が入学できたのは東北大学だけだったからです。民主的なご両親のもとで男女の不平等なく育った先生にとっては、大変なショックだったろうと思います。それが活躍の原点にあったのではないでしょうか。いつも「京大には入れてくれなかったのよ」とおっしゃっていました。

 四年前、病気のお見舞いに行ったとき、「民主府・市政の会」の代表代理をさせていただきますと伝えると、「お願い。安心しました」と言っていただきました。

 今の憲法をめぐる状況をとても心配しておられたと思うし、先頭にたって京都の知事選、市長選をたたかってこられたことを思うと、先生の気持ちを実現するために、私たちが頑張らなくてはと思っています。
(しんぶん赤旗 20050716)

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 これまでは主として、私たちがどういう場合、どういう人間関係を作ってゆくかを中心にして、いろいろ、なことを考えてきました。これから、そういう関係とは別に、そうしたいろいろな人と具体的に接触してゆく時、困ったり、迷ったりすることが日本の現実の中ではいろいろとあります。まして、日本という国、日本人が作ってきた歴史、社会の中で日本特有の、あるいはその地域特有のさまざまな事象があります。そういう問題を総括的に考え、問題点を明らかにしておきたいと思います。

日本人のつきあいの原点

 鍵ことばということがあります。たった一言でそのものの属性をピタリと言い表わすことができるようなものです。フランスと言えばエスプリ、イギリス人と言えばジェントルマンというようなものです。私は前に、日本人の鍵ことばは何であろうかと一所懸命に考えたことかありました。簡単なようで、一言で日本のすべてを言いあらわせるようなことばは、なかなか思いあたりませんでした。何しろよその国のことなら、あまり事情がこまごまと知れないだけに、いささか乱暴にレッテルをはられるのですが、日本人として、いわば渦中の人物みたいに真中で眺めまわしてみると、あれも小さい、これでもたよりないということになるのです。

それで方面を限って、日本人の社会の構成意識というようなものについてまず考えてみることにしました。それはすぐ思いつきました。それは「ヒト」ということばです。その親類ことばのようなものに「世間」というようなのもあります。日本人が言う「ヒト」ということばはなかなか複雑で、とてもそのニュアンスを英語やフランス語に翻訳出来そうにはありません。生物学的な人間では決してありません。

たとえば私たちがしばしば使うことばに「そんなことをしたらヒトに笑われる」というのがあります。考えてみると、日本人の社会的行動というものは、この「ヒト」によって動かされていると言っても過言ではありますまい。「ヒトサマに迷惑をかけてはいけません」「ヒトのもの笑いになる」「ヒトの目もある」、すべてよく言われる表現です。恋はヒトメを忍びます。こういうのを全部集めてみると、この「ヒト」ということばは、日本人の一種の社会意識のようなもので、しかもそれはきわめて厳しい監視隊のようなものであることに気付きます。

おかしなことをしたり、しきたりはずれのことをすると、冷たい目で、何だそれは、そんなことで嫁の地位が保てると思うのか、というようにたしなめる役目を果たします。人に笑われるし止めておこうなどというのは、前もって社会からの視線を予想して、それで自分の行動を規制しているのです。

「ヒト」というのは日本の場合、しょっちゅうたしなめる役目を果します。それももっとがんばれ、未知の世界に挑めというように創造的にはたらくのではなく、今までのしきたりや、大体決まったこと以外のことをしでかす時に、冷い声で、そんなことをすると社会からのはみでものになるぞという警告をする存在です。

そういう「ヒト」がもっと組織的に考えられると、「世間」ということばができてきます。人々は「世間」のことを考えないではなかなか生きてゆけません。「世間のもの笑いになる、」「世間で後指をさされないように、」そう思いながら日本人は長い間いじらしくもがんばってきました。この「世間」ということばも、なかなか翻訳しにくいことばと言われています。外国語でいう社会という概念とはまったくちがいます。それは人の行動の基準になる集団です。そこさへ無事通過すると、逆に後はどうなってもいいというようなことがあったりします。日本人は公衆道徳が欠如しているなどとよく言われていますが、これは「世間」がそういう公衆道徳的な対象になる行動の場合、規制としてはたらかないからなのです。

かってベネディクトという学者が、日本人は「恥」の民族であるということを言って有名になりましたが、その恥というのは、この「ヒト」や「世間」感覚と大変関係があるわけです。誰かに、どこのなにがしはこんなふらちなことをしたと名ざしで言われるのがいやさに、そうならないように気をつけるわけです。ですから、そういう番人の存在がまったく感じられない時は、ふだんの抑制分を一挙に取りもどすほどにムチャクチャをやるわけです。旅の恥はかき捨てという諺は、この間の事情を大変よく物語っています。そして日本人は、そのこと自体がよいか悪いかではなくて、人に見られるか、笑われるか、怒られるかというようなことを基準として、ことのよしあしを決める傾向がとても強いようです。

怒られなかったら何をしてもよい?

 ある時私は、ある動物園に遊びに行きました。早春の一日、ウィークデイでしたから、園内はすいていました。ゆっくりと、私と友達のにぎやかな一行は、いろいろな動物を見て楽しんでいました。そのうちラクダの檻の前に来ました。うらうらとした日ざしの中で、一頭のラクダは柵の近くまで来て、目を細めるようにしてじっと日光を浴びていました。私たちの側に、小学校三年ぐらいの男の子と、小さい女の子を連れた母親らしき人がいました。そこまではまことに平和でのんびりした風景でした。

ところが突然男の子が卵ぐらいの石を拾ってラクダにぶっつけました。アッという間でした。石はそれこそみごとにラクダの横っ腹にドデンと当たりました。一瞬ラクダはたじろぎました。私はとても腹が立って、「そんなことをしたらいけません、ラクダがかわいそうでしょ」と言いました。母親は終始黙っているだけです。すると男の子は、「ラクダみたいなもん、痛いことあらへん」と言うのです。私はますます腹が立ちましたけれども、側に母親もいることだし、それぐらいで控えておこうと、それ以上に叱るのはしんぼうしたのです。しかし、よくもまあ、母親は黙っているものだと呆れる思いでした。

その時やっと母親は口を開き、「そんなことしたら怒られるえ」とこう言うのです。私はげっそりしました。しかし腹が立つよりは、日本人の、そして、とりわけ女の長い長い思考の歴史について考えました。ラクダに石を当てることがよいか悪いか、これはあまり主観の差はなく、善悪はとてもはっきりしています。それでもなおかつ、この女性の行動の基準は怒られるかどうかということなのです。そうはっきり理詰めに考えたのではないと彼女は言うかもしれません。でも、それだからよけい間題です。考えることなく、とっさに反射的に出ることばは、より多く本音そのものです。

だからこの人は人生のすべてを、怒られるかどうか、つまり人の判断ばかりうかがって生きているということになるのです。意地悪く裏返せば、怒られさえしなければ、何をしたっていいのです。ラクダに石を当てようと、オットセイに石を食べさせようと、クジャクの羽をむしろうと、怒られさえしなければいいのです。もっと困ったことは、怒られてでもなすべきことはしょうということが、まったくないのです。この人の生きる柱は、つまるところ、人がどう思うか、人にとやかく言われないか、まずそれだけなのです。

 ラクダに石を当てることのよしあしくらい誰にもわかるはずなのに、この母親はそういうことは悪いことですと言って、こどもをしつけることはできませんでした。この人はこどもに、怒られさえしなければ何をしてもいい、せいぜいずるく立ちまわれ、一万円落ちていればネコババせよ、人が見ているなら交番に届けよ、こういう生き方を教えたことになるのです。この話の限りでは、誰でもそんなばかなことと思うでしょう。

しかし、もっとことが複雑になり、ことのよしあしについてさまざまの意見が対立する時、ことはめんどうです。そしてそういう時、「ヒト」「世間」意識は強い力を発揮します。その意味で私はどちらかというと、現代はこの妙な、いわばオンブオバケ的なヒト意識をスッパリ取り払いたいものだと思います。こんなにしたら笑われないだろうか、こういうふうにしたら人にとやかく言われないで無難にすむのではないか、こっちのやり方の方がもちろんいいとはわかっているのだけど、それは世間の常識とまったくちがうことである、やっぱり古いと言われようと、目立たない方にしておこう。そんな心理で随分ことが決まってきました。いわば過去の日本は、この「ヒト」を権力がきわめて巧妙に使いこなして、なすべきこと、しなければならないことを民衆がやるのをおさえてきたということもできます。

 とりわけ女の歴史では、勇気ある、めざましい行動に出た人は、すべてこの「ヒト」「世問とたたかったのです。たとえば、明治時代の「柳原白蓮」。この人はおくげさんの娘で、九州の大金持と結婚しましたが、この結婚が実にみじめきわまるもので、ついに家を出て、新しい愛人と結びついたのですが、この事件は今の人から見ると大したことはありません、妻を人間とも思わず、チヨッと金のかかるぺットくらいに思っている男なら、女が別れますとはっきり言うことは、むしろ当然のように考えられますが、当時の記録を見ますと、それが決してそうではないのです。

ほとんどの人がこぞって白蓮のとった行動を激しく非難しています。そういう苦しみが、ほんとうは一番よくわかるはずの女性も口をきわめて非難しています。ごく少数の進歩派だけが彼女の行動を支援しました。白蓮はつまり「ヒト」がどう思うかはまったく考慮に入れず、自分は何に忠実でなければならないかを必死に追った人なのです。最初の愚劣結婚の時は、残念ながら彼女のその意識がまだ十分自覚されていなかったのでしょう。

女としての課題が大変多い日本の現状では、日本の女性は次のような義務をめいめい持っていると私は考えます。すなわち、この「ヒト」によって女に課せられていた非人間的なうるささを、たとえ僅かでも切り離してゆかねばならないということです。それをまずすることができる人、あるいはしなければほんとうに生きてゆけない人がはたらく婦人なのではないでしょうか。
(寿岳章子著「働く婦人の人間関係」汐文社 p189-195)

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◎「この「ヒト」によって女に課せられていた非人間的なうるささを、たとえ僅かでも切り離してゆかねばならない」と。