学習通信050725
◎「生産者」が必ず主役に……

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土地の国有化について

 第一項へ。土地所有……、すべての富のこの本源的な源泉は、その解決いかんによって労働者階級の将来が左右されるような大問題となっている。

 土地私有制の擁護者たち──法律家や哲学者や経済学者たち──がもちだしている論拠をここですべて検討するつもりはないが、第一に、彼らが「自然権」という偽装のかげに征服という本源的な事実をつつみかくしていることだけを、指摘しておこう。征服が少数者の自然権を構成したのだとすれば、多数者は、自分たちから取り上げられたものを奪いかえす自然権を獲得するためには、十分な力を集めさえすればよい、ということになる。

 歴史が経過するうちに、征服者は、暴力に由来する自分たちの本源的な権原に、自分で制定した法律を手段としてある種の社会的確認をあたえようと試みる。最後に哲学者がやってきて、これらの法律は社会の普遍的合意を表示する、と宣言する。土地の私有が実際にそのような普遍的合意に基礎をおくものとすれば、社会の多数者がそれを是認するのを拒んだその瞬間から、それが消滅するということは、明白である。

 しかし、いわゆる所有「権」はさておいて、社会の経済的発展、人口の増加と集中、農業に集団的な組織的労働や機械や同様の発明を応用する必要によって、土地の国有化が「社会的必要」となるのであって、これにたいしては、所有権についての千言万句もなんの役にもたたないであろうことを、われわれは確言する。

 社会的必要が要求する変化は、おそかれ早かれ自分の道をきりひらいていく。それは、社会のさしせまった必要にもとづくものなので、ぜひともみたされなければならないし、立法はつねにそれに順応せざるをえないのである。

 われわれに必要なことは、生産が日々に増大していくことである。少数の個人が、その気まぐれや私利にしたがって生産を規制したり、無知なやり方で土地の地力を枯渇させたりすることを許したのでは、この生産の要請をみたすことはできない。濯漑、排水、蒸気プラウの使用、化学的処置などのあらゆる近代的な方法が、結局は農業に応用されなければならない。しかし、われわれのもっている科学的知識、われわれが支配している機械その他のような農業技術手段は、土地の一部を大規模に耕作しないかぎり、けっして有効に適用することはできない。

 大規模な耕作は、──生産者自身をたんなる役畜の地位におとしいれる現代の資本主義的な形態のもとでさえ──小規模な零細地の耕作にくらべて、はるかにすぐれた成績をあげることができるとすれば、それを全国的な規模で適用した場合には、かならずや生産に巨大な刺激をあたえずにおくであろうか? 一方では住民の欲望がたえまなく増大していること、他方では農産物価格がたえず高騰をつづけていることは、土地の国有化が「社会的必要」となったことを、反駁の余地のないまでに証明している。
 耕作が国民の管理のもとに、国民の費用で、そして国民の便益のためにおこなわれるようになるやいなや、個人的濫用のために農業生産が減退するようなことは、ありえないことになる。

第五項への追加。

 フランスがしばしばひきあいにだされた。しかし、農民的所有をもつフランスは、地主制度をもつイギリスよりも、土地の国有化からはるかに遠いのである。なるほどフランスでは、だれでも購買する力のある者は、土地を手に入れることができる。しかし、土地が入手容易だという、まさにこの事情が、土地の小地片への分割をもたらし、資力が乏しく、主として自分自身と、さらに白分の家族との肉体労働にたよらざるをえない人々がそれを耕すという結果をもたらしたのである。土地所有のこの形態と、その必然的な結果としての小地片の耕作とは、現代の農業上の改良の応用をまったく不可能にしているだけでなく、同時に耕作者自身を、いっさいの社会的進歩にたいする、とりわけ土地の国有化にたいする最も断固たる敵に変えている。

 土池にしばりつけられて、比較的わずかな収入を手に入れるためにこの土地でその全生命力を使いはたさなけれぱならない農民、その生産物の大半を租税のかたちで国家に、裁判費用のかたちで法律屋連に、そして利子のかたちで高利貸に引き渡すことを余儀なくされている農民、自分のささやかな行動分野のそとでおこなわれる社会的運動についてはまったく無知なこの農民は、いまなお狂熱的な愛着をもって、その一片の土地と、この土池のたんに名目的な所有権とにしがみついている。フランスの農民は、このようにして、工業労働者階級にたいするはなはだ致命的な対立に追いこまれた。このように農民的所有は「土地の国有化」にたいする最大の障害であるから、フランスは、その現状においては、この大問題の解決〔の手がかり〕をもとめるべき国でないことは確かである。

 中間階級〔ブルジョア〕政府のもとで土地を国有化し、そしてこの土地を小割地として個人や労働者の団体に貸しつけることは、彼ら相互のあいだに猛烈な競争をひきおこし、したがってまた「地代」のある程度の上昇をまねき、こうして生産者を食いものにする新しい便宜を横領者に提供することにしかならないであろう。

 一八六八年のブリュッセル国際大会で、私の友人の一人は次のように述べた。

「小さい私有財産は科学の判決によって死を宣告され、大きい私有財産は正義によって死を宣告されている。だから、残された道は次の二つのうちの一つしかない。すなわち、土地は農業協同組合の所有とならなければならないか、それとも全国民の所有とならなければならないか、そのどちらかである。未来がこの問題を決定するであろう。」

 私は反対に次のように言う。土地は全国民だけが所有できるという決定を、未来はくだすであろう、と。協同組合に結合した農業労働者の手に土地を渡すということは、生産者のうちのただ一つの階級だけに全社会を引き渡すことにほかならないであろう。土地の国有化は、労資の関係に完全な変化をひきおこすであろうし、結局は、工業であろうと農業であろうと、資本主義的生産を完全に廃止するであろう。そうなったときにはじめて、階級差異と特権とは、それを生みだした経済的土台といっしょに消滅し、社会は一つの自由な「生産者」の協同組合に変わるであろう。

他人の労働で暮らしていくようなことは、過去の事柄となるであろう! そこには、社会そのものと区別された政府も国家も、もはや存在しないであろう!

 農業、鉱業、製造業、一言でいえばすべての生産部門は、しだいに最も効果的な形態に組織されていくであろう。生産手段の国民的集中は、合理的な共同計画に従って意識的に行動する、自由で平等な生産者たちの諸協同組合からなる一社会の自然的基礎となるであろう。これこそ、一九世紀の偉大な経済的運動がめざしている目標である。
(マルクス著「土地の国有化について」M・E8巻選集 る5 大月書店 p54-57)

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こういう大変革は、設計図通りの組み立てで済むというものではない

 「生産手段の社会化」というのは、未来社会の枠組み・土台を生み出す、人類史的な大変革ですから、なにかできあいの設計図がきちんとあって、設計図どおりにものごとを組み立てれば済むというものではありません。できあがった舗装道路の上を一気に走るような具合にはゆかないのです。
 大方向ははっきりしているのですが、生産手段を社会がにぎるやり方についても、そこには、いまからこういう方式だよと一律に決められる、決まった形があるわけではありません。

 社会主義と言えば、国有化だと思っている人が多くいます。しかし、一ロに「国有化」といっても、以前の国鉄のように、国有化の形はあるが、上から任命された官僚がすべてを動かして、そこで働く労働者の立場は、民間の工場と何も変わらない、こういうことだったら、資本主義とあまり違いはないでしょう。実際、ソ連でも、「国有化」はありました。しかしそこでは、労働者は経済の管理から押し退けられ、国民もものが言えない。ソ連全体の工場から鉄道まで生産手段を「国」が持っているということは、社会主義ではなく、スターリンなどの専制支配の土台でしかありませんでした。

 だから、綱領は、新しい社会では、「生産手段」を社会化する形はいろいろあっても、どんな場合でも、「生産者」が必ず主役にならなければならない、ということを強調しています。「生産者」とは、生産にたずさわるすべての働き手のことです。そこには、現場の労働者はもちろん入ります。技師も入れば、コンピューターの管理者も入ります。生産に実際にたずさわっているすべての人たちが、その知恵と力を共同で発揮して、工場や事業所を動かし、経済を動かす。資本家や官僚ではなく、生産者たちが力をあわせて、集団で工場や事業所を動かす、こういう新しい体制をいかにして生み出すかということが、なによりも大事な中心問題なのです。

「日本国民の英知と創意」が発揮される「新たな挑戦と開拓の過程」

 もちろん、日本でも、将来、そういう変革にとりかかるなかで、「生産手段の社会化」のいろいろな形態が生まれ、また実際に試されることでしょう。そのなかで、日本にふさわしい「生産手段の社会化」の体制がつくりだされてゆくでしょう。

 ですから私たちは、新しい綱領のなかで、机の上でいまからその形を決めて、この社事にとりかかる将来の世代の手をしばるようなことはしませんでした。

 こういう考えから、綱領にこう書きました。

「日本における社会主義への道は、多くの新しい諸問題を、日本国民の英知と創意によって解決しながら進む新たな挑戦と開拓の過程となる」。

 将来、あなたがたが、この問題の解決に当たる世代になったとしたら、それこそ、それまでの日本の実地のなか運動のなかで経験したすべてを生かし、国際的な教訓があればそれも吸収し、知恵を発揮して、その段階の日本社会にいちばんふさわしい形をつくりだす。そのときに、何十年前につくられた綱領にこう書いてあった、それに手を縛られてうまく動けない、こんなことになって、将来の世代を困らせることのないように、そこまで考えて、綱領のいまの文章が書かれているわけであります。

これだけのことは、いまでもはっきり言える

 しかし、いまでもはっきり言えるし、無用な誤解をあらかじめ避けるためにも、言っておくことが必要だと思うことは、二〇世紀を生きてきた者の責任において、綱領は、大胆に明らかにしています。
 それは、次のような諸点です。

──社会主義・共産主義の日本では、民主主義と自由の成果をはじめ、資本主義時代の価値ある成果のすべてが受けつがれ、いっそう発展させられる。

──社会主義にふみだす出発点ではもちろん、その途上のすべての段階で、国民の合意が前提になる。政府が、国民の意思を離れて、勝手に進むことはしない。

──「生産手段の社会化」では、日本社会にふさわしい独自の形態の探究が重要だが、どんな場合でも「生産者が主役」という社会主義の原則をふみはずしてはいけない。ソ連の誤った経験とはきっぱり手をきる。

──「市場経済を通じて社会主義に進む」ことが、日本の条件にかなった社会主義の法則的な発展方向となるだろう。

 よく誤解があるのですが、市場経済というのは、即資本主義ではないのです。資本主義は市場経済のなかで生まれましたが、市場経済に強くならないと、社会主義への道を進めない、ということは、レーニンが、革命後のロシアでいろいろな失敗をしながら、苦労してたどりついた最後の結論でした。

 以上が、綱領で述べている未来社会論のあらましです。
 冒頭に述べたように、私とくらべて未来社会により近い世代であるみなさんが、この問題を、自分たちの手で日本と世界の未来を開く問題として、ぜひ大いに討論していってほしいと思います。
(不破哲三著「報告集 日本共産党綱領」日本共産党中央委員会出版局 p264-267)

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◎「社会的必要が要求する変化は、おそかれ早かれ自分の道をきりひらいていく。それは、社会のさしせまった必要にもとづくものなので、ぜひともみたされなければならないし、立法はつねにそれに順応せざるをえないのである」と。