学習通信050726
◎はる、治子、はるみ……

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子どもの権利条約を読むときに

 私たちが子どもの権利条約について学ぶのは、このような歴史的な問題状況の中においてのことなのです。その学びかたにはいろいろな創意工大がこらされ、多様な形態があってよい、と思いますが、そのさい、少なくとも次のことだけは念頭においてほしい、と願っています。

 まず、この条約をあなたがひとり(自力)で読むことと、複数の友人やグループと共同で読みあうこととの両方が必要だ、ということです。

 国際条約の条文というものは、それが吸収する過程で多くの国々の事情や条件のすべてを盛りこむわけにはいかず、重要な原則だけを表現したことになっています。ですから、条文の背後にはたくさんの事実があり、条文の行と行とのあいだにも重要なことがかくれているはずです。

昔から文を深く読むことに関して「眼光紙背(がんこうしはい)に徹す」とか「行間を読む」ということばがありますが、読み手としてのみなさんにもそんな力をつけてほしい、と思います。ひとりで想像力をふくらませながら条文を理解し、他人の読み力とつきあわせて、自分の独断や偏見を正したり、他人から学ぶ、ということは貴重なことだし、楽しいことです。

 第二に、条約の内容を自分たちの生活に結びつけて理解する、ということです。みなさんはこの子どもの権利条約について次のような意見があることを耳にしたことはありませんか。

 「あれは、主として『後進国』の子どもの惨状を念頭においてつくられたものだから、『先進国』の日本ではとっくに実現していることばかりだ。現に日本政府はこの条約を批准するにあたっても、改めて法律をつくったり、法改正などをしなくてもよいし、特別の予算を計上する必要もない、といっているじゃないか」

 たしかに、この条約では発展途上国の子どもがおかれている困難な状態を座視しています。そこでは、日本ではすでに過去のことになっていたり、当面ではめったに起こりそうにないこともふくまれているでしょう。そして、先進国の内部で起こっている諸問題については不十分にしかとりあげられていない、という批判も部分的にはあたっていることでしょう。

 しかし、よくよく考えてみると、そのような考えはまちがっていることがわかってくるはずです。たとえば、日本だって飢餓や貧困は敗戦直後に当面した課題でしたし、子どもには誕生したらすぐ名前をつけてもらう権利がある(第七条)ということなどは、日本でも一世紀前にはそうではなかったのです。子どもの人身売買や虐待などについても、現在でも形を変えて問題として存在しているのです。だから、それらのことはけっして他人事ではないし、たとえ身近な限られた経験の世界にはないとしても、また、遠い過去のことのようであったにしても、「われ関せず」という態度ではすまされないことがたくさんあります。いまは「国際化」時代ですから、なおさらです。

「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる」

 この日本国憲法の前文の精神をいまこそ日本人としての政治道徳にすることが、私たちには求められているのではないでしょうか。

 第三に、条約の内容や精神をどう生かすか、ということです。条約について学ぶ、ということは、その内容を単に知識として習得する、ということではありません。「知る」ということが、現実の自分と自分が生きている社会を人間の尊厳を確立する方向へと変えていく実践につなげることが大切です。それは必ずしも容易なことではありませんが。

 たとえば、日本の学校で校則などが生徒の希望や意見とは無関係に一方的に決められているようなばあい、それが「条約違反」と考えざるをえないばあいもあるにちがいありません。そのようなとき、子どもの権利条約をいわば「錦の御旗」のようにして相手に「改革」を迫るというだけでは、成功するとはかぎらないでしょう。改革には世論を結集し、ねばりづよい話しあいを組織し、民主的な手続きをふむ、ということなどがどうしても必要です。そのような動きに主体的に参加し、努力をかさねるときに、子どもの権利条約が生かされるにちがいありません。条約はひとり歩きができるようなものではなく、やはり「自らを助ける者を助ける」のです。

 二〇世紀末のいま、世界は文字どおり激動の時代にあります。その中に生きる私たちには、ともすれば人間としての自分を見失う危険があります。自分をか弱いひとりとして無力な存在と思いがちです。しかし、私たちがしかと目を開き、世界をとらえ直そうとしたとき、私たちを支え、はげます事実が地球上のいたるところに、ほかならぬ私たちの身近なところにも、あることがわかります。

子どもの権利条約は、そのような人びとの努力を地球規模で結びつける力をもっているのです。それを学ぶみなさんに新しいものの見方・考え方、行動のし方を示唆し、みなさんを未来にむけて支えていくよりどころになることでしょう。
(中野光・小笠毅編著「ハンドブック 子どもの権利条約」岩波ジュニア新書 p13-17)

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京ことばの語り手

 純粋の京ことばを語る人がだんだんなくなってきたとはよく言われるところである。いわゆる正統派のいかにも京都弁らしいことばの語り手たちは、このごろはいい京都弁を話す人たちがだんだんいなくなるのを憂える。京都弁には廓で話されるようなことば、室町や西陣あたりの商家で話されることば、そしてその京都周辺から野菜などを売りにくる人たちのいわゆる外の京都弁、それぞれに違いがあると言われる。そういうそれぞれに違う京都ことばが、それぞれに変質してゆく。むしろ嘆きの口ぶりで京ことばの喪失がしばしば語られる。

 それはたしかにそうである。私はいかにも京都弁らしいのは、やはり室町のしやきしやきした女たちが話すことばのようにも思うが、それは今取り上げず、一般にしばらく前の京ことばは今日はげしく、それこそ音をたてて変質していることについて考えてみたい。

 民放番組のコンクールのような会に私は審査員として出たことがあって、今なお心に残るラジオ番組を聞いた。かなり前の話なのにまだよく覚えているのは、ひとえにその番組で語られることばのあざやかな印象のせいである。その番組の内容は次のようなものであった。京のある商家のおばあちゃんと、孫娘との会話でできた一種のルポルタージュものであった。

 高校生の孫娘が、なんどすえ、女の子が足出して跳ねまわってみっともないというような批判をするおばあちゃんにぽんぽんものを言いながら、結局おばあちゃんを試合の応援に来させるに至るたのしい物語であった。内容もさることながら、私の興味の中心は、世代を異にして、いわば生活の思想というような面でははげしい対立を示しながら、なおかつ仲よく話し合っている祖母と孫とのことばが、かなり違うことにあった。

おばあちゃんの方は、いわゆる完璧な京都弁である。ということは今の若い者はほとんど使わず使えない、それこそ絵にかいたようななめらかな京都弁である。そんな娘はんがあいや(足のこと)出して跳ねまわってどないしはりますのんえ、やめときやす≠ニ言った感じのことばで、リズムもなめらかに調子はゆるやかである。それは聞いているだけでうっとりするような、まるでうたを聞いているような心地よいものであった。練れた美しさの煮詰まったような感じがした。別にことばの内容がわからなくとも、人は退屈もせず、そのことばに聞き惚れるであろうと思われるようなものであった。

 一方孫のことばは、おばあちゃんのことばとは、大げさに言えば、似ても似つかぬと言ってもよいほどなにもかも違っている感じがした。むしろ荒っぽく、調子は迫リ、早口で、ぱたぱたとまるでたたみかけるようである。その点は、日本全体で進行しつつある女性の早口語り、そして、モノセックス化の兆しも十分表れていた。おばあちゃんいうたらなに言うてんの、そんなもんかまへんやんか、というような調子であって、それがぽっぽっと吐き出すように言われるのである。もはやそれはたのしいうたなどではなくなっていた。乾いたやんちゃなことばの積み重ねに過ぎない。

思うに、その孫の年齢は、もし私に子供があればそのへんという年齢であるからして、ちょうどその母親、すなわち祖母と孫の中間に当たる世代が、私とほぼ同じ年齢に相当するのであろう。その人は私の場合から考えるのに、今の若者ほどせかせかしたことばつきでもなく、またおばあちゃんほどおっとりした調子でもなく話していることだろう。そしておそらくそのことばの基底は、いわゆる女学生ことばすなわち、巷間語られる京都弁とはちがうかなりダイナミックな京ことばが中心ではないだろうか。

 こうして京都の家に三代の女がいれば、その三人はそれぞれに違ったことばを話すに違いない。明治からの歳月は、たとえば江戸時代の年月とはまるで違うはげしい移りゆきを示している。江戸期ならばほとんど変わらず、多少の語彙の入れ替えがある程度だったろうに、明治、大正、昭和の年月は、まことにめまぐるしい変わりようである。

 私はかつて三代の女たちの名前を調べたことがあったが、それはあざやかな対比をみせる一〇〇年である。かりに掲げてみると、はる、治子、はるみというようになる。名を見れば大体の生まれの頃おいの見当がつこうというものである。そして京都には、三代いっしょに住んでいる家というものはあまりめずらしくないので、それぞれの違いをもちながら、お互いにしゃべりあっている風景はしばしば目にすることができる。

 そんな場合、誰のことばを正統の京都弁とし、誰のことばを崩れた京都弁とするのか。京都弁とはかくかくしかじかのものという明確な規定を、語彙、文法、音韻というふうにきちんと仕分けて、それを物差しとして当てはめてゆけば、それはそれなりに一定の効果を発するであろうが、この書では私はその立場をとらない。どの世代にもみずからを京都弁とする正統性があるとしようと思う。

つまり、すべての年齢に、そしてさまざまの居住地に、さまざまの職業に、それらすべてに感じられる京都ことばらしさを、この本では考えてみたいのである。もちろんおばあちゃんの京ことばはすばらしい。それを認めるにやぶさかではないけれども、一方孫のぽんぽんしたことばも結構京ことばだと思わざるをえない。それは京都の人が、こうして、年代の隔たりがあっても、九州や東京の人としゃべっているような違和感なしに話しあうことができるのであれば、どの年ばえの人もそれぞれに京都弁をしゃべり、互いに違和感を感じない共通の世界をもっているということではないか。

 だとすると、観察者として、どの世代のことばは、正調京都弁で、どの世代のは崩れたなどということは、皮相な見方ではなかろうか。もちろん、ことばの共通世界のせいばかりではなく、緊密な結合を生活場面としてもっているからこそというような条件もあるだろうが、そのことじたいが、ことばの同質性の保証をしているようなものである。

 私はあるとき四条通を歩いていた。ところはもう八坂神社を目の前にしたつやのある町通りである。花見小路までくると、ちょうど都をどりが間近い頃で、四条通から花見小路へ入る口にアーチが立てられようとしているところであった。何人かの作業員が、都をどりと書いた大看板をたかだかと道を横切って揚げようとするのであるが、なかなかうまくゆかない。監督のような人がややいらだって、「もうー、いっぺんおろしィな」というようなことを言っているのが何となくおもしろかった。大そう間延びのしたことば遣いで、いかにも京都らしいな、と私は思ったことであった。

 もしこれが東京の何とかおどりでもあろうなら、とてもこんなわけにはゆくまい。「何だい何だい、だらだらしやがって。いっぺんおろしてしまいなよ」とか何とかいうのではなかろうか。「おろしィな」などという間延びのしたことばでは、ひょっとして揚がるものも揚がらないのではと、しばらく私は立ち止まって見上げていた。でも心配は無用で、もうちょっとどうしてこうして、そやそやなどと言っているうちに看板はちゃんと揚がった。悠長は悠長なりに仕事はできるのである。そして京都では、長い年月こんな調子で仕事をやってきたのである。

 そんな意味では、何も京都弁はだらりの帯のやさしげな女人にのみ語らさないでおきたいと私は思う。京都ことばの語り手はうんと広げてみたいのが私の願いである。道路工事をしている人でも、野菜を売りにくるおばさんでも、おまわりさんでも、多くの人が京都ことばを話すのではなかろうか。いわばそのすべての人たちに通じて、しかも別のグループとは少し色あいを異にする何ものかが、京都弁のスピリットのようなものではなかろうか。私はそんなものをこの本の中で追い求めてみたいと思う。
(寿岳章子著「暮らしの京ことば」朝日選書 p12-16)

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◎「自分たちの生活に結びつけて理解する」と。

文字の問屋≠ノなってはいけない。