学習通信050727
◎乗りこえ運動によって……

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 この村には十人あまりの原爆病患者がいたが、今では生き残りの軽症の原爆病患者が重松を含めて三人いる。その三人とも、栄養と体養に気をつけて病気の進行を喰い止めているが、体養すると云っても臥たきりでは駄目である。また臥たきりにしていられるものでもない。軽い用使いなどする他には散歩をするのがいいと医者も云っている。でも外見丈夫そうな一家の主人が、村道をぶらぶら歩くわけには行かないのである。この村では昔から散歩をする者などいた話を聞いたことがない。原則として散歩などということは有り得ないのだ。伝統的な風習の上から云ってそうである。

 それで散歩の代りに釣をしたらどうか。診療所の医者も府中町の心臓病専門の医者も、軽症の原爆病患者には、精神的にも脂肪質の栄養食補給の一助のためにも釣が薬だと云っている。鮎の友釣は体が冷えるからよくないが、他の堤釣は一石二鳥の療養法だと云っている。釣をしている間は人間の思考力が一時的に麻痺するので、釣は熟睡と同じように脳細胞の休養になるそうだ。しかし、いい年をして釣をしていると、忙しく働いている者から妙な誤解を受け易い。現に重松と庄吉さんも、池本屋の小母はんから聞きずてならぬ皮肉を面と向って浴びせられた。

 折から農繁期のことで、みんなが麦刈をしたり田植にとりかかったり忙しくしている最中であった。農家では一年じゆうで一ばん忙しい時である。川の釣も他の釣も絶好期に入っている雨あがりの或る日のことであった。重松と庄吉さんが阿木山の大池の堤で釣をしていると、

「よいお天気ですなあ」と池本屋の小母はんが声をかけた。それだけなら何のこともなかったが、小母はんは立ちどまって、

「お二人とも、釣ですかいな。この忙しいのに、結構な御身分ですなあ」と変な口をきいた。

 小母はんは手拭を被って、空の目籠を背負っていた。

 「何だこら」と庄吉さんが、水面の浮子の方を見ながら云った。「そう云うお前は、池本屋の小母はんか。小母はん、そりゃどういう意味か」
 池本屋の小母はんは、すぐ行けばいいのに、わざわざ堤の下に寄って来た。

「小母はん、結構な御身分というのは、誰のことを云うたのか。わしらのことを云うたつもりなら、大けな見当はずれじゃった。大けな大けな大間違いじゃ。小母はん、何か別の挨拶に云いなおしてくれんか」

 温厚篤実(とくじつ)な庄吉さんも、日ごろに似合わず竿先をぶるぶる震わせていた。

「なあ小母はん、わしらは原爆病患者だによって、医者の勧めもあって鮒を釣っておる。結構な御身分とは、わしらが病人だによって、結構な身分じゃと思うたのか。わしは仕事がしたい、なんぼでも仕事がしたい。しかしなあ小母はん、わしらは、きつい仕事をすると、この五体が自然に腐るんじゃ。怖しい病気が出て来るんじゃ」

「あら、そうな。それでもな、あんたの云いかたは、ピカドンにやられたのを、売りものにしておるようなのと違わんのやないか」

「何だこら、何をぬかす。馬鹿も、休み休み云え。わしが広島から逃げ戻ったおり、あのとき小母はんは、わしの見舞に来たのを忘れたか。わしのことを尊い犠牲者じゃと云うて、嘘泣きかどうかしらんが、小母はんは涙をこぼしたのを忘れたか」

「あら、そうな。そりゃあ庄吉やん、あれは終戦日よりも前のことじゃったのやろ。誰だって戦時中は、そのくらいなことを云うたもんや。今さらそれを云うのは、どだい云いがかりをつけるようなもんや」

 小母はんは早く行けばいいのに立ちどまったまま、後家女房の勝ち気を見せて減らず口を叩いた。

「それでも庄吉やん、あんた、ようも云うたもんやな。あのとき見舞に来てくれたのを忘れたかとは、そりゃあ誰が誰に向って云う言種な。あたしが云う言葉じゃなかったのと違わんか。あんまり逆恨みのようなこと、云わんといておくれ」

「何が逆恨みじゃ。小母はんは、自分のところでこの池の門樋(もんび)の番を預かっとるんで、この池を我が池のように思うとるんじゃろ。それが大けな大けな大間違いじゃ。この池の水路の組内の者なら、誰が釣っても文句ないこと、小母はん知らんのか」

「それじゃによって、あんたが釣るのは、あくまでも結構なことやないか。あたしゃあ、それで結構な御身分ですなあと云うたんや」

「何をこの、後家のけつまがり……」

 いきなり庄吉さんは立ちあがろうとしたが、びっこだから意のままに行かないのだ。堤の内側の斜面に両足を垂らしていたので直ぐには立てなかった。堤から滑り落ちないように、池水の方にそろそろと尻を向けかえようとした。その間に、池本屋の小母はんは堤の下から坂になっている小道に降りて行った。それも後姿が洒落て見えるように、空っぽの目籠の負縄を片方だけ肩に掛けていた。さっきは両方の肩にかけて背負っていたが、わざわざそうして後姿に威のある感じを出していた。

「何たることじゃ、全くほんまに」庄吉さんは小母はんの遠のいて行く方を見て、「わしゃあ、むらむらと腹が立つ」と息りたった。その挙句、釣竿で池の水を掻きまわしながら云った。

「もう池本屋も、広島や長崎が原爆されたことを忘れとる。みんなが忘れとる。あのときの焦熱地獄──あれを忘れて、何がこのごろ、あの原爆記念の大会じゃ。あのお祭騒ぎが、わしゃあ情ない」

「おい庄吉さん、滅多なことを口にすな。──おい、魚が来とる、浮子を引いとるじゃないか」

 妙なもので、水を掻きまわしている竿の方の浮子が、ぐぐっと水中に吸いこまれていた。

 庄吉さんが竿を立てて引寄せると、咽の奥まで釣を呑みこんだ大きな鮒が釣れていた。これが時の氏神となったのは云うまでもない。庄吉さんは怒りをしずめ、その日は立てつづけに釣れて一貫目近くの漁をしたが、その後は庄吉さんも重松も大池へ釣に行くのを見合せた。
(井伏鱒二著「黒い雨」新潮文庫 p26-30)

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被爆者の自己救済行動
 (『世界』1967年5月号)

 この三月、冬の終りの曇り空の夕暮の束京で、被爆者たちの街頭行進に出会った人々は、その異様な静謐と穏やかさに、ひとつの不安を感じたことであろう。その不安は、単なる偶然によって核爆弾を経験することのなかったわれわれ、そして最終戦争の核爆弾をしばらく猶予されているにすぎぬのかもしれないわれわれの、根源的な恐怖に根をおろしているところの不安だったということもできるだろう。

あの夕暮の街角ではそうした自分自身の内奥に入りこんで不安の根を確かめることがなかったにしても、人々はあのほとんど沈黙した行進から感じとった不安の実体を、記憶からぬぐいさることの困難を突然に見出す時があるだろう。

もし沈黙した人間の内部が、そこにひそめられた圧力によって声を発するものだとしたら、あの小さな集団こそは、もっとも森々たる音をたてる街頭行進をおこなった筈である。

しかし被爆者たちは穏やかに静かに行進して、かれらが一九四五年夏から二十二年余にわたって日々、体験しつつあるところの苛酷きわまるものを声高に示すことはなかった。

かれらの内部の声は、日本人全体と日本の政府に、十分に聴きとどけられたであろうか? 被爆者の「原爆被害者援護法制定三月請願行動」は、かれらが二十二年余の忍耐の後、いかなる政治的党派にも依存せず、かれら自身の力によって、日本人全体と目本の政府に対して訴えかける、自己救済のための行動であった。

この行動の背後に、これまで被爆者を「病気と貧困の悪循環」のうちに、また原爆症の脅威のうちに放置した、政府への憤りがこめられていたこと、また政府に対して具体的、実質的な働きかけをおこなう力に欠けていた進歩的諸勢力への不信が横たわっていたこと、そして厚生省の実態調査がかえって援護法制定の時期を遅らせるのではないかという(政府は時がたって被爆者が死にたえるのを待っているのではないか、という具体的な実感のある疑惑の声は、まことにわれわれを怯ませるものだ。誰がいやそうでないと反証できよう? 援護法制定までに、確実に数多くの人々が「病気と貧困の悪循環」のうちに斃れるだろう)、ビューロクラシーヘの懸念がぬぐいされなかったこと、それらはあきらかであった。

しかし、被爆者たちは結局、かれら自身の自己救済が政府による原爆被害者援護法を絶対に必要とすることを見きわめた上で、つねに冷静に忍耐強く請願行動をおこなったのであった。かれらの街頭行進の穏やかな静謐(せいひつ)の内側に激しく緊張しているものの構造はきわめて複雑だったといわねばならない。われわれ日本人全体と日本の政府はそれを十分に感じとり得ただろうか?

 三月行動後、その主体となった被爆者たちは「被爆者はかつてない主体性と団結を示した」と、われわれ外側からそれを観察したものの眼にいかにも正確に見える自己評価をくだしながらも、また「私たちが主体的な決意をもって、準備活動を積み重ねてたち上るならば、戦後二十二年の今日の時点においても、国民の良識によって支持される」と世論に希望を託しながらも、その政治的成果については、次のように痛切さと勇気とを示す言葉をのこして、全国にひそむ三十万を越えるかれら自身の同志たちのもとへ疲労困憊した躰をはこび去ったのであった。

 私たちの当初の目的である、「援護法の早期制定」と、「そのための援護審議会の即時設置」の政府確約のとりつけという点からは、今回の行動の政治的成果は、大変不満足なものであった。しかし、事態に何らの進展もなかったということでは決してない。

「実態調査」を七月までに完成させたいという、坊厚生大臣の言明、実態調査の結果をみて生活問題を検討する、着手できるものから検討するよう各大臣に連絡するという佐藤首相の言明等、被縁者対策がのっぴきならぬ問題として浮かび上がってきたことは事実である。今後の問題点は、一つは実態調査の集約を極力急がせ、その結論の出し方を、被爆者と世論の圧力で監視することであり、一つはそれと併行させて着手できる項目から具体策を準備させることである。このようにして昭和四十三年度予算に援護法の必要予算を盛りこませなければならない。もち論この壁はなお厚い。しかし、壁は夾雑物をとり払って前面に据えられている。

 被爆者の三月行動があざやかに確認する機会をあたえたのは、被爆者たちが原爆後二十二年余の今日、原爆に受動的に関わっていると共に、つねに被爆者たちがあの一九四五年夏の体験は、いったいどのようなものであったのかと、より真実に迫る認識をもとめて、原爆に能動的に関わっているということであった。それは単に被爆者の自己救済のためにのみでなく原爆後のすべての人間のためになされている、原爆とかれら自身の意識的な関係づけである。

 井伏鱒二氏の『黒い雨』について、若い保守派の批評家が、それは《原爆をとらえ得た世界で最初の文学作品である》と権威をこめて書いた。《原爆について書かれたものは無数にあるが、私にはそのどれもが文学になっているとは思えなかった。そのすべてが「原爆」という観念、あるいは「悲惨」という情緒に依存して、この未曾有の体験を見据える眼を持てなかったからである。しかし井伏氏は、平常心という一点に賭けることによって、はじめてこの異常事の輪郭を見定めた。》

 この熱烈な言葉が若い批評家の、原爆体験と今日の被爆者へのアクチュアルな関心に支えられているかといえば、事実はその逆だ。この批評家が原民喜の作品を忘れさっていることにも驚くことはない。(三月行動の始まる日、自殺した被爆者たちの群のひとりたる詩人の花幻忌が行なわれた。)批評家が『黒い雨』をこのように最上級の讃辞でかざるのは、かれの一篇の戦後日本人としての原爆体験へのうしろめたさ、気懸りさが、「平常心」という観念・情緒を見出すことによってぬぐいさることができるのに気がついたからにすぎない。かれのプチ・ブルジョワ的な「平常心」によって他人事として「この未曾有の体験を見据える眼」をもって、たとえば被爆者の三月行動を無視しても、平静でいられる言訳を発見したからにすぎない。

 被爆者の『黒い雨』に対する評価は、当然のことながらそうした身ぶりだけ大きい空虚な言葉とは無縁のものであった。井伏鱒二氏自身が、『黒い雨』を批評する被爆者の声に接したことをのべている。それは、しかし井伏鱒二氏が、アクチュアルな文学者として、原爆に関わった仕事をした後、あの若い批評家の単なるいじましい自己慰安を動機とした讃辞などとは比較を絶した、真の反応として受けとるにあたいする批判であった。なぜなら、その時はじめて『黒い雨』は原爆体験の真実とダイナミックな関わり方を示したのであったからである。

 被爆者たちは、かれらの原爆体験の真実に近づこうとする。原爆について書かれた一冊の本を、かれらが読む。被爆者は絶対につねに「いや、これは違う、自分が体験したのは、もっと恐しいことであった」というであろう。それは、被爆者が、その一冊の本を乗りこえることによって、より一歩、原爆体験の真実に近づいたことを意味するのである。『黒い雨』は、そうした乗りこえ運動にとって、きわめて高い足場である。

 『黒い雨』を読んで、「いや、これは違う、自分が体験したのは、もっと恐しいことであった」と被爆者がいう時、かれは自分の原爆体験へのきわめて高いジャンプを達成しえているのである。井伏鱒二氏はアクチュアルな文学者として、そのような被爆者の乗りこえ運動に役だつことを決して不名誉とは考えないであろう。井伏鱒二氏は、『原爆被害者を守るための援護法制定に関する要望書』の署名者である。

 僕が原爆に能動的に関わっている被爆者たちを見出すのは、そのようにしてかれらが、一九四五年夏の原爆体験の真実に向ってくりかえしている乗りこえ運動によってであるが、それは、被爆者たちの三月行動にもっとも顕著な性格としてあらわれたものであった。三月行動の中心にある原爆被害者援護法制定の請願には、確かに今日を生きる被爆音が、受動的に原爆に関わって、どのように苛酷な現実生活を経験しなければならないかを切実に反映する声が響いている。原爆によって押しつけられ、縛りつけられた悪しき状況をどのように生きているかの簡潔であるが同時に総合的な表現がある。

 僕はこの数年間、いくつかの広島に関わる文章を書いてきたが、そのルポルタージュの制作の過程で僕が出会った問題の、緊急で本質的なものはすべてここにつくされている。この請願書は一九六〇年代後半のもっとも重要な原爆被害に関する文書となるであろう。それは被爆音自身が、この二十二年間に忍耐しつづけた、加速度的に強大になる脅威を、それを克服して生き延びようとする人間の眼から見きわめ、それに対処するための方策の、国家に期待すべき最小限を、まとめあげた文書である。
(「ヒロシマの光」大江健三郎同時代論集 岩波書店 p164-169)

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◎「加速度的に強大になる脅威を、それを克服して生き延びようとする人間の眼から見きわめ、それに対処」と。