学習通信050728
◎病室が──換気孔に……

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 今の世代の祖母や曽祖母の代の家々,少なくとも田舎の家々は,正面のドアも裏のドアも夏冬を通して開け放しにされていて,家じゆうをいつも風が通り抜けていた──家はごしごし洗いされ,掃除され,磨かれ,洗い流されていて,祖母たちは,そして曽祖母となればいっそうのこと,いつも戸外に出ていて,ボンネットは教会に行くとき以外はかぶったことがないという暮らしぶりで,これらのことは肉体的強健の砦のような曽祖母がいたという事実を説明しており,祖母は強健さはやや劣ってきたものの至極元気で骨の髄まで健康だったが,母親に至ると活気をなくし,馬車や家に閉じこもるようになり,最後に娘に至っては病身でベッドに伏せっているような状況をよくみかける。

死亡率は全体的に低下しているのに,ある家系が,あるいはしばしばある家族がこのように退化しているのをあなたがたはよく見かけることを思い出してほしい。洗いざらしの弱ったぼろ布のようになった高貴な家柄の気の毒な子孫たちが,彼らの無益で退歩した一生をとおして精神的にも身体的にも病み,そしてこれから結婚してこのような輩をもっとこの世に送り出そうとしている人たちが,自分たちはどこに住むべきかあるいはどのように住むべきかについて,彼ら自身の便利さしか考えない,そういう人たちにあなたがたは出会うだろう。

 病人がいる家の健康に関して言えば,病室がその家の他の部分の換気孔にされていることがよくある。なぜならば,家全体はいつものことながらむっとしたままで外気も入れず不潔な状態なのに,病室の窓は常に少しばかり開けてあってドアも時々開けられるからである。さて,病人を一人かかえている家は,その病人に気遣っていくらかの犠牲をはらっている。ノッカーは使えないように上にあげて止めておき,家の前の道路には麦わらを敷く。それならば,病人のためを考えて,家を隅々まで清潔にし,特に外気を入れておくことがどうしてできないことがあろうか。
(フロレンス・ナイティンゲール著「看護覚え書き」日本看護協会出版会 p38-39)

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暮らしの中の換気

 テレビの仕事をすませて家へ帰り、お風呂へはいって寝たのは、朝の三時だった。
 あれからおひるまでぐっすり眠ったのに、どうも気分がすぐれない。こんなことは慣れているはずなのに……やっぱり齢のせいかしら。頭が重い。

 食事もとらずに、そのままうとうとしているうちに、ふとこのあいだ「暮しの手帖」で読んだ話を思い出した。
 風邪をこじらせたある奥さんが、なんとかして治したいと、医者のすすめどおり、暖かい部屋で静かに寝ていた。

 ところが、四日たっても五日たっても、どうもスッキリしない。頭痛はますますひどくなり、吐き気がしてきた。電話で様子をきいた医者が不審におもい、病室へ行ってみたら、中の空気がムッとするほど汚れていた。部屋の暖かさを逃すまいとして、ずうっと、窓をしめきっていた。そのために炭酸ガスが充満し、酸素が欠乏してしまった。つまり、部屋の中で酸欠症状が起きていたのだった。

 すぐに窓をあけ放し、部屋の空気を入れ替えたら、その奥さんはたちまち元気になってきた、ということである。

 ──そう言えば……私はあわててとび起きた。この寝室も、昨日の朝からずっとしめっきりだった。

 小さい庭の雑木の間から、冷たい空気がサッと流れこんできた。気のせいか、甘くておいしい。しばらく窓辺に立っていると、だんだん頭痛が治ってきた。ストープをつけっ放しで窓をしめておくなんて……本当にうかつだった。

 鏡台の前へ座り、髪をとかしながら、
(……心の窓もときどきあけないと……)
チラリとそんなことを考えた。

 私のような仕事をしていると、朝から晩まで──ときにはこうして深夜までせまい世界にとじこめられている。テレビ局から撮影所、舞台、楽屋。そこで顔をあわせる人たちはみんな仲間だから話すことはすぐ通じあう。それがけっこう楽しいのだけれど、その中身はかぎられている。

 疲れて家へ帰れば、新聞、雑誌に目をとおす気力もなく、ただもう眠るだけ……。そんな暮らしに慣れてしまうと、しまいには、
(忙しい仕事を持っている大人が、本なんか読んでいられないのは当たり前)

 などと平気で思うようになってしまう。それでいいのかしら。

 たしかに今は情報過多の時代である。茶の間に座ったままで、他人の家庭のいざこざから、有名人の結婚・離婚、今年の秋のパリの流行まで手にとるようにわかる仕掛けになっている。それをすべて知らなくてはならない、などとは思わない。

 けれど世の中には、人間らしく生きてゆくために、どうしても必要な知識というものがある。社会の流れとか、人の心の微妙な動きとか……。それを知らなければ、どっちを向いて歩いていいのか、わからなくなってしまう。自分に対する、他人の苦い批判は、窓からはいる冷たいきれいな空気と同じである。素直にうけいれれば、私を緊張させ若返らせてくれる……ともすれば、しめきったせまい世界にうずくまりそうになるときに……。
 鏡の中の自分の顔に、改めて念を押した。
 (寒くても、窓をあけて外の空気を入れましょうね、部屋の中にも、心の中にも)
 まだ当分、酸欠人間にはなりたくない。
(沢村貞子著「わたしの茶の間」光文社 p63-65)

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 この魚は〔金魚のおよいでいるガラスびんをさして〕絶えず酸素を吸っています、それは空気中の酸素の水に溶けたものです、そうしてはき出すものはやはり炭酸ガスです。あらゆる生物は、すなわち動物と植物は、お互いの役に立つところの大きなはたらきを営んでいるのです。すべて地球上に生育している草木は、われわれが空気中へはき出した炭酸ガスをその葉から吸い取ります、そうして成長し繁茂するのです。

われわれが必要とするようなきれいな空気を植物に与えてごらんなさい、しおれてしまうでしょう。炭酸ガスを与えてごらんなさい、そうすれば無事に育つでしょう。この木片が炭素を含んでいるのはあらゆる植物と同様に、大気のおかげです。すなわちわれわれには有害な炭酸ガスをそれの必要な場所へ大気が運んで行ってくれるからです。

或るものには毒になるものが他のものでは必要なのです。それですからわれわれ人類はただ隣人のおかげをこうむっているばかりでなく、われわれと共にこの地球上に生きているあらゆる被造物のおかげをこうむっているのです。自然界のあらゆるものは、自然の一部分をして他の部分のために役立たせるような法則によって互に結びつけられております。
(ワァラデー著「ロウソクの科学」岩波文庫 p115)

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◎「すなわちわれわれには有害な炭酸ガスをそれの必要な場所へ大気が運んで行ってくれる」と。