学習通信050729
◎そうした補強工作なしに……
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憲法をいのちとし、信念をつらぬいて
寿岳章子さんをしのぶ 西山とき子
「告別式はしない」の遺言どおり、数十人が見送る中、寿岳章子さんの出棺の時がきた。七月十五日の午後の日差しはことのほか厳しく流れる涙もすぐにかわいた。お別れしたばかりの寿岳章子さんは、花と小さなぬいぐるみに囲まれていつもとかわらないやさしいお顔だった。日本共産党にも私にもあふれるような愛情と支援をいただいた寿岳さん。深ぶかと頭を下げる。八十一歳。
憲法をいのちとして、信念を貫いた大腸のような女性(ひと)だった。「がんばりましょう─」ハイトーンの先生の声が聞こえてくるような気がした。
巨星墜(お)つ、だが、戦後六十周年のこの時だからこそ、思いを深く受け継がなければならない。
演説会に街宣にと
私か寿岳さんと親しくさせていただくようになったのは九〇年秋、参議院京都選挙区の予定俣楠者になってからのことである。それ以前から、府立大学を定年退職された寿岳章子さんは、「民主府市政の会」だけでなく、京都はもちろん、全国各地で日本共産党支援の発言と応援弁士などの行動をしてくださっていた。
九二年の初当選の時から、推薦者になり、どんな遠くでも、演説会に街頭宣伝にと走るようにかけつけ、九八年の暑い夏の陣もご一緒してくださった。
全国八百二十万票と日本共産党の大躍進、京都では私の再選と比例第一党になった。本当に喜んでくださった。国会議員になって、いっそう身近に、また著書を通じてぶれない自己主張と人間愛・豊かな感性に学ばされた。歯に衣をきせない厳しいご意見とあわせて、「送り出したものの喜び」と期待してくださったことは私と日本共産党の誇りでもある。
共同のかなめとして
寿岳章子さんは、憲法をいのちとして、京都を愛し、京都を書き、たたかい、喜びも悲しみも府民とともに歩んだ稀有(けう)の女性である。政治活動も「はんなりほっこり」と住民の目線で、「憲法を暮らしの中にいかす」道ひとすじ。
この間のたたかいは国政でも地方の政治でも翼賛政治にたちむかう日本共産党と無党派の個人・団体の共同にこそ未来があることを示している。寿岳さんはその共同のかなめの人だった。明るく強く、京都府民の行動する太陽として最後まで多くの人々から愛された。
選挙の「記録集」をめくって見る。二〇〇〇年二月の京都市長選挙報告集会、「民主府市政の会」代表として挨拶(あいさつ)する寿岳さん。
「私は七十六歳ですが、がんばり通すつもりでございます。皆さん、負けずにがんばってまいりましょう。」──「破顔一笑」明るい章子さんの写真に思わずうれしさがこみあげた。そんな時寿岳章子さんは私の中にあざやかに生きている。(党京都府委員会副委員長・前参議院議員)
(しんぶん赤旗2005728)
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つきあいについて
家族関係とつきあいをいっしょにするなどと言うと、変に聞えますが、人間関係の作り方という点で考えてみると、家族はやはりなによりも大切なつきあい仲間ということになります。そもそも日本では「つきあい」という言葉がどうかすると、まずまず無難に、あまり事を荒立てず、どうにか共存関係を保ってゆく技術というように考えられやすいので、なおさらとんでもない言い方に聞えるかもしれません。
しかし私は二重の逆手の意味で家族との「つきあい」の問題を考えたいのです。一つは「つきあい」という言葉は、今も言いましたように少し片寄って考えられています。「つきあい酒」というような言葉でも表現されるように、うわべだけ人の気を損ねず、自分がそのサークルから脱落しない誓約のような意味でつきあいをするのです。「こんなことしたくないけれどつきあいだから仕方ない、ある程度やってお茶を濁しておけ」というような発想はなんと私たちの暮らしの中に根付いたものの考えかたであることでしょう。
そして不思議なことには、良い方にはあまり「つきあい」という言葉は使われずに、いやなことをしんぼうする時に、この「つきあい」という言葉は口にされます。私はまず日本語における「つきあい」という言葉の中にじめじめと漂っているこのいやなにおいを、もっと明るいさわやかなものとするように考え、行動してゆきたいと思います。
次に私が思うことは、家族との「つきあい」などというと、いやな顔をする人もいるくせに、日本の多くの家族の連帯意識を見ると、はなはだはかないものが多いということです。親子夫婦の関係がなんとたよりなくもろいことでしょう。もっともこれは日本だけのことではないでしょうが、もっときつく言えば、人間はこんなもろい面白くない人間関係でも、無理に保ちつづけてゆかねばならないのだろうかという疑問すらおこるほどに、いわばみせかけの家族が多いことです。
ある意味では、他人との間に作られる「つきあい」的人間関係以下の、だらしない関係が多いように感じられます。お互いがなぜ夫婦であり親子であるのかの追及が一向になされず、ただいたずらにだらだらした間柄は、日本的「つきあい」を、さらにじだらくにしたような惰性と無関心が満ちていて、そうした関係維持のために、貴重な人生が消費されることに、なんの意味があるのだろうかとしみじみ思われるのです。
つまり私は、従来の日本の家族の関係をもっと緊張した意味あるものにしてもらう努力を、家族の構成員のすべてに求めたいし、そこに人間の一つの生きがいというものを発見してもらいたいと思います。そこでもっと張りのある、前進的で積極性に富んだつきあいを家族の中によみがえらしたいために、何をみんなが考えてゆかねばならないかということを以下に述べてみます。
新しい家族
敗戦後の新しい憲法によって、旧家族制度は崩壊しました。人間以下であり、男が得ている諸権利については、そのほとんどを持つことがなかった女は人間としてよみがえりました。どんな高らかな喜びがあったことでしょうが。選挙が出来る、男と同じ学校に行ける。姦通罪は廃止された。……性によって差別されてはならないと憲法十四条はうたう……まるで何千年の女の苦労が一挙に消え去るかのように、女性はその幸福をかみしめるのでした。しかし有難い憲法も紙に書いてあるだけではなんにもならず、いわゆる形骸化された滑稽なしろものであるにすぎません。その条文を暮らしの中に生かしてゆく努力は、我々自身が行わねばなりません。自分も実践し、人にも実践させる努力、それなしにはただ戸籍に登録された紙の上の人間関係というにすぎません。
それどころか、旧憲法時代よりもっと悪い状況がおこり得ます。昔の家族、それは女の涙なしには維持されないものでした。しかし、がんじがらめのきずなの中では、形骸の家族はしばしば保ちつづけられました。めいめいの自発的な生きる力、連帯感なしに、めいめいの心の通い路はまったく消え失せていても、形ばかりの夫婦や親子が存在しうる場合がありました。また妻も肝心の夫との関係がありとあらゆる意味あいで断ち切れていても、ただ家を維持するための努力が生きがいとなって、凄絶な日々を送らせることがあり、それによってかろうじて家族は存在することも多かったようです。
人間的関係が夫婦の間にこれっぱかしもない場合でも、さまざまの行事、親類づきあい、そして家らしさを維持してゆくさまざまの労働──味噌や醤油作り、田畑の耕作、カイコかいにはた織り、障子張りや家族のものすべての衣類や寝具の調製、そんなものに追われまくっていれば、ただ忙しい毎日の仕事だけでいちおう妻の座は保たれ、場合によってはその点だけは夫のひそかな感謝の対象になりうることもあります。
ところが現代はかつての妻の肉体の労苦によって維持されたものが、大半はきわめて安易に既成の商品として手に入れることが出来るのです。此の頃は田舎でもまず醤油は作りませんし、味噌でさえ作らない家があります。自家用の野菜でも色々なものを少しずつ間に合うように作るよりは、一種類のものをたくさん作って、それで商品としての利潤を得、あとは買うという方式の農家も増えました。ましてサラリーマン家庭では圧倒的になんでもかんでも買ってすます家が増えました。
夕方のデパートに行って驚くことは、おそうざいの売場にいかに多くの人が群がっているかということです。それも手のかかかる難しい品物ではなく、おひたしや野菜の煮付け、ひどい場合には野菜サラダというようなものがどんどん売れてゆくのです。全部が全部独身の男が買うというのでは決してありません。
私自身は自分の好みとして、あまり既成のおかずが好きではありませんから買わないのですが、買う人がいかに多いかということは認めざるを得ないし、又場合によっては買ったってちっともかまわないと思います(しかし野菜サラダなどは鮮度も下がり、ビタミンはどんどん消失しているでしょうからバカバカしいと思いますが)。ただ思うことは、昔だと妻の手料理という形でサラリーマン家庭でもどうやら保たれた夫婦らしさというものが、この場合きわめて希薄になるということです。妻らしさを確保出来る一つの行為を捨てているのですから、逆に大変であるとしみじみ思うのです。
衣料の世界でも同様です。年輩のものにとって、とても懐かしい風景である洗い張り。ほとんど若い人はその情緒を知らないでしょう。今のように洋服が普及せず、又着物も今のように実用あるいはよそゆきの大半にウールが進出することのなかった時代には、春がら夏にかけて家々では一せいに洗い張りということをするのでした。木綿や銘仙生地の着物は、一年着たものは全部解いて洗ってのり付けし再び縫い直すのですが、いやもう大変な手間でした。しかし、板張りにしろ、あるいは元の一反に縫い合わせたものをしんしばりを打って、ぴんと張ったものにふのりを煮とかしたものを、はけでさっさっと塗って干し上げてゆくにしろ、それをやりこなしてゆく女の姿というものはなんとも言えない風物詩でした。
私も、学校から家に帰ってきた時、並木の桜の間に反物をつないで、せっせせっせとしんしばりをうっていた若い母の姿が目にうつった折の、さわやかな甘美さがしみじみと追想されます。たすき掛けで、白いてぬぐいを姉さんかぶりにして、さっさっと手ぎわよくしんしの針を張ってゆく母の姿は、子供にとってなんともいえぬ心よいものでした。学校から帰ると子供も手伝います。女の私は、もちろん学校の家事の時間にしんしばりの要領は習っていますから早速手伝うし、弟は習いはしませんが、根が器用なのでいたずら半分にやはり手伝うのでした。清らかな水彩画のように、透明な五月の青さのように、そうした風景は私の心によみがえります。
それはたしかに母らしさ、妻らしさをみごとに形づける行為でありました。しかし、そういう事の必然性のなくなった今どうするわけにもゆきますまい。そしてただなつかしがっても仕方ありません。ただ昔の家族というものは、こういうものによって案外補強されている面が多かったのです。今、昔の女はよかった、それにくらべて今時の女連中はなっていないという人の心の奥底には、こういう風景がしみついているのです。
だから今は大変です。そうした補強工作なしに、ほんとうの夫婦とは何であるのか、妻とは何であるのかを問わねばなりません。
(寿岳章子著「働く婦人の人間関係」汐文社 p9-15)
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◎「昔の家族というものは、こういうものによって案外補強されている面が多かった」と。