学習通信050730
◎タテマエをバカにしてはいけない……
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子どもと心を通わせる──親子関係の課題
仕事を軸とした自分の生きがいと、人間的に充実した子育てとを、同時に実現していく、そのために必要な社会的条件を整える努力を強めていく──ここに、今日の国民生活の基本的な課題の一つがあると述べた。それでは、そのなかで、どのようなことが、親子関係の課題になっていると考えればよいか。
子どもと心を通わせる
とりあげかたによっては、非常に多くのことを考えなければならないが、端的にいって、心の通いあう親子関係をどうつくるか、親の側からみれば、子どもと心の通う対話のできる親にどうなるか、子どもと心を通わせながら子どもとともに成長していく親にどうなるかということが、課題になっているといえるように思う。
いま子どもが何を望んでいるのか、どういう問題をかかえて苦しんでいるのか、何がわかり何をのりこえれば一歩人間として成長するのか──こうした子どものかかえる内面の問題がなかなかつかめない。そのために、子どものことを思っていろいろやってみるが、全部上すべりして、「子どもを育ててよかった」という実感をもてない。ここに、今日の親の子育てにおける一番の苦悩があるように思えるのである。
たとえば、岡百合子の講演記録「のぞけなかった子の心」(『親子とはなにか』立風書房、一九八〇年)には、今日の子育てにおけるこうした親の苦悩と、こえていかなければならない課題が語られているといえる。
岡は、高校の教師であり、作家の高史明の妻であるが、その一人息子が十二歳で自殺をするという事態に直面し、息子の死後、彼がなぜ自殺をしたのか、自分の子育てと生き方にどんな問題があったのかを考えつめてきた。その到達点がここに語られている。
息子の死について岡は、それまでにさまざまなかたちで発言してきた。例えば、『子どもと教育』(あゆみ出版)の一九七八年九月号の座談会では、岡は、息子の死の原因として思いあたることとして、つぎのようなことを述べている。
自分の子育てには常に理屈があり、なりふりかまわぬ愛、不条理な愛、とにかく理屈なしに抱きしめるといったことが足りなかったということ。息子は、小さいころから泥んこ遊びなどをほとんどしたことがない、動物を飼ったこともない、独りっ子で、同じぐらいの年齢の子どもとけんかをしたこともほとんどない。総じて自然や友達を相手に、よろこびや悲しみを身体に刻みつけて学んでいく生活が非常に稀薄だったこと。その一方で本が非常に好きで、本の世界に浸りながら育ったこと。その子が自殺したあと、本棚を整理していたら、ポルノの雑誌が数冊出てきたが、思春期に入りかけて自分の中に目覚めてきている性と、そうした汚い性のイメージとが重なって、自分がいやになったのではないかということ。身近な人の具体的な死というものにあったことがなく、死について非常に抽象的なイメージしかもてなかったこと。父親の存在が、非常に親密な関係にあったが、やはり圧迫になっていたのではないかということ。
これらのことは、その一つひとつが、重い問題である。しかし、それだけではなぜ息子が自殺しなければならなかったかわかりかねるという思いが残る。さらにほんとうに苦しんでいれば、自分の子どもの自殺についてそれほどしゃべれないのではないかというある種の反発をも感じさせる。しかし、この講演の記録にみられる自分の生き方と子育ての問題への深く厳しい反省に接してみれば、それ以前のさまざまな発言は、こうした反省にいたるプロセスであったことがわかる。
この講演記録の最後の部分は、つぎのような言葉で結ばれている。
「いろいろ申しましたが、私の言いたかったのは、テクニックとして、子どもの心をつかまえられなかったとか、やり方が悪かったとか、そういうことではなくて、つまり私自身が一体いのちとか人間とかを外側からしか見ていなかった。一人の人間のいのちが育ってゆく時に、魂のふるえるような新鮮さ、あるいはおののき、あるいは不思議さ、本当に一日一日、そういうものと遭遇しながら、一人の人間が育ってゆくのだといういのちの不思議さ、そして美しさもあると思うのですけれども、そういうものを感ずる感受性、見る目がかれてしまっていた。それでこのように育てなければいけないとか、こうすればうまくいくとかというタテマエだけで育ててしまっていたのだということです。結局、それは子どもだけの問題ではなくて、自分自身の生き方とか、自分自身のいのちに対する考え方がそうであったからで、それが子どもにそう出たのだ、そして、子どものほうが先に犠牲になったのだと思うわけです。
ですから、私はおかげさまでみんなにはげまされて、いまも教師の仕事を続けておりますけれども……、しかし、前よりは、子どもたちのふるえている状態が見えるようになりました。前だと、もうしようがたいなとか、あんなことをしてとか、あんなふうで、というようにだけ思っていましたのが、子どもが立往生して悩んでるという、いのちの震えの状況が見えるようになったんですね。そうしますと、これに対する共感というのか、これに寄りそってゆく気持ちというか、そういうものが出てきまして、それがあれば、その先は怒ろうと、優しくしようと、それは、そのときどきでいいと思えるのです。
……ですからお母さま方、やはりどうすれば子どもを死なせないで済むかというふうな、こうすればとかああすればというふうなハウツウではなくて、やっばり、自分も含めていのちが育っていく時のおののきのようなもの、そういうものを自分のなかで考える気持ちをもっていればいいと思います。それさえあれば、もうあとは千差万別、その方の個性で、自信をもってやっていけばいいと思います。……いま現在私自身も、息子のおかげで、そういうものに対する目を開かせてもらったわけで、これから息子と一緒に生きるつもりで、そういうものを大事にする豊かな生き方を築き、もう自分の子どもはいませんけれども、これからほかの子どもたちをそういう目で見ながら、一緒に生きていきたいといま思っております。」
岡は、自分の子どもが自殺するという大変な事態の中から、子どもがわかる、子どもの心がわかるということは、どういうことなのかを徹底的に問いつめていった。そして、子どもの生活を外側からだけ見ているのではなく、一人前の人間に成長していくプロセスで、さまざまの問題にぶつかり、不安や、悩みや、よろこびや、期待、挫折を感じながら大きくなっていく、その子どもの心の動きに共感できる、それがわかる人間になるということが、子育てにとって、親子関係をつくっていくうえで、決定的に大事なことではないかと考えているのである。
(田中孝彦著「子育ての思想」新日本新書 p22-27)
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タテマエとホンネ
dog=イヌ=pig
私は辞書が好きだ。何かというと、好んで辞書を引く。
辞書は引くためにだけあるのではない。もっばら読むための辞書もある。
サイデンステッカー・松本道弘編の『日米口語辞典』(朝日出版社)は、私にとってのそのような辞書の一つである。
たとえば──というわけで、この辞書を手にとってパッと開いたら、「食いしん坊」という項目が目にとまった。a pig ( =ブタ)という訳語があててある。すぐ前の「食い下がる」にはdogとあって、「dog(=イヌ)にはしつこくつきまとう≠ニいう意味があることを覚えておくとよい」というコメント。
今度は、その「イヌ」というところをくってみる。するとまた、a pig(=ブタ)と出てくる。そして「警官≠フ蔑称である。イヌ≠ニ豚≠ニ種類は違うが、動物にたとえたところに共通した感情が感じられる。ところが、最近のアメリカでは、逆に警官自身が、I'm a pig and I'm proud.(オレはイヌだ。それが誇りだ)と書かれたワッペンをつけたりしている」うんぬん、とある。
というぐあいで、私にはなかなか面白い。
自民党、三菱商事、ハムレット
その辞書の「建前と本音」の項からの書き抜きが、私のメモ帳にある。「words and actual intention」(=言葉と本心)という訳語をあげた上で、「典型的な難訳語の一つ。日本人ほど建前と本音≠フ食い違いに無神経な国民はないと言われる。言行一致を子どものときからたたきこまれている欧米人が建前と本音≠フ不一致をひどく嫌うのは事実のようだ。建前と本音≠ノあたる決まった英語がないのもこのへんに理由があるのかもしれない」とコメント。そしてさらに、「自民党はその事件はぜひとも解決したいと言っているが、建前と本音はどうも違うようだ」という文章が例文としてそえられている。
『日米口語辞典』からの書き技きは以上だが、私のメモ帳にはそのあとへつづけて──
「そのばあい、少なくとも表面上は建前≠崩さずに本音≠満たす方策を見つけることが交渉権になる。もちろん、かけ引きの立場を有利にする手として、建前に過度にこだわることもある。本音を明かさずに、表面上、建前に固執するというのは、個人のつきあいでもよくあることだ。本音があまり見上げたものでないときは、よけいにその傾向がつよい」
これは「日本人独特のビジネス慣習やいいまわし」を外人に紹介する目的で三菱商事の英文広報誌に連載されたコラム(今まとめて『日本人語』東洋経済新報社)の「ホンネとタテマエ」の項から。──ふと思いついて、中村保男・谷田貝常夫『英和翻訳表現辞典』(1)(研究社出版)でwords(=言葉)の項を引いてみた。そしたら、「ハムレットは"Words, words, words"と言ったが、私にはこれは建前、建前、建前、何もかも建前だらけだ≠ニ言っているように聞こえて仕様がない」とあり、さらにpolicy(=政策)の項をも参照、とあるのでそこを見ると、この語も「建前」と訳していい場合がある、と記されていた。
活動家適性自己診断表の試み
三年前、「期待される活動家像」というテーマで話をさせられたことがある。そのときのレジュメを引き出してみると、「活動家としての適性自己診断表の試み」と題して「孤立に耐える自信がある」「仲間から好かれる自信がある」「思考の原則性について自信がある」「柔軟な思考・発想について自信がある」など十数項目をあげながら、「項目はこれでいいか、ほかにどんなのが必要か、総合的診断基準をどうするかなど、みんなで意見を」と呼びかけていたが、その十数項目のなかには「タテマエとホンネ、思想と生活に大きなくいちがいがない自信がある」という項目もあった。
「大きなくいちがいが……」とそこにわざわざ記したのは、一つには、小さなくいちがいならば神ならぬ身の誰にもあることで、それはむしろ人間くささのあらわれでさえある、ということがいいたかったからだが、同時にまた、そのくいちがいがあまりに大きいとなると、これはまずい──そんな人は信用できない、ということがいいたかったのも、もちろんである。タテマエとホンネとのあいだにひらきがあるということは、それが克服されるべきものとして自覚されているかぎり、人間としての面目にもとることはないのだが、もしそのように自覚されているのなら、ひらきがあまりに大、ということはおこりえないはず。──そんなふうに考え、そんなふうに語ったのだったと思う。
タテマエとホンネの弁証法
だが、そのあとでおこなわれた討論をきいていて、自民党などのばあいはいざ知らず、私たちのばあい、タテマエとホンネとの関係には、以上ではつくせないものがある、ということを強く感じた。その後、いろいろな機会にますますそう感じてきている。
そんな一つの機会に書いた文章の一節──
「水は低きに流れる。安易な方につきたがるのは、誰しもの自然なホンネだろう。だが、これではいけない、と考える、これももう一つのホンネだ。そこで、ヨリ高い目標をタテマエとしてかかげ、それにむかって努力しょうとする。思想というものは、そこに成立するのだろう。こうして、そのタテマエにホンネの全体が近づいていき、思想が生活化される、そこに人間の進歩が実現されていくのだと思う」
その意味で、タテマエをバカにしてはいけない。タテマエを大切にしよう。日本国憲法がかかげている民主主義のタテマエにしても同じだ。
思いだした。私のメモ帳のなかに、ある座談会(「転換期のなかの文化」)での永井潔さんの発言が書き技かれていた。
「実感喪失≠ニいうコトバがさかんにいわれるけれども……実感喪失は、やたらと直接的なホソネばかりをありがたがって、社会的タテマエを軽べつするようになったことと関係があるように思うね。ぼくは、人間的タテマエの復権以外に、現代の実感喪失を救う道はないと思うね」(『民主文学』一九七九年一月号)
タテマエをまもれ!
(高田求著「新人生論ノート PARAT U」新日本出版社 p117-121)
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◎「タテマエにホンネの全体が近づいていき、思想が生活化される、そこに人間の進歩が実現されていくのだと思う」と。