学習通信050731
◎なくすには、ただ一つの手段しかない……
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アルバイトはすぐにやめよう
この世の中においしいアルバイトはありません。
アルバイトをはじめた時点で、必ず搾取の対象になるからです。
バイトとは要するに自分の時間を切り売りしているだけなのです。
当然自分のキャパシティ以上にお金を稼ぐことはできませんし、ムリすれば身体が続かず、病気になってバイトを休んだりしたら収入も減り、ますます貧乏のスパイラルに陥っていくだけです。
月三〇万から四〇万円のバイト収入を得ていた僕はというと、これは大学生にとっては少なくない金額でしたから、そこで満足してしまっていたのです。
しかし、実はそのとき僕がとるべき行動は、「会社側はなぜこんなに割りのいい仕事をくれるのか」ということを考えることだったのです。
僕を雇った会社が儲けていることには、当然気づいていました。でも「一日二〇〇〇円くらいは会社側に取られているんだろうな」とぼんやりと考えていた程度でした。
しかし実際には毎日一万円から二万円ほどもピンハネされていたわけです。それに気づいたときは「やられた!」と思いましたけど、いま考えれば当然の話です。
雇用者が労働者から搾取するのは、商売としてはしごく当たり前のことなのですから。
それなので、一度、自分で仕事を取ってきてやってみることが大切なのです。会社を通さずに直接仕事をしてみると、「えっ、こんなにもらえるんですか」という話になる。そこではじめて、「これまでこんなに上前をハネられていたんだ」と実感できます。
これはアルバイトだけでなく、サラリーマンでも同じことです。どんなにがんばってもそこそこの金持ちにしかなれないし、いまの時代は、いったん手にしたその地位さえ危ないのです。
逆にいえば、自分で会社を起こさない限り、搾取の対象になるのは一生まぬがれないということです。
就職とは、他人のリスクコントロールの支配下に入るということです。
要するに自分の運命を他人に支配されるわけです。
「自分はばかだから、自分よりもっと頭のいい人に自分のリスクコントロールをしてもらいたい」という人は就職すればいいのだろうし、「自分は他人に運命を左右されるのはいやだ」と思えば、会社をつくればいいのです。
僕は他人に支配されるのはいやでしたので会社をつくり、自分のリスクコントロールの下に会社を運営してきたわけです。
僕には世の中にサラリーマンが圧倒的に多いのは不思議でなりません。他人のせいで自分がいやな目にあうのは、納得できません。もっとも、これまでの目本では「公務員はクビにはならない、大企業は社員を守ってくれる」という、旧世代の迷信を信じていた人が多かったことも関係あるのでしょう。
しかし、あなたが成功しようと思うならまず、他人にコントロールされて生きる限界、それと自分の限界に気づくことです。
いくらがんばっても一個人の力で稼ぐ収入はたいしたことがありません。
そして自分の時間は有限です。
これに気づいたら会社を立ち上げることです。
自分の会社をつくってそこで他人に稼いでもらうことが、金持ちへの一番の近道なのです。アルバイトなんかで貴重な時間を量り売りしてしまうのはもったいないのです。
(堀江貴文著「稼ぐが勝ち」光文社 p41-43)
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昨今の新聞の紙面を大いににぎわせているいわゆる住宅難は、労働者階級が一般に劣悪・な、過密な、不健康な住宅に住んでいるということではない。この種の住宅難ならば、現代に特有な現象ではない。それは、以前のあらゆる被抑圧階級と区別された近代プロレタリアートに特有な苦難の一つでさえない。それどころか、すべての時代のすべての披抑圧階級が、かなり一様にこの種の住宅難に苦しめられてきたのである。
この種の住宅難をなくすには、ただ一つの手段しかない。すなわち、支配階級による労働する階級の搾取と抑圧を全体的に廃止することである。──ところが、今日住宅難ということばで言われているものは、大都市へ突然に大量の人口が流入してきたため、労働者のたださえ劣悪な住宅事情が特別に悪化し、賃貸価格が暴騰し、それぞれの家屋に居住者がますますぎっしりとつめこまれ、一部の人々にとってはおよそ雨露をしのぐ場所を見つけることが不可能になったことである。そして、この種の住宅難がこんなにやかましい論議の対象となったのは、それが労働者階級だけに限られないで、小ブルジョアジーをまきぞえにしたからにほかならない。
現代の大都市の労働者や一部の小ブルジョアまでを苦しめている住宅難は、今日の資本主義的生産様式から生まれてくる無数の、比較的にいって小さな、第二次的な害悪の一つである。それは、資本家が労働者を労働者として搾取することから直接に生まれてくる結果ではまったくない。
この搾取が根本の害悪であって、社会革命とは、資本主義的生産様式を廃止することによってこの搾取を廃止しようとするものなのである。
ところで、資本主義的生産様式の土台石となっているのは、次の事実である。
われわれの今日の社会制度のもとでは、資本家が労働者の労働力をその価値で買いながら、その価値よりはるかに多くのものをその労働力からひきだすことができるようになっているが、これは、労働力にたいして支払った価格を再生産するのに必要なよりも長い時間、労働者を労働させるからだということ、これである。
こうしてつくりだされた剰余価値は、資本家および地主の階級全体と、さらに彼らのお雇いの従者たち(上は教皇や皇帝から、下は夜番やそれ以下のものにいたるまでの)に分配される。
その分配がどのようにしておこなわれるかは、ここではどうでもよいことである。ただ次のことだけは確かである。それは、労働しない人間が生きていけるのは、彼らがみな、なんらかの方法でこの剰余価値のおこぼれにありついているからにほかならないということである。(このことをはじめて説明したマルクスの『資本論』を参照せよ。)
労働者階級によってつくりだされ、対価の支払なしに彼らからまきあげられたこの剰余価値の、労働しない諸階級のあいだへの分配は、まことにごりっぱな喧嘩やだましあいをともなっている。この分配が売買を手段としておこなわれるかぎり、その主要なてこの一つは売り手が買い手をごまかすことであって、このことがいまや小売業で、とくに大都市で、売り手が生きていくための不可欠の条件になっている。
しかし、労働者が商品の価格や品質の点で小店主やパン屋にだまされるとしても、それは、労働者という彼らの特殊な資格のためではない。それどころか、ごまかしのある平均的な度合がある地方で社会的通則となれば、このごまかしはやがて賃金がそれだけ上昇するというかたちで埋め合わせられざるをえない。
労働者は、小店主にたいしては、買い手として、すなわち貨幣または信用の所有者として登場するのであり、したがって、けっして労働者すなわち労働力の売り手としての資格で登場するわけではない。ごまかしが労働者に、また一般に貧しい階級にあたえる打撃は、富んだ社会階級にあたえる打撃よりも手痛いものであるかもしれない。だが、それは、もっぱら労働者だけをみまう害悪、労働者の階級に特有な害悪ではない。
住宅難も、またまったく同様である。現代の大都市の膨張は、その若干の地域、とくに都心地域の土地に人為的な価値をあたえ、それはしばしば法外に騰貴していく。この土地の上に建てられている建物は、土地の価値をたかめずに、むしろ引き下げる。これらの建物は、変化した状況にもはや適合しなくなったからである。人々はそれをとりこわして、かわりに別の建物を建てる。
とりわけ、都心にある労働者住宅について、こういうことが起こる。労働者住宅の家賃は、どんなに人口が過密になっても、けっして一定の最高限をこえて上昇することはできない。あるいは、こえるとしても、ごく緩慢にしかこえることができない。そこで、これらの労働者住宅をとりこわして、そのあとに店舗や、商品倉庫や、公共建物を建てるのである。ボナパルティズムは、その手先のオスマンの手で、パリでこの傾向を大がかりに利用して、詐欺をはたらき、私腹をこやした。
しかし、オスマンの精神は、ロンドンやマンチェスターやリヴァプールをも席巻したし、またベルリンやヴィーンでも同じようにわがもの顔にふるまっているようである。その結果、労働者は都心から郊外へおしだされ、労働者住宅や、一般に小住宅は少なくなり、高価になり、しばしばまったくみつからなくなってしまう。なぜなら、こういう事情のもとでは、高価な住宅のほうが投機の場としてずっとうまみがあるので、建築業者が労働者住宅を建てるようなことは、まったくの例外になるからである。
(エンゲルス著「住宅問題」M・E8巻選集D 大月書店 p73-75)
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◎「労働しない人間が生きていけるのは、彼らがみな、なんらかの方法でこの剰余価値のおこぼれにありついているからにほかならないということである」と。