学習通信050806
◎あなたでなくなったあなたたちが……

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仮繃帯所にて

あなたたち
泣いても涙のでどころのない
わめいても言葉になる唇のない
もがこうにもつかむ手指の皮膚のない
あなたたち

血とあぶら汗と淋巴液とにまみれた四肢をばたつかせ
糸のように塞いだ眼をしろく光らせ
あおぶくれた腹にわずかに下着のゴム紐だけをとどめ
恥しいところさえはじることをできなくさせられたあなたたちが
ああみんなさきほどまでは愛らしい
女学生だったことを
たれがほんとうと思えよう

焼け爛れたヒロシマの
うす暗くゆらめく畑のなかから
あなたでなくなったあなたたちが
つぎつぎととび出し這い出し
この草地にたどりついて
ちりちりのラカン頭を苦悶の埃に埋める

何故こんな目に遭わねばならぬのか
なぜこんなめにあわねばならぬのか
何の為に
なんのために
そしてあなたたちは
すでに自分がどんなすかたで
にんげんから遠いものにされはてて
しまっているかを知らない

ただ思っている
あなたたちはおもっている
今朝がたまでの父を母を弟を妹を
(いま逢ったってたれかあなたとしりえよう)
そして眠り起きごはんをたべた家のことを
(一瞬に垣根の花はちぎれいまは灰の跡さえわからない)

おもっているおもっている
つぎつぎと動かなくなる同類のあいだにはさまって
おもっている
かつて娘だった
にんげんのむすめだった日を
(峠三吉著「原爆詩集」青木文庫 p29-32)

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なにを記憶し、
記憶しつづけるべきか?

 忘れさる、とはどういうことであるか。いったい、われわれは、どのようなものを、どのようにして忘れさるのであろうか? もし、率直な人間なら、忘れさる、ということは、すなわち、忘れたい、と思うものを、意識して、忘れさることにすぎないと認めるはずです。すくなくとも、子供たちの無垢の心においてでないかぎり、重要な思い出が、ごく自然に、無意識裡に、われわれの記憶の表面から消えさってゆくということはありますまい。われわれは、ただ、忘れさろうと努力してのみ、ついに忘れさることができるのでしょう。

 個人について、記憶と忘却の仕組みは、かくのごとくです。まして、個人をこえて、そこに集団あるいは社会がかかわってくれば、こうした忘却のメカニズムは、もっと明瞭であり、露骨です。とくに、今日のような、マス・コミニケイションの時代においては、社会がひとつの事実あるいは真実を忘れさるということは、それを忘れさろうとするあらわな努力が、宣伝の形をつうじておこなわれてはじめて可能になるとみなすべきでしょう。

みんな忘れてしまったのだ、きみひとりが記憶していて、なんになる? という臆面もない誘惑の声が、われわれのまわりをとりまくのを、たびたび感じるではありませんか。また、それを記憶していることは、きみ自身にとって、都合の悪いことではないのか? という声が聞えてくることもあり、それは、より説得的です。

 しかし、われわれが、きわめて孤独な状態においてであれ、自分自分を窮地におとしいれかねない不都合なそれをであれ、絶対に忘れてはならぬ、記憶しつづけねばならぬことがあるはずで、ぼくはそれがあると信じます。いま、ここに公刊されようとする一冊の書物こそは、まさに、われわれが、たとえ苦痛とともにであれ、あえて記憶しつづけねばならぬ事実と真実とを、異様な緊張度において提示する書物であります。ここに記録された人間的悲惨は、われわれに激しいショックをあたえます。そのショックはわれわれにとって決して耐えやすいものではない。

しかしあえてなお、われわれはこれらの手記を熟読しなければなるまいと思います。われわれ、あの戦争を生きのこったすべての日本人にとって、これを忘れさることは、広島の死者たちへの、また、いまなお苦しみつづける生存者へのもっとも恥ずべき裏切りであろうと思います。もし、われわれの政府が、それを記憶しつづけ、それを忘れたふりをしないだけの誠意を示すなら、われわれの政府は、国際的な孤独におちいるはずであるかもしれません。しかし、それはおそらく、あの戦争の終末以来、われわれの政府のかちえるもっとも名誉ある孤立なのではありますまいか?

 この書物『原爆体験記』は、もともと、昭和二十五年夏、広島市が、出版しようと志したものでした。二十三年に、被爆者たちから、原爆の惨禍の体験記を募集し、約一六四篇あつまったものから、十八篇とぬきがき十六項を、一三〇ページにまとめた小冊子がそれで、実際に印刷され製本されたものの、ついに発刊されることはありませんでした。その理由は直接に、占領軍によって配布禁止に処されたからです。占領軍は、この、率直に事実をかたり、ひかえめに真実をのべた手記集を、《被爆の様子が生なましすぎ、反米的だ》とみなしたといわれています。

 昭和二十五年、それはどういう年だったか? この年の初夏、朝鮮戦争がはじまっていました。いまとなってみれば、あの戦争に核兵器が使用されなかったことを誰もが知っています。しかし、当時、この戦争には絶対に核兵器が使用されないであろうという確信を、われわれ一般の民衆がもつことができたというのではありませんでした。また、あの戦争の作戦を担当した米軍の将軍たちの頭に、核兵器使用の可能性が、まったくひらめくことがなかったかといえば、それには疑問の余地があると思います。

 僕は広島で聞いたひとつのエピソードを思いだします。この朝鮮戦争勃発の年の夏、ひとりのアメリカ人記者が広島をおとずれて、被爆後、盲目となった老人にこう訊ねたというのです。朝鮮でもまた、広島・長
崎同様、原爆さえ使用すれば、戦争はたちまち終ると思うが、きみはどう考えるか? 老人は、答えました。

《私にはそれに反対する、どんな力もありません。しかし、もしそういうことがあれば、アメリカがこの戦争に勝つにしても、世界中に、もう誰ひとりとして、アメリカを信用する人間がいなくなるだろう、ということだけは、私に、わかっています。》

 僕はいま、この体験記出版のために手記をよせた、一六四人の被爆者たちが、米占領軍の配布禁止命令によって心にうけた傷のことを、暗然とふりかえらずにはいられません。手記執筆の当時、まだ三年間のことにすぎなかった、あのもっともいまわしい災厄の体験を、かくも多くの被爆者たちが、なぜ、あえて思いだそうとし、手記を書こうとしたのであったか?
 かれらこそが、あの災厄を意識して忘れさり、沈黙する資格のある唯一の人々でありましたのに。かれらが、これらの手記を平静な、おだやかな気持で、いかなる苦痛もなしに、書きすすめることができたと誰が信じましょう。しかもなお、これらの手記が実際に書きあげられたということは、どういう意味をもつのか?

 僕は次のように考えます。すなわち、それは、これら広島の被爆者たちにとって、かれらの昨日の最悪の体験、つぐないがたい悲惨の体験が、どのようにすれば、価値あるものに転化できるか、と模索することからはじまったのにちがいない。どのようにして、被爆体験にプラスの価値をあたえるか。それは、かれらの体験が、そのまま今日および明日の平和な日常生活を確立する理由となっていることを認めることによってでしか、ありえないでしょう。過去の苛酷な体験を、現在と未来において価値あるものの領域にくみいれることができたとき、はじめて、われわれは、自分のあじわった不幸をみずからつぐなうことができたと感じ、立ちなおり、自己回復する方途を見出すのではありますまいか。

 とくに、およそつぐないがたい自己破壊のあとの広島の被爆者にとって、それは祈りといってもいいほどの激しい希求にたかめられていたはずです。そして、かれらの希求を達成するためには、ただひとつ、かれらの体験が、直接に明日の平和をみちびくためのパイプであることを確認するほかにない。そこで、数多くの被爆者たちが、かれら自身の傷口を再び切開し、指をいれてかきまわすような苦痛をあえて忍耐して、これらの手記を書いたのでしょう。それは広島の悲惨を体験しなかった、すべての人間への切実きわまりない緊急の手紙でした。
(大江健三郎著「ヒロシマの光」岩波書店 p196-199)

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◎「かれらの体験が、そのまま今日および明日の平和な日常生活を確立する理由となっていることを認めることによってでしか」。