学習通信050811
◎現実にどういう形でのりこえ……

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政権論と野党共闘について
 一九九八年九月十一日
 日本記者クラブでおこなった講演と一問一答から

──略── 

 日本共産党の社会主義論は?

 ──中国の場合はいま「社会主義の初級段階」でそれに百年かかるといっているとの話だったが、日本共産党がいまめざしている共産主義とはどういうものなのか。

不破 私がいまおもしろいと思っているのは、ソ連が崩壊したとき、「共産主義はだめになった」ということをいった人たちのなかで、「しかし、資本主義の現状はマルクスの批判どおりだ」という声が多かったことです。

 マルクスの社会主義論、共産主義論というのは、なによりも資本主義批判なんです。資本主義の利潤第一主義の現状や矛盾を明らかにして、人類社会はそれをのりこえる段階が必ずくる、その確信が中心で、大きな方向づけは語っても、それをのりこえた社会がどうなるかという青写真などは描かなかったんです。それは、その段階になって、その時代の人びとが、時代の条件に応じて解決する問題ですからね。

 私たちも、いま「資本主義の枠内での民主的改革」が問題ですから、その先の社会主義、共産主義の展望は、いまいえる範囲のごく大まかなことしかだしていません。ただはっきりしていることは、いまの日本の現実を見ても、結局、経済や生産が利潤第一主義で動かされているところに、いろいろな経済的害悪のいちばんの根源があります。民主的改革というのは、国民の利益をまもるために資本の横暴を社会的、政治的な力でおさえることですから、そういう方法である程度の緩和はできても、利潤第一主義の根源そのものはなくならないんですね。

 社会主義というのは、利潤第一主義で経済が動くという経済のしくみそのものをのりこえ、しくみの上からも、国民の利益が経済や生産の主目的になる社会なんです。現実にどういう形でのりこえ、どういう社会のしくみになるかは、それぞれの国で、国民的につくってゆかなければなりません。

 では、ソ連はなんだったのか、ということですが、ソ連は、対外面だけでなく、国内の体制も社会主義とはまったく無縁な社会でした。人間の抑圧、人間の搾取というものが、前近代的な形態もふくめて、支配横行していた社会でしたからね。

 われわれは、ほんとうの意味で利潤第一主義をのりこえる社会をめがします。そこにゆくには、それだけの条件が必要です。いま日本の社会にとって大事なことは、資本主義の枠内で、大企業の横暴をコントロール(規制)できる民主的な改革をやることです。その過程を経験するなかで、日本の国民自身が発展する、そして、国民自身の知恵で一歩一歩すすんでゆく、そういう道筋で、経済も生産も人間のためにあるといえる社会に前進してゆきたい、と思っています。

 そのプログラムは、現在いえる範囲で、党の「綱領」や「自由と民主主義の宣言」といった文献に書いてありますが、ごく簡潔にいえば、いまいった方向をめざしている、ということですね。
(不破哲三著「私たちの日本改革論」新日本出版社 p155-156)

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 ついでに確認しておかなければならないことは、労働人民によるいっさいの労働用具の「現実の占取」、全産業の掌握は、プルドン主義者のいう「償却」とはまったく反対のものだということである。

後者では、個々の労働者が住宅、農民圃、労働用具の所有者になるのだが、前者では、「労働人民」は家屋、工場、労働用具の総体的所有者にとどまり、それらのものの用益権は、すくなくとも過渡期のあいだは、費用の補償なしに個々人または協同組合に引き渡されることはおそらくないであろう。

それは、土地所有の廃止ということが、地代を廃止することではなく、かたちを変えてではあるが、地代を社会に譲渡することであるのと、まったく同様である。だから労働人民によるいっさいの労働用具の現実の掌握は、賃貸借関係の維持をけっして排除ずるものではない。

 だいたい、プロレタリアートが権力を掌握するとき、生産用具、原料、生活手段をあっさり暴力的に奪取するかどうか、またそれにたいする補償をすぐに支払うか、それとも、その所有権を長期の賦払いによって償却するかということは間題ではない。

そういう問題にまえもって、あらゆる場合を見こして回答をあたえようとすることは、ユートーピアを製造することであって、私はそんな仕事は他の人人にまかせることにする。(p147)

──略──

──私は、現代社会の生産が社会の全成員に十分な食料を供給するのに足りること、また、さしあたって勤労大衆に広くて衛生的な宿所を提供するのに十分なだけの家屋が存在していることを証明できれば、それで満足なのである。

将来の社会が食料と住宅の分配をどう規制するかについて考えめぐらすことは、直接にユートーピアにみちびくことである。

われわれになしうることは、せいぜい、従来のすべての生産様式の基礎的諸条件の認識から出発して、資本主義的生産の没落とともに、従来の社会のある種の取得形態が不可能になることを確認することだけである。過渡的な方策でさえ、どこでも当面存在している諸関係に適応しなければならないであろうし、小土地所有の諸国では、大土地所有の諸国とは本質的に違ったものとなるであろう、等々。(p150)
(エンゲルス著「住宅問題」M・E八巻選集 大月書店 p147-150)

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◎「われわれになしうることは、せいぜい、従来のすべての生産様式の基礎的諸条件の認識から出発して、資本主義的生産の没落とともに、従来の社会のある種の取得形態が不可能になることを確認することだけである」と。