学習通信050812
◎社会主義をイロハから……

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 本題にはいるとトカチョーフ君は、ドイツの労働者にむかって、私がロシアについては「ちょっぴりの知識」さえなく、それどころか「無知」のほかにはなにひとつもっていないと語り、そのため彼らに実情を、ことになぜロシアではちょうどいま社会革命が、苦もなくやすやすと、西ヨーロッパよりはずっと容易にやれるのかという理由を説明してやる必要があると感じる。

「わが国には都市プロレタリアートは存在しない。たしかにそのとおりだ。だがそのかわり、ブルジョアジーもわが国にはいない。……わが国の労働者は政治的権力とだけたたかえばよいだろう。──資本の権カはわが国ではまだ萌芽状態にある。それに貴下は、前者との闘争のほうが後者との闘争よりもずっと容易なことは、よくご存じであろう。」

 現代の社会主義が実現しようと努めている変革は、簡単にいうと、ブルジョアジーにたいするプロレタリアートの勝利と、いっさいの階級差別の絶滅による新社会組織の建設である。

このためには、この変革を遂行するプロレタリアートが必要であるばかりでなく、その手のなかで社会的生産諸力を、階級差別の終局的絶滅をゆるすほどに発展させたブルジョアジーも必要なのである。

野蛮人と半野蛮人のあいだでも、階級差別が全然ないのが通例であるし、どの民族もこうした状態を経てきたのである。

こうした状態を復活させようなどということは、社会的生産諸力の発展につれてこの状態から必然的に階級差別が生まれてくるという理由からだけでも、われわれの思いも及ばぬことである。

社会的生産諸力の一定の発展段階、今日のわれわれの状態からみてさえきわめて高い段階にいたってはじめて、生産を次のような高さに、すなわち階級差別の廃止が真の進歩となることができ、社会的生産様式のなかに停滞いな後退までもひきおこさずにその進歩が永続できるほどの高さに引き上げることが可能となるであろう。

だが生産諸力は、ブルジョアジーの手中ではじめてこの発展段階に到達したのである。

だからブルジョアジーは、この面からみても、プロレタリアートそのものと同じく、社会主義革命の欠くことのできない前提条件なのである。

したがって、ある国に、なるほどプロレタリアートはいないが、しかしブルジョアジーもいないから、そういう国ではこの革命はいっそうやすやすと遂行できると言うような人は、彼がまだ社会主義をイロハから学ばなければならないことをそれでもって証明しているものでしかない。
(エンゲルス著「ロシアの社会状態」M・E8巻選集 大月書店 p202-203)

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 はじめに、井上さんの世界論について、私なりの注釈を一つ付けさせてもらいたいと思います。

 まず現在の世界での資本主義と社会主義の関係という問題ですが、私たちは、井上さんが「社会主義」とひとくちでまとめられた国々を、一律に社会主義の国とはみていないのです。ソ連は、あれだけ「社会主義」を看板にしてきた国ですが、その実態は、社会主義とは縁もゆかりもない国に堕落していました。そのことについての私たちの認識は、さきほどお話ししたとおりです。ですから、私たちは、そういう国々を、いま「社会主義をめざす国々」と呼ぶことにしています。これは、その国の政府や政権党、あるいは国民が、資本主義から離れ社会主義を目標にしている国という意味で、それ以上の意味はありません。そのかぎりでは、ソ連もそうでした。しかし、中身は違っていました。

 この教訓を踏まえて、私たちは、いま存在している「社会主義をめざす国」の実態については、国ごとの個別の研究、分析、判断が大事だと思っています。実際、願望だけではなく、社会主義に向かう途上に現実にあるという国もあるでしょうし、「社会主義」は看板だけで、実態は資本主義化しているとか、それ以前の封建制に近いという国もありえます。その実態を、その国が掲げている看板だけで判断せず、客観的な事実によって究明してゆこうと思っています。
(不破・井上「新日本共産党宣言」光文社 p105-106)

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働きがいのある
社会をめざして

資本主義の基本矛盾とその解決

 資本主義のもとで、生産力は高度な発展をとげた。封建制での個人的生産にかわって、大規模な設備のもとに多数の労働者が集められ、生産が社会的に行なわれるようになった。
 つまり、生産が社会化されたのだ。

 ところが、生産手段の所有の方は、資本家の私的所有のままである。つまり「生産が社会化されているにもかかわらず、所有が私的」なままだ。これを「資本主義の基本的矛盾」という。
 この矛盾が諸悪の根源となり、働く人びとを苦しめている。

 生産と消費の矛盾もこの基本矛盾のあらわれだ。生産が社会化され大規模なものとなっても、それに応じて働く人びとの所得が大きくなるのではなく、むしろ企業間競争の激化のもとで低く抑えられ消費はのびなやむ。

 長びく不況で年間、二万件(負債一〇〇〇万円以上)の企業が倒産している(大半が中小企業で、大企業は空前の利益を手に入れた)。

 そしてついに完全失業者は一六○万人を超えた。
 日本だけではない。サミットに参加する七カ国(アメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、イタリア、カナダ、目本)の失業者総数、が二三〇〇万人を超えているという。

 どの国も景気回復≠フために、大企業本位、大軍拡の国家予算が組まれ、教育、福祉、医療などの予算がけずられ、国民生活を破壊している。そのうえ核戦争の危機が迫っている。

 「基本矛盾」を解決しないかぎり、働きがいどころか生命までうばわれてしまう。
 社会化された生産にふさわしく、生産手段を私的所有から社会的所有に移すことによって矛盾は解決される。
 つまり労働者階級が、国家権力をにぎり、大資本に私的所有されている主要な生産手段を、社会全体の所有と管理のもとにおくことで矛盾は解決される。

社会主義での労働

 生産手段が社会化された社会を社会主義社会という。
 社会主義では、生産の目的が社会全体の幸福の追求となり、働くことが真に喜びとなる。

 OA化、ME化で人が減らされることもなく、技術革新によって労働時間は短縮される。
 不況による倒産とか首切りなどなくなり、生産力の増大は豊かな物資と心のこもったサービスを人びとに提供し暮らしをうるおすだろう。

 働くことは、「名誉、光栄、勇気、ヒロイズムのいとなみ」(マカレンコ)となる。

 教育と訓練のなかで、一人の人間が多くの技術と知識を身につけ、芸術やスポーツの分野でも才能をみがき人が万人のため、万人が一人のため≠ノ生きることを喜びとする人格が形成される。

──略──

労働者階級の歴史的使命と資質

 労働者階級は、奴隷や農奴とはちがって、搾取も階級もない社会──人類の本史をきりひらく歴史的な使命を担っている。

 前史から本史へという人類史上たった一回しかない分岐点に生き、このドラマチックな事業をなしとげようとしている。前史と本史と合わせて五〇億年ともいわれる人類史のなかでまさにピンポイントのこの瞬間に生まれた幸運に身が震える思いだ。

 労働者階級はこの偉大な事業をなしとげるにふさわしい力量と資質をすでに身につけている。

 資本の激しい日々の搾取攻撃のなかで、戦闘性を身につけただけではない。組織的に、集団的に、規律をもって行動する資質を身につけた。奴隷や農奴にみられないこうした資質は、ほかならぬ「働くこと」のなかで身につけたのだ。

 資本主義のつくりだした機械制大工業は、労働者を集中させ、分きざみ秒きざみで管理・支配し、訓練し、規律性、組織性のある労働者にきたえあげた。

 資本は、技術革新に対応するよう労働者を教育し、その文化性・科学性を高めてしまった。こうした文化性はただ仕事にだけ発揮されるのではない。ひとたび労働組合運動や民主的な運動に参加することになるやいなや、労働者は民主的な出版物に接近し、その理論を学びとる力量を身につけている。たたかいに必要な調査や研究、政策づくり、宣伝、教育にその知的なエネルギーを惜しみなく注ぐのである。

 たしかに、OA・ME化のなかで、労働者はかつてのように肩をくっつけあって仕事をすることが少なくなり連帯性が弱まったようにみえる。

 しかし情報通信システムの高度化が人と人の距離を極端にちぢめたように、技術進歩にともない、それを媒介として企業をこえ、地域をこえ、産業をこえ、国境をこえ労働者相互の連繋はかぎりなく緊密なものとなった。

 たたかいの成果と教訓は一夜にして伝わり、経験と知識は急速に蓄積されている。資本主義のもとでの労働は、搾取されるだけで終わったのではなく、搾取のない社会をつくりだす主体である労働者を育てたのだ。企業が大手をふって支配しているその深部にいま着実にたたかいの芽が育っている。

 労働者階級がみずからの歴史的使命に目覚め、そのすばらしい資質を自覚し中小企業や農民と連帯して、国政革新をめざし立ち上がることをなにものもはばむことはできない。

働いて明日をひらく

 手術が成功し、元気で社会復帰する患者の姿、植物人間≠フ状態の患者に笑顔がよみがえる瞬間……数々の感動がある医療の現場で、「ほんとうに患者の立場に立って、医療にあたればあたるほど、働いてよかったという感動といまの社会への怒りがこみあげるのです」と看護婦が語っていた。

 食事や排せつの世話、清拭(身体を拭く)。寝たきり老人への訪問看護など、ほんとに患者が喜んでくれることをやれば、やまほど病院を赤字にするという。

 いま、働くことはほんとうに矛盾にみちていてつらく苦しい。
 しかし、労働者階級はここできたえ上げられるほかはない。この労働のなかでこそ、資本への怒りを感じ、社会を変革する意欲を燃やすのだ。そしてこのなかでこそ階級的に目覚め、仲間とともに手をつなぐこと、ができるのだ。

 働くことから逃げず、働くことに真正面からとりくみ、働く仲間からの熱い信頼をかちとることが、働きがいのある社会への第一歩だ。

 全国津々浦々の労働現場で、今日もまた、汗を流し心を集中させ、働きつづける幾百千万の労働者こそ歴史の主人公なのだ。
(中田進著「働くこと生きること」学習の友社 1968年 p98-103)

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◎「この変革を遂行するプロレタリアートが必要であるばかりでなく、その手のなかで社会的生産諸力を、階級差別の終局的絶滅をゆるすほどに発展させたブルジョアジーも必要なのである」と。