学習通信050821
◎生き物のような相互反応……

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人生と即興劇

 授業、即興劇、そして人生

 二〇年近くも前に書いたガリ版刷りの文章が出てきた。

「授業という劇の特徴は、それが即興劇であることだ。授業において生徒たちは、しばしば私たちの予期しない反応を示す。とっぴょうしもない質問をしたり、とんでもない答えや発言をしたりする。ところで、私たちがそれらを一面的に、妨害要素というふうにうけとって、おさえつけようとだけするならば、授業はけっしてうまくいかないだろう。むしろ私たちはそれらを歓迎しなければならない。なぜなら、それは少なくとも、彼らがそっぽをむいてはいないということ、舞台の上にあがっているということを示しているのだから。もちろん、それだけでは、それらはバラバラなものだ。それをどのように活かすか。それを材料とし、リアリティのささえとしながら、授業という劇の充実した展開を実現する、それが出演者でもあり演出者でもある私たちの任務であろう。……」

 高校教師をしていたころ、職場の仲間たちといっしょにつくった教育実践報告集の一節。当たり前なことを当たり前に書いているだけのことだが、読みかえしてみて、これは授業だけのことではない、と思う。
 人生それ自体が本質的に即興劇であるのではないか。

 かつての大道芸人たちのこと

 かつての大道芸人たちは、パターン化された出し物を身につけたプロフェッショナルであると同時に、即興芸術のプロフェッショナルであった。大衆は芸人たちに、よく知られた出し物をみがきぬかれた技で演じることを要求するとともに、当意即妙、臨機応変の芸の披露をも要求した。客の野次にアドリブで応じることはもちろん、客の無理難題の注文にたいして、あるいは正面から、あるいは機知をもってたくみにこたえること、それが芸人たちの基本的な修業の一つであった。

 役者どうしかんたんにうちあわせるだけで、あとはきまった脚本などなしに、その場の思いつきのセリフづけで演じられる芝居は、わが国の場合「口立(くちたて)」といわれた。ルネサンス期のイタリアでも「コンメディア・デッラルテ」と呼ばれる即興仮面喜劇がおこり、ョーロッパ各地にひろがった。

「役者たちは大体の筋立を心得ているだけで、あとは当意即妙、機転の即興セリフで見事につないでゆくわけです。だからこそ暗誦セリフの復誦でなく、いつどんな機知に溢れたセリフが飛び出してくるかわからぬ。相手役者としてもまたそれに応じて、劣らず軽妙なセリフをくり出さなければなりません。いわば打てば響くような当意即妙さで応酬するわけで……」

 いま私たちが手にするシェークスピアのテキストのなかには、こうした役者たちの即興セリフに由来するものもあるのでは、との議論さえあるそうだ。(中野好夫『人は獣に及ばず』みすず書房)

旅回り一座とモッキンポット師

 井上ひさし氏の傑作『モッキンポット師の後始末』にも、次のようなくだりがあった──

 モッキンポット師は「これですがな、これですがな」と興奮している。何がこれですがなですか、ときくと、芝居とはこれですがなということですがな、という。

 「最初から終わりまで続いていた活気と緊張、お客はんから飛ぶ掛声、それにすぱっと切り返す役者はんのアドリブ。歌謡ショーのときの役者はんめがけて殺到するお金、お金が飛んで来、それを役者はんがひろい、礼をいい、また芝居に戻るときの、間のよさ。芝居がつまらなくなるとすぐ欠伸をするお客はん、絶対そうはさせまいとする役者はん。この生き物のような相互反応。芝居はこれですがな」

 はからずもモッキンポット師は、その旅回り一座の一日座員として舞台に立つ羽目になり、神父にあるまじき事として、つとめ先のカトリック系大学を休職、帰国謹慎の沙汰となる。一年後、その大学の構内には、次のような紙片がはりだされた──

ポール・モッキンポット教授(休職中)は、このほどソルボンヌ大学から文学博士の称号を授与された。尚、同教授の博士論文の表題を左に記す。
「日本の大衆演劇に於ける即興性」
 ──首都東京近郊巡回芝居一座に於ける──

「人生のモットーは」と聞かれて

 アンケートによる自己紹介、というのを書かされることが時たまある。
 質問項目のなかには、いろいろ変わったものもある。たとえば「好きな色は?」などというのがある。「あさみどり」とか「もえぎいろ」とか答えることもあるが、「いろいろです」とはぐらかすこともある。
 それから「あなたのモットーは? 」というのがある。
 「どうしようかと迷う時は、個人的に考えて損になると思う方をえらべば、大きなまちがいをおかすことはない」
 むきになってこんなふうに答えたこともあるが、また次のように答えたこともある。
 「同じ質問にたいしてエンゲルスは、モットーなし≠ニ答えました。″モットーなし、がモットーです≠ニ訳した方がいいのかもしれません。すべてを疑う≠ニいうマルクスの答も私は好きですが、エンゲルスのこの答も私は好きです」

 「モットーなし、がモットー」というのは、人生の即興劇性の自覚とどこかで深くつながっているだろう。
 今度またあの質問に出あったら、「人生は即興劇」と答えることにしようか、と思った。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 138-142)

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職場の俳優になろう

 職場には、だいたい十五才から五十五才ぐらいまでの労働者がいます。男女別のちがいもあります。旋盤工もいれば、組立工もいますが、そういう職場の労働者を大きくわけると、一つは進んだ層、これはごく一部です。もう一つは、組合には無関心で、自分のことにキューキューとしている層、これも一部です。残りの圧倒的多数は中間的な労働者です。

 職場の「中間層」を結集するうえで大切なことは、圧倒的多数の仲問たちをどう見るかということです。職場の仲間を見るばあい、おくれた仲間や圧倒的多くの仲間をバラバラにみないことです。

 職場には将棋や釣りのグループ、マ−ジャンのグループやお茶や手芸のサークルなどがあり、労働者はかならず一人ぼっちでなく、集団でうごいています。そのなかで家庭のことや子供のこと、恋愛や結婚のことなど、いろいろ話しあわれています。こうした話があなたの耳にはいりますか。もしはいらないとすれば、あなたは仲間から完全にういているのです。すこし耳にはいるとすれば、あなたはすこし仲間をつかんでいるのです。

 ある金属の大企業での話です。
 何をやっても仲間はついてこない。あせった学習会のなかまたちは、組合役員選挙の前夜、寮や社宅をまわってガクゼンとしました。訪問先の仲間はどこをまわっても、一人もいなかったのです。

 あとになってわかったことは、会社側の選挙工作のために、独身者は独身者、年輩層は年輩層で、百円会費で一杯のまされていました。目的をはたさず、すごすご帰ってきた学習会の仲間たちは、「このままではダメだ!」と痛感しました。そしてこんどは、話上手よりも、きき上手になろうということをみんなできめました。

 それから学習会の若いなかまたちは、ショーチュー一本とモツをぶらさげて、職場では中堅といわれる四十才をすぎた労働者の家を訪ねて、「おやじさん、これは講義科だよ。戦争中の工場の話をきかせてください」といって、たのみました。はじめはケゲンな顔をしていた先輩も、酔いがまわるにつれて、やがて奥さんや子供もいれて、昔の話に花をさかせました。

 その話のなかで、いままで知らなかった将棋の会は、仲間たちの親睦のためばかりでなく、おたがいの悩みを解決するサークルであったことにも気がつきました。釣りのグループを通じても人間らしいしあおせをつかもうとする抵抗の輪が、自然発生的にひろがっていたのです。一ぱい会のおしゃべりも、マージャン会の帰りにも、結局、職場のことが話の中心になっていました。

 ショーチューの学習会が、社宅のあちこちで開かれるなかで、職場の仲間たちのあいだには、それぞれのグループがあり、それにはかならずりーダーがおり、リーダーの下に結集していることを知りました。学習会の仲間は、このリーダーと接触して、あらゆるサークルに参加していくようになりました。

 やがて、労働者たちは表面は貝のように口をとざしているが、それは、いま口を開いたらソンだということを長い職場の経験から知っていて、いつ口をひらくかと資本のスキをねらっていたのだということがわかりました。さいごに、このオヤジさんはこういいました。

 「あんたたちに期待しているんだよ……けどネ、みんなでよく話をするんだが、いまの若い人たちは、いっしょうけんめいやっているが、どこまでつづくか心配なんだよ」と。

 このオヤジさんのことばには、多くの仲間たちが、組合の幹部・活動家に期待しながらも、子供や家族のことを考え、どこまでついていけるだろうか、と不安を抱いていたことがわかります。

 わたしはかつて、東ドィツの組合幹部から、「幹部・活動家は俳優でなければならない」という話をききました。舞台の上での俳優の泣き、笑いをとおして、観客である大衆はともに泣き、笑うようになる、ということでしょう。仲間とともに泣き、笑い、そして怒ることのできる思想を身につけて、活動することの大切さを語った言葉です。

 このように、わたしたちは職場の圧倒的多数の仲開をとらえ、結集するというばあい、けっして表面だけをみるのではなく、労働者の全生活をみつめていくことが大切です。そうすれば、労働者の要求はつねに多面的で、深いところにひそんでいることが理解でき、不満や悩みを、要求に変える活動と、その要求をたたかいとる行動を通じて、職場の圧倒的多数のなかまの意識をたかめ、職場の自覚的な団結をつよめることができるのです。
(細井宗一著「労働組合幹部論」学習の友社 p34-37)

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◎「舞台の上での俳優の泣き、笑いをとおして、観客である大衆はともに泣き、笑うようになる、……。仲間とともに泣き、笑い、そして怒ることのできる思想を身につけて、活動することの大切さ」と。