学習通信050824
◎裏づける観測と計算……

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コペルニクスの天文学

無限な宇宙へ

 自然界・宇宙は、ダ・ヴィンチのように、それとしてどこまでも追求できる無限なものなのか? それともトマスのいうように不変・不動の神によって限界づけられた有限なものなのか? もし宇宙が無限なら、中心は一つであると限らないのだから、そこに地球をおかなくてもよい。また、上下、左右、運動・静止の区別も相対的なものになるから、地球が運動すると考えてもょい。そして、アリストテレスの『天体論』のいうように、天は高貴で地は卑しいという貴賤の区別の必要もなく、天地は同質と考えてよいだろう──およそこんなふうな議論が、一四世紀ごろから一五世紀にかけて、教会公認のブトレマイオスの地球中心天動説への疑問という形でしだいに論じられだしました。

 唯名論の牙城だったパリ大学のニコル・オレム(一三二五ごろ〜八二)やビュリダン(一三〇〇ごろ〜五八)らの説がそれで、かれらはすでに、地球が動いているようにみえない理由を「それはちょうど、動いているボートに乗りながら、べつの静止しているボートを動いているとみるようなものだ」と、運動の相対性からこれを論じています。さらに一五世紀、イタリアのパドア大学で学んだドイツうまれのクザヌス(一四○一〜六四)は、もっともするどく宇宙の無限性を探究し、上下、左右、運動・静止、周辺・中心などの諸対立を、この無限において解決しようとしました。しかしかれは、この無限性を神の無限のあらわれだとみていたために、何か神秘的なものを残すことになりました。この考えをうけつぎ発展させたのはブルーノ(一五四八〜一六OO)でしたが、かれの考えのもとにはコペルニクスの天文学があったのでした。

『天球の回転について』

 コペルニクス(一四七三〜一五四三)の太陽中心地動説をのべたこの本が、一五四三年、こうした思想的な雰囲気のなかでらわれたことはまちがいないでしょう。しかし教会公認の天動説にさからうことをおそれたコペルニクスは、原稿完成後も十数年間、その出版をためらっていました。そしてついに出版の決意をして校正刷りができあ、がったときには、かれは死の床に横たわっていたといわれます。

 この本の序文には「それを成し遂げるのに多くの労力を費やした私は、地球の運動に関する私の考えを文字に移すことをもはや怖れません」と決意のほどが記されています。全六巻のうち第一巻には、地動説にたいしてブトレマイオス以来いわれてきた疑間が一つ一つ解かれています。

たとえば、地球が運動すれば、地上のものはふりおとされ、空に浮かんだ鳥や雲は西の方へ動くようにみえ、自由に落下する物体はそれがむかった場所には落ちないだろうという説にたいしては、それらの物体は地球の運動を「分け与えられている」として、のちに「慣性」とよばれるような考えで説明しています。

また、地球が動いているようにみえないのは、船にのって港をでれば、陸地や町があたかも後退するようにみえるのと同じだと、運動の相対性で答えています。また、地球が円運動しても壊破されないのは、円運動こそ自然な運動であって、その点では天の円運動と同質なのだ、と天地の同質性を説明しています。また、惑星の不規則な運動は、地動説によってすっきり説明できるのだといい、はじめて内惑星(水星、金星)と外惑星(火星、木星、土星)とを区別した宇宙図(実際は太陽系)を提出しました。

惑星天文学者として

 ところで、コペルニクスがこの書物で、ただ地球が運動しているという説を提出しただけだとするならば、オレム、ビュリダン、クザヌスらときわだったちがいはないといわなくてはなりません。この書物が重要なのは、むしろ、ブトレマイオスの天文学ではなしえなかったことをここでおこない、天文学をすすめたということにあります。すなわちブトレマイオスの場合、なるほど五つの惑星それぞれについては、天球の円運動のくみあわせによって当時としてはかなり正確に説明することができたのですが、これら惑星の運動がたがいにどんな関連をもってこの宇宙(太陽系)をつくりあげているかについては説明できなかったのでした。

これにたいしてコペルニクスは、惑星の運動の間の関連を「数多く観測」し、三〇年以上も努力してその数学的幾何学的計算をおこない、その説明のためには地動説でなくてはならないと考えたのでした。つまり、そこには、地動説というアイデアだけではなく、それを裏づける観測と計算とがあり、それがこの書物の残りの五巻をなしているということです。コペルニクスの仕事が、たんに自然哲学ではなく「独立した自然科学」(エンゲルス)だという理由はここにあります。

航海技術

 では、コペルニクスが、こうしたブトレマイオス天文学の改革をくわだてた動機はどこにあるでしょうか。序文には教会の暦の改変にあったと書かれています。千数百年もたてば、ブトレマイオスの数値も実際の観測値とずれがでてくることはたしかでしょう。しかし私は、この書にはでてこない背後の社会的な力がその動機になっていると思うのです。

 それは一五世紀にはじまる地理上の発見──大航海時代といわれているものです。すでにこの世紀には近代的な舵をそなえた全帆走船が、いくつもの帆をはり、風上に向かってさえも自由に航行できるようになっていました。

また、すでにコンパス(羅針盤)もありました。けれども、コンパスだけでは陸地のみえぬ大西洋を横断することはできません。そこで使われた航法が緯度航法です。これはまず陸地をつたわって目的地と同一緯度まですすみ、あとはまっすぐ目的地に向かう航法です。

これなしには一四九二年のコロンブスの大航海も、九七年のヴァスコ・ダ・ガマのインド航路の開拓も、一五一九〜ー二年のマゼランの世界一周もなかったでしょう(当時はまだ経度を正確に測定する手段はありませんでした)。

 ところで、この緯度をみつける方法が、ブトレマイオスの天文学の書物にあるのです。このためにブトレマイオス天文学への関心は急速にたかまり、数値の改革など天文学上のさまざまの欠陥が注目されるようになり、これらがコペルニクスの仕事と地動説の提唱へとつらなっていったのでした。

火刑になったブルーノ

 コペルニクスの宇宙観には、もちろんたりないところ、古くさいところがあります。惑星間の関係といいながら、そこには数学的関連だけで、のちに問題となる力学的な関連はありませんでした。星をちりばめた円天井が動くのに似た「天球」によって宇宙がつくられているという古い考えが、それをさまたげていたのかもしれません。

かれは「宇宙が有限か無限かは学者にまかせよう」といっていますが、その宇宙図は、恒星天球にかこまれた有限の宇宙のようです。しかしコペルニクスの天文学説に支えられた地動説からは、無限な宇宙という考えが哲学的にはひきだされるはずです。

 そしてこれを大胆に唱えたのがジョルダノ・ブルーノでした。果てしない宇宙には中心が一つではなく、多数の中心があり、多くの世界があると、かれはいいました。したがって地球もほかの天体と同じ天体にすぎないのでした。

かれは一五七六年、聖職を離れてのち各地で公然と教会公認の天動説を批判し、自分の異端性をかくしませんでした。かれは誤った宗教的信仰にたいしては科学上の真理を対置して、「二重真理説」さえも拒否しました。

かれは、宇宙は無限で、自然界はそれとして客観的に探究できるという、やがて近代科学によってたしかめられる自然観を主張したのです。だがカトリック教会は、かれをとらえて七年間も入獄させたうえ、一六〇〇年、ローマの「花の広場」で火刑にしてしまいました。

かれは死刑の判決を下した裁判官にむかって「この判決を受ける私より、判決を下した諸公のほうが恐怖におののいている」とのべたといいます。
(大沼正則著「科学の歴史」青木教養選書 p68-72)

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 自然研究もまた当時は全般的な革命のまっただなかをすすみ、それ自身が徹頭徹尾革命的だった。じつに自己の生存権をも、それはたたかいとらねばならなかった。

近代哲学の発端となったあの偉大なイタリア人たちと手をたずさえて、自然研究もまた自己の殉教者を火刑台に、異端審間の牢獄にと送った。

そして特徴的なのは、自由な自然研究にたいする迫害にかけては、新教徒が旧教徒よりも性急だったことである。

カルヴァンは、セルベトがまさに血液循環の道すじを発見しようとしていたその時に彼を火刑にし、しかも二時間のあいだ生きながら火あぶりにさせたが、異端審問所のほうはすくなくともジョルダノ・ブルーノをたんに焼き殺すだけで満足したのである。

 自然研究がみずからの独立を宣言し、ルターによる破門状の焼却を繰りかえしてみせたともいうべき革命的な行為は、あの不朽の著作の出版であった。すなわちこの書をもってコペルニクスは、なるほどためらいがちに、いわば死の床についてはじめてこころみたとはいえ、自然の事物における教会の権威にあえて挑戦したのである。

自然研究の神学からの解放は、たとえ双方からの個々のあい対立する主張の決着が今日にまでもちこされ、また多くの人々の頭の中ではその後もずっとかたづくことはなかったとはいえ、じつにこのときに始まる。

そしてそのとき以降、諸科学の発展もまた巨人の歩みをもってすすみ、いわば出発点からの(時間的)距たりの二乗に比例するとでも言いうるほどにカを増していった、──あたかもこのとき以降は、有機的物質の最高の所産である人間精神にたいしては無機物にたいするのとは逆の運動法則がなりたつのだということが、ぜひとも全世界に証明さるべきことであるかのように。
(エンゲルス著「自然の弁証法」M・E八巻選集 大月書店 p280)

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◎「自己の生存権をも、それはたたかいとらねばならなかった」と。