学習通信050902
◎自己中心の愛まがいの行動……

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孝行について

 新憲法は孝行を否定した、けしからん、古来の淳風美俗をないがしろにした、けしからんということを思い込んでいて、なかなか新憲法になじまない人がいます。私は兵庫県のある地方の婦人会から、憲法についてのお話しを聞きたいと言われて、まことにいそいそと出かけて、がっかりした経験があります。よく話し合ってみると、その婦人会の幹部の人は、新しい憲法はけしからん、昔ながらの親孝行を抹殺してしまった、これからの親は子供に面倒をみてもらえず、孤独で放り出されるのだということを信じきっていて、こどもみなに扶養の義務はあるという点などは、まったくご存じないのでした。

 たしかに孝行は昔の形ではとやかく言われることはなくなりました。親の前に出て、平伏しなければならないような親子関係というのはほとんどありますまい。かりに前に述べたような、すごいワンマン父さんでも、見かけだけは子供をかわいがり、親しそうな雰囲気の中に、自分の言いたいことしたいことをしているというようです。家族制度はいちおう日本の現状ではその悪い面を崩壊させるたてまえにありますから、家父長的な権力機構としての親はたしかにもうないのです。ですから、仕えるという感じでの親への接触の仕方はありません。特に血のつながった関係では、相当古いものの考え方が残っているといわれるようなところへ行っても、あまり見られないのが現状です。

 親がまちがっている時でも、まちがっていると言わないで、ハイそうですと言うのがかつての孝行でありました。また、自分がどんなにつらい思いをし、さまざまな犠牲を払っても親にはよいめをさせるというのが、典型的な孝行でした。出世をした、名をあげた、金持ちになった、すべてこれ孝行のゆきつく所でした。

悪用される孝行

 なぜ孝行をしなければならないのか。もちろん根元としての儒教の教えでは、自分をあらしめた存在への感謝というような深いいわば宗教的な見かたをその基礎にたたえていますが、日本できわめて世俗的にそれが運用され、しかも権力体制を維持するのに便利さを与えたという点で、孝行はむしろ悪用された観があります。親のために夫婦の幸福が否定されることはしばしばありました。

今の人たちでしたらほんとうにこどもを愛する親なら、どうしてこどもの願いを無視するのか、こどものほんとうの思いをくみとれない親なら、それはエゴイストではないか、孝行とはエゴイズムの別名ではないかと考えるに違いないようなことでも、かつては親への服従がなによりも大切でした。その親子関係がやがて主従関係に押し広げられ、やがては国家主義へ巧妙にエスカレートしてゆくのですが、日本では、過去の孝行はひどく浅薄な考え方の上にたっていたように思えてなりません。

それはこういうのです。親は苦労をして子供を育てる、これまでに大きくしてくださった親の恩は海より深く山より高いのだという発想です。子供がしんからそうひとりでに思えるのはとても結構で、私はそれを否定する気はさらさらありません。ただ親がありがたいと思えと子供に押売りして、そこから孝行という行動の形式を導き出すようになると、これはまちがっていると思います。言わなければわからない恩が果してほんとうの恩でしょうか。

私はしょせん「愛」とは報いをまったく期待しない行為だと思います。これこれをしたらこれこれのことが返ってくるだろうという期待で行動することは、もちろん人間の行動の中に大変たくさんありますが、愛というものだけはそうではないのです。せずにおれない、その人へのわたしの思いの深さがそうさせてしまう、それが愛のひそやかで真実の姿ではありますまいか。

ほんとうの失恋

 話は少し違いますが、失恋した人にときどき打明話を聞くことがあります。涙ながらにその人は愛した人のおもかげを語ります。でもときどき私は、その人は果してほんとうにその恋しい人を愛していたのかしらと不思議に思うことがあります。もちろん報いられない愛というものの悲しさは存在します。その人と肩を並べて歩いたかっての道を通り、同じ木立ちが風にそよいでいるのを見ただけでも涙は溢れてきます。去った人に、ほんの少しでも関係のあるものに触れれば、それだけで胸はズッキリと痛む思いです。それはたしかですけれども、私がおかしいと思うのは、中に自分の愛にこたえてくれなかった人をののしる人がいるということです。これほどわたしは彼を愛し、これこれのことをしたのに、披は一顧だにしないと言って相手への怨み腹立ちをくどくどと言う人です。

 私はそれは功利の立場であると考えます。ほんとうの愛がかりに悲しい結末に達した時、ほんとうの愛は涙に濡れながらひっそり別れることができるのです。まことに愛しているのなら当然のことでしょう。愛する人がそう思わないことを、どうしてそう感じろ、そう思えと強いることができるのでしょう。むしろ悲しい形ではあっても、愛することに対する機縁を与えてくれたその人に感謝してもいいのではないでしょうか。

そんなきれいごとで、たとえば男女の愛が語れるものかと人は言うかもしれない。しかし、さまざまの人間関係の間に成立することも可能な愛の実際の物語りを聞く時、そして時にはまざまざとこの目に見る時、私はやはり愛とは期待しないことをその本質とすると思えてなりません。献身や犠牲という行為は、それが強いられた時には残酷な、そして人権無視的な強制になりますが、それがみずからの求める行為となる時は、すぐれて人の心をうつ、もっとも尊い人間の姿となります。それはやはり対象への愛の深さが、期待しないどころか、極端な場合は、自分を消し去ってさえ愛を全うするのです。

まして自分の心が相手に通じたり同じように思ってもらえないからといって、相手を怨むというのは、結局その人が、自己中心の愛まがいの行動をとっていたにすぎなかったということではないでしょうか。どうしても愛に報いを求めたいなら、ヒョッとするとまず直ちにやってくる愛のしるしは悲しみであることが多いものであるということです。ほんとうの愛することの喜びは、その後におとずれるかもしれないものでしょう。

 親の子に対する愛も、しょせんはそのようなものでありましょう。そう考える時、どうして、孝行せよ、この頃のこどもは、昔と違って孝行することをばかにする、というようなことが言えるでしょう。なるほど昔は、今だとまったく親をばかにするようなこどもも、社会的な行動の型として、親を形だけは大切にする態度をとったでしょう。その意味ではたしかに昔の方が親にとって生きやすい世の中だったと言えるでしょうし、さきほどの婦人会のおばさんたちの発言にしても、そのへんに論点を感じとっていると思います。しかし、ここでとりわけはたらく婦人が母として、親として子供と相対する時、強いられた関係としての孝行を期待するのではなく、自然に湧き出てくる結びつきを作り出してゆきたいものだと思います。

 私は十五・六才の頃、中勘助の「銀の匙」を読んで非常に感動したことを覚えています。今もこの作家は大好きな人のうちの一人ですが、その中の一節はある意味で実に深刻な話でした。「銀の匙」というのは、作者の幼児時代を通した成長の追懐記で、すぐれた抒情に溢れた作品です。夏目漱石も非常に注目したということですが、その話というのはこういうことです。

勘助は小学校の先生である粗暴な男の先生がとても嫌いでした。その先生は親に孝行をしなければならないとひどく乱暴に強制するのでしたが、ついに作者は、たまりかねてなぜ孝行をしなければならないのですかと反論します。その先生にとっては親に孝行しなければならないというのは大前提ですから、先生はあきれかえりカッと怒って、親の恩は云々と説き出すのですが、作者には何んの説得力もないのです。まだこどもではありましたが、作者のように、この世のなべての存在の根底の深い悲しみにすでに触れることを知り、すぐれた感受性に苦しむほどの生き方をすでにしていて、もはや生れているということが苦痛でさえあるようなこどもには、孝行強制論などはいっこうに有効でないのです。

中勘助ほどの感じ方で生きるこどもはたしかにほとんどいないでしょうし、昔だったら、そんな子供は不良とか、きちがいとか言われて、仲間はずれになるのが関の山でしょう。しかし私はこの話がとても印象深いのです。それは親と子の結ばれというものは、時とすると、このように既に生れてきたことへの疑惑まで持合わせ、鋭い命についての感覚に苦しみさえしているようなこどもまで含めて、非常に深いところでとけあうことがもっとも望ましいということです。

いわば生きている感覚で、命の共同体というような世界を作り出してもらいたいと思うのです。形式的な孝行論ではなく、基本的人権が深々と認められている現在の憲法の精神に基づいて、おたがい生きているという事実を大切にできるような、命の認識というようなものを、親子の問に相互に成立させることができたらどんなによいでしょうか。
(寿岳章子著「働く婦人の人間関係」汐文社 p44-51)

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追想
生まれ育った京都と憲法愛した随筆家 寿岳章子さん 7月13日死去 81歳

平和憲法への思い、護憲運動に尽力

 随筆家、国語学者にとどまらず平和・反戦から景観保護、女性問題と社会への関心は広かった。中でも平和憲法への思いはひとしおで、護憲運動に尽くした。

 ダンテの「神曲」の完訳で知られる英文学者、文章氏と評論家しづさんの長女に生まれた。リベラルな寿岳家の雰囲気を知る評論家鶴見俊輔さん(八三)は「軍国主義一色だった時代に反戦を貫いた、本当に立派な家庭だった。章子さんは今こそ必要な人なのに残念でならない」と惜しむ。

 戦争に塗りつぶされた青春時代。日本国憲法が制定された時の気持ちを著書に「もう戦争しないんだという思いは、何とあたたかく幸福感にみちていたことだろう」と記した。その喜びがその後の護憲運動の原動力になった。

 京都府立大で三十六年間、言語生活史を研究する一方、多くの草の根運動に携わり、京都府知事選などでは革新系候補支持団体の代表も務めた。

 「改憲論が盛んになり皆が危機感を持つずっと前から憲法は大事だと説いていた。女性のために暮らしと憲法を結び付けた視点もユニークだった」と元京都府立大学長の広原盛明さん(六七)。講演では原稿を準備せず、会場の雰囲気でテーマを決めた。「まさに当意即妙。場をつかむ話術、表現力は抜群だった」

 伝統が息づき、四季折々の味わいがある京都を愛し「京に暮らすよろこび」などの著書も残した。街並みを破壊する近年の建設ラッシュを「京都が京都でなくなる」と憂え、高層ホテルなどでの会合は欠席し続けた。
 両親と同様に葬儀は希望しなかった。読経も喪主のあいさつもない最後の別れ。知人の一人は「簡素だが胸にぐっときた。最後まで彼女らしかった」。独身を通し約五十人の友人たちに送られ両親の元へ旅立った。
(京都新聞 20050901 夕刊)

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◎「形式的な孝行論ではなく、基本的人権が深々と認められている現在の憲法の精神に基づいて、おたがい生きているという事実を大切にできるような、命の認識というようなものを、親子の問に相互に成立させることができたらどんなによいでしょうか」と。