学習通信050903
◎失敗の法則性を……

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「安全」と「安心」への関心の高まり

 安全はここ数年の間に、社会の合言葉になったようです。私が一九九八年の暮れに『安全学』と題する書物を刊行したときには、そんな学問があるはずがない、世のなかに受け入れられるとは思えない、という批判やお叱りの声が聞こえてきたほどでした。ところがどうでしょうか。最近は中央政府の施策の柱にさえなってきました。

 例えば、一九九五年に「科学技術基本法」ができて、それに基づいて中央政府は、科学・技術の振興を国策の一つと位置づけ、それを実行する責任を負うことになりました。そこで、実行のためのプーランを立てて、国の内外に示すために、内閣は「科学技術基本計画」を策定することになりました。この計画は、ここ一〇年の将来を見通しながら、実際には直近の五年間について、内閣として何をするのかを定めたもので、一九九六年から始まりましたから、現在は第二期の基本計画が実施されているさなか、ということになります。それを最終的に審議・決定するのは、いわゆる行政改革で内開府に誕生した総合科学技術会議です。

 さて、現在進行中の第二期の基本計画のなかには、科学・技術に関連してのことですが、日本の国家・社会をどのように造り上げていくのか、という目標が掲げられています。目標は三つです。

 第一は、知的に存在感のある国、という目標ですが、この表現の背後には、ノーベル賞受賞者を飛躍的に増やそう、というような、いささか品性を欠くもくろみも見え隠れしているようです。もっとも、このスローガンそのものは、それなりに結構なことだと思いますが。第二は、国際競争力を維持・発展させることで、まあ相変わらずな、という思いは誰しも抱くかもしれませんが、資源小国の日本としては、産業技術の競争で後れをとるわけにはいかない、ということなのでしょう。そして、第三に「安全で安心できる国」というスローガンがきます。中央政府の施策として「安全・安心」が、当然のように謳われているわけですね。裏を返せば、現代の日本社会は、「安全・安心」が保証されていない、ということになるのですが。

 また小泉純一郎首相も、ことあるごとに、かつてのような安全で安心できる社会を取り戻したい、という趣旨の発言をしています。石原慎太郎東京都知事も類似の発言を繰り返しています。もっとも都知事の場合、主として念頭にあるのは首都圏の「治安」であるように見えますが。無論それも大切なことには違いありません。いずれにしても、行政の長にある人々の関心事の一つが、「安全・安心」であることは、自明のようになりました。

自然の災害

 もちろん私たち人類は、昔から多くの危険に晒されて生きてきましたし、同時に死んでもきました。飢え、寒さ、地震、火山の噴火、嵐、洪水、猛獣、そして病気、これらはしばしば人間を死に追いやります。「天寿」という言葉があります。「天寿を全うする」ことが、どういうことなのか、はっきりさせることは難しそうですけれど、こうした災害が「天寿を全うする」前に、人間の死を呼び寄せてきたことだけははっきりしています。

 同時に人間はこれらの自然災害に対して、自らに与えられた知力を唯一の武器としながら、身を守る手立てを講じてきました。ある程度の規模までなら、そうした自然の災害で死を迎えないようにすることに成功もしてきました。

 もとより、私たちは台風を消滅させることどころか、その進路を変えさせることさえできません。噴火や地震が起こるのを防ぐこともできませんし、冷夏の日照時間を増やすような手段も持ちません。それにもかかわらず、こうした災害についての知識を増やすことによって、災害の質を低下させ、あるいはその量を減らすことには、かなりの成功を収めてきたと言えるでしょう。ここまで「知力」とか「知識」と言ってきたことは、今日では「科学・技術」と言い換えてもよいと思います。

 もっともここで一つ気を付けておかなければならないことがあります。例えば阪神・淡路大震災(一九九五年一月一七日発生)で六千人を超える方々が亡くなりました。「天寿」を迎える前に、人生と生命を中断された方々の無念を思いやると、いまだに胸が痛みます。これだけの被害を生んだ直接の原因は、言うまでもなく大規模地震です。しかし、犠牲者の多さは、それだけでは説明しきれません。もちろん後知恵で言えば、活断層の走る地形を十分に理解して、宅地の造成や住宅の建設に配慮すべきであった、という反省もありましょう。そうした反省は貴重です。

 しかし、もう少し低次元の問題として、人間の住み方が犠牲を大きくした、という点も見逃せないのです。究極的にはこれも住宅の建築の問題であるのですが、一部の地域では、建築基準法から見てきわめて危険であると思われるような建物に、住民が密集して住んでいた、という状況が、犠牲を増やした原因の一つでもあります。極端な話、無人の地域であの規模の地震が起きたとしても、自然環境は変わったかもしれませんが、死者は出なかったはずです。

 つまりここで私が言いたいのは、自然災害と言われるものが惹き起こす犠牲のなかには、人間自身の側にも原因を求めなければならない場面があるということなのです。つまり「自然災害」と言うとき、それは必然的に、自然と人間との接点、自然のなかでの人間の生き方が自然との間に生み出すインターフェースのところでの話なのだ、という、ある意味では当たり前のことですが、そのことをはっきりさせておきたかったのです。
(村上陽一郎著「安全と安心の科学」集英社新書 p12-15)

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なぜ致命的な失敗が続くのか

 最近大きな事故のニュースに接する機会が多くなっています。
 一九九九年秋に間題になったJR西日本のトンネルのコンクリート剥落事故、九月に起きた東海村でのジェー・シー・オー(JCO)の臨界事故などに続いて、二〇〇〇年に入ってからも三月に地下鉄日比谷線の脱線事故が起きたりと、思わず目を覆いたくなる事故が相次いで起こりました。

 さらに、大きな社会問題になった六月の雪印の食中毒事件や増える一方の医療ミス(これは従来隠されていたものがようやく出てきただけではないかとも思いますが)などが新聞紙上をにぎわしたりと、従来だったら考えられないような失敗が、ここにきて一気に噴き出している印象を受けます。

 これらの事故に対し、
 「日本の技術基盤が崩れかかっている」
 という論調もありますが、これはあまりにも一方的な見方です。この本の中でも繰り返し解説していきますが、いずれのケースも日常的な失敗とのつき合い方そのものに間題があり、いわば失敗とうまくつき合うことができなかったことが原因の事故だと、私自身は考えています。

 人の心は意外に弱いものです。強い負のイメージがつきまとう失敗を前にすると、誰しもつい「恥ずかしいから直視できない」「できれば人に知られたくない」などと考えがちです。失敗に対するこうした見方は、残念ながらいまでは日本中のありとあらゆる場面で見受けられます。

 実際、負のイメージでしか語られない失敗は、情報として伝達されるときにどうしても小さく扱われがちで、「効率や利益」と「失敗しないための対策」を秤にかけると、前者が重くなるのはよくあることです。人は「聞きたくないもの」は「聞こえにくい」し、「見たくないもの」は「見えなくなる」ものです。

 しかし、失敗を隠すことによって起きるのは、次の失敗、さらに大きな失敗という、より大きなマイナスの結果でしかありません。失敗から目を背けるあまり、結果として、「まさか」という致命的な事故がくり返し起こっているのだとすれば、失敗に対するこの見方そのものを変えていく必要があります。

 すなわち、最近のような事故を防ぐ上でも、やはり失敗とのつき合い方そのものを変えていくことが大きなポイントになります。忌み嫌うだけのいままでの方法には限界があることは、最近になって相次いで起こっている事故を見れば明らかです。そこから一歩進んで、失敗と上手につき合っていくことが、いまの時代では必要とされているのです。

失敗のプラス面に目を向けよう

 失敗はたしかにマイナスの結果をもたらすものですが、その反面、失敗をうまく生かせば、将来への大きなプラスへ転じさせる可能性を秘めています。事実、人類には、失敗から新技術や新たなアイデアを生み出し、社会を大きく発展させてきた歴史があります。

 これは個人の行動にも、そのままあてはまります。どうしても起こしてしまう失敗に、どのような姿勢で臨むかによって、その人が得るものも異なり、成長の度合いも大きく変わってきます。つまり、失敗とのつき合い方いかんで、その人は大きく飛躍するチャンスをつかむことができるのです。

 人は行動しなければ何も起こりません。世の中には失敗を怖れるあまり、何ひとつアクションを起こさない慎重な人もいます。それでは失敗を避けることはできますが、その代わりに、その人は何もできないし、何も得ることができません。

 これとは正反対に、失敗することをまったく考えず、ひたすら突き進む生き方を好む人もいます。一見すると強い意志と勇気の持ち主のように見えますが、危険を認識できない無知が背景にあるとすれば、まわりの人々にとっては、ただ迷惑なだけの生き方でしょう。

 おそらくこの人は、同じ失敗を何度も何度も繰り返すでしょう。現実に、失敗に直面しても真の失敗原因の究明を行おうとせず、まわりをごまかすための言い訳に終始する人も少なくありませんが、それではその人は、いつまでたっても成長しないでしょう。

 また人が活動する上で失敗は避けられないとはいえ、それが致命的なものになってしまっては、せっかく失敗から得たものを生かすこともできません。その意味では、予想される失敗に関する知識を得て、それを念頭に置きながら行動することで、不必要な失敗を避けるということも重要です。

 大切なのは、失敗の法則性を理解し、失敗の要因を知り、失敗が本当に致命的なものになる前に、未然に防止する術を覚えることです。これをマスターすることが、小さな失敗経験を新たな成長へ導く力にすることになります。

 さらに新しいことにチャレンジするとき、人は好むと好まざるとにかかわらず再び失敗を経験するでしょう。そこでもまた、致命的にならないうちに失敗原因を探り、対策を考え、新たな知識を得て対処すれば、必ずや次の段階へと導かれます。そして、単純に見えるこの繰り返しこそが、じつは大きな成長、発展への原動力なのです。

 人の営みが続くかぎり、これから先も失敗は続くし、事故も起こるでしょう。とすれば、これを単に忌み嫌って避けているのは意味がなく、むしろ失敗と上手につき合う方法を見つけていくべきなのです。
(畑村洋太郎著「失敗学のすすめ」講談社文庫 p16-20)

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死者数なぜ拡大?
車ない貧困層取り残される

 死者数千人の大災害になったのはなぜか。米ルイジアナ州ニューオーリンズ市では強制退避命令の発令がハリケーン襲来の直前だったことに加え、乗用車を持たない貧困層が取り残されたことが、被害を大きくしたとみられる。防災工事の遅れも堤防決壊の原因になった可能性がある。

 八月二十八日。ネーギン同市長が全市民に強制退避を命じた数時間後、同市は猛烈な風雨に襲われた。九b級の高波で堤防が決壊する恐れがあるとの予想が的中、市内の八〇%が水没した。

 同市の人口は約五十万人で「そのうち三分の二が黒人、四分の一以上は貧困層」(ニューヨーク・タイムズ紙)。貧困層の比率(三人家族の場合で年間所得約一万五干j未満)は全米平均の一二・七%(二〇〇四年)に比べて高い水準にある。

 市長は三十七日には避難準備勧告を出していた。しかし、自家用車を持たない貧困層の市民にとって「車にガソリンを入れておくこと」といった勧告自体が無意味。堤防決壊後まで現地に残った日本の総領事館職員の情報によると「市当局は少なくとも三十一日まで退避を呼びかけていた」とされるが、最終的には十万人程度の市民が取り残される結果となった。

 堤防の補強など治水対策の遅れも被害拡大につながったもようだ。ロイター通信によると、工事を担当する米陸軍工兵部隊は決壊したポンチャトレイン湖の工事費として○一年から○五年までに九千九百万jを要求。しかし、予算化されたのは二千二百万jにとどまった。
(日経新聞 20050804)

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環境破壊の根本原因

 まず環境破壊や原子力発電の危険性の問題についていえば、一面でこれらは科学技術の発達が原因の一部をなしており、科学者や技術者の社会的責任という問題もからんでいると考えられます。しかしそれがすべてかという点は問う必要があります。環境破壊のもっとも根本的原因は何かが問われる必要があります。

 それは大資本・大企業に根本的責任があるということではないか。いいかえるともうけ第一主義の資本主義のしくみの全体から出てくる間題ではないか、ここが問われる必要があります。水俣病は大企業水俣チッソの産業廃棄物(有機水銀)の海中投棄が原因でした。イタイイタイ病も、鉱山を経営する企業が廃棄物の処理をせず、有毒物質が川に流れ出して起こったものでした。四日市ゼンソクも石油コンビナートが原油のなかの硫黄分などの処理に配慮せずに大気を汚染して起こったものでした。

 資本主義の大企業が廃棄物の処理をきちっとして、環境汚染や破壊をおこさぬようすべきであるのに、そしてその処理のための技術もあるのに、処理施設をつくれば費用がかかりもうけが減るので、廃棄物を海の中や何の中へ投棄し続けてきました。石油コンビナートの場合も、煙突から出る硫黄酸化物などを除去せずそのまま空中に排出し続けて、その結果、数多くの人びとの健康を破壊してきたのでした。

六〇年代から七〇年代にかけての公害反対運動の大きな盛り上がりにおされて、これらの大企業はやっと廃棄物の処理を合理的にすすめるようになりました。資本主義的大企業の責任はまことに大きいものがあります。
(鰺坂真著「哲学入門」学習の友社 p98-99)

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◎「資本主義的大企業の責任」……
「貧困層が取り残された」……「アスベスト」
資本主義では解決できない。