学習通信050912
◎裾のみだれを気にばかり……

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墓碑銘

人生讃歌としての

 ここに「墓碑銘」というのは、じっさいの墓石にきざまれた文句のことをいうのではない。また、死者をいたみ、あるいは記念するために記された文字一般のことをいうのでもない。
 「墓碑銘」といえば、古典ギリシャの詩人シモニデスの絶唱が思いだされる。それは、テルモビュライの瞼にペルシャ軍の来襲を迎えうって、国王レオュダス以下全員戦死したでスパルタの戦士にささげられたものだ。

行く人よ
ラケダイモンなる国人に行き伝えてよ
この里に
おんみらが言のまにまに
われら、死にき、と。
     (呉茂一訳)

 しかし、私がいま考えているのは、それでもない。私がいま考えているのは、むしろ「人間讃歌」「人生讃歌」とでも名づけられるような、そういう一連の詩のことだ。

 「墓碑銘」と題される、そういう詩の類型が近代ヨーロッパにはある。わが国の近代詩にそれがないのを、私はつれづれ残念に思っている。

 いまからでもおそくはない、いやいまこそそうした詩の出現が大量に必要だ、とも思う。それは、批判的精神の純粋な結晶ともいうべきものだと思うから。そして、この批判的精神をぬきにしては、自由と民主主義が社会に根づくことは不可能と思うから。

ゲーテの人生讃歌

 たとえば私は「墓碑銘」と題するゲーテのエピグラム(短形詩)のようなのを考えている。関口存男氏の奔放な訳を多少修正してかかげれば──

子どもの時は意地っぱりで、
青年時代は生意気で、
壮年時代はやってやってやりまくり、
老いてはヒョウキンなヘンテコ爺さん、
死んだら墓石に刻まれるだろう──
これこそほんとの人間であった、と!

 しばらくのあいだ私は、これを書き技いて座右にはっていた。元気をなくしたとき、それを見ると、元気がわいてくるのだった。

 もっともこの訳は、関口流の人間理解に支えられていて、必ずしも原詩の唯一忠実な訳ではない。関ロ氏にも、たしか別訳の試みがあったように思う。私も私なりの人間理解をこめた私なりの訳を、ゲーテから多少はみだしてもかまわないからつくってみたいと思いながら、まだはたせないでいるのだが。

バーンズの歌える

 だが、私がなによりも好きなのは、スコットランドの詩人ロバート・バーンズのものだ。

 たとえば「ボグヘッドの地主ジェームズ・グリーブの墓碑銘」と題されたもの──

ここに寝てるはボグヘッド。
救いを得んとあてこんで。
だがもし奴が天に行くなら、
きたれやきたれ! 地獄の刑罰。
 (中村為治訳。以下主として同氏訳による)

 あるいはまた「ある名高き有力なる長老の墓碑銘」と題されたもの──

靴屋のフード、ここに死んで横たわる。
地獄にもし奴が行ったなら、
悪魔よ、奴に金を預けろ。
一文たりともなくしはしない。

さらにまた「ある学校教師の墓碑銘」と題されたもの──

ここにウィリイ・ミヒーの骨、横たわる。
悪魔よ、奴を手に入れたら、
お前の子どもの教育させろ。
りこうな悪魔にしたてるだろう!

 なんという痛烈な批判だろう。もちろん、こんなふうに毒づいたものばかりではない。毒づくことだけが批判なのではない。たとえば「ウィリアム・ ニコルの墓碑銘」というのがある──

蛆よ、ニコルの脳ミソくらえ。
 こんな馳走はまたとない。
爪をニコルの心臓にたてろ。
 ちょっぴり腐ったとこもない。

 バーンズは、マルクスの愛する詩人の一人でもあった。マルクスは「ダンカン・グレイがくどきにきたよ」等の作品とならんで、これらの墓碑銘をも愛唱したのではないかと思う。そして、「ダンカン・グレイ」における人生讃歌と、これらの「墓碑銘」をつらぬくものとは一体のものだ、と私は思う。

小熊秀雄の場合

 わが国の詩人のなかでは、小熊秀雄なんか「墓碑銘」を書くのにもっともふさわしい資質のもち主だったと思う。彼は「墓碑銘」は書かなかったが、そのかわり「文壇諷刺詩篇」を書いた。小熊の詩のなかで、私がもっとも愛誦するところのものの一つだ。
 たとえば「正宗白鳥へ」と題する一篇がある。

右といえば
左という
山といえば
川という
行こうといえば
帰るという
御老体はアマノジャク
人生をこう
ヒネクレるまでには
相当修業をつんだことでしょう、
歳月が
あなたの心を
冷え性にしてしまったのか
痛ましいことです
あなたの正気からは
真実がきけそうもない
ちょいと
旦那
酔わして聞きたい
ことがあるわよ。

 私は想像するのだが、この詩を知ったら白鳥は、たえて笑ったことのなさそうなそのロのまわりに、思わず微笑をうかべたのではなかろうか。この批判には愛情がうらうちされているのだ。

 もう一つ、当時プロレタリア文学運動における僚友であった中野重治にあてたものを、紹介しておきたい。まるで晩年の中野の姿を予見したかのようにさえひびく作品だが──

なんと近頃の呼吸づかいの荒いことよ、
狼の荒さでなく
瀕死者の荒さをもって
不安定な悪態を吐く
………………
どのように見かけの論争が激しくても
君のもっている思想は
一つの焦点もつくらない
こわれたプリズムを
太陽の光線が避けるように
君の感情と思想が
四分五裂の屈折ある文章をかかせる
君が敵とたたかうことは賛成だが
熊手でゴミをかきよせるように
いたずらに我われの陣営へ
きたないものを近づけて混乱させる
君はどのような戦術家であるのか

 ついでながら、別の詩篇で小熊は、中野のことを「裾のみだれを気にばかり」する「狭心症」「釣銭のくるような利口ぶり」がいのちとりになりかねない、と評し、また別の詩篇では「君の思想はセンイ(繊維)だけででヽきているのではあるまいか、脂肪や肉をどこへ落としてきた」まさか「刑務所の便器のなかへおとしてきたのではあるまい」と皮肉りながら、「詩人でありたいなら 古い感傷から 新しい情緒にかわりたまえ」と忠告していた。

 中野は、戦後、すでに亡い小熊の詩集に序文を書いてこれを出版することさえしたが、小熊の忠告にしたがうことはついにしなかったらしい。そして、そのことによって、小熊のあの詩篇は、中野にたいする生前からの墓碑銘となってしまった。

バーンズよおこれ

 私たちのまわりには、たくさんの「ボグヘッドの地主」グリーブや、「名高き有力なる長老」フードや、「学校教師」ミヒーがいるだろう。彼らにしてやられるわけにはいかない私たち自身のために、生きながらの墓碑銘を彼らにかんして書こうではないか。

 ダンテが当時まだ生きていた人の魂を、肉体の死に先立って地獄のなかに投じ、『神曲』地獄篇で歌いあげた例もあることだ。
 そして、おたがい自身のためには「ウィリアム・ニコルヘの讃歌」をしるそう──おたがい自身の「脳ミソ」や「心臓」が、ニコルのそれにひとしくあることへの自信にみちた讃歌を。
(高田求著「新人生論ノート PART U」新日本出版社 p152-160)

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隠れ家に届いた党員への推挙

 科学的社会主義の普及に大きな影響を与えた『第二貧乏物語』は、一九三〇年に刊行されました。この書の全編をつらぬく社会的正義観と科学的社会主義の真理性の主張は読者の魂をゆさぶり、先の『貧乏物語』とおなじく、明治以降発行された書物のなかでもっともたくさんの部数が発行され、もっとも多く読まれた本となりました。いわば、日本の共産党宣言≠ニもいえるもので、この本はいま読んでもじつにすぐれたものです。

 私も学生時代、この『第二貧乏物語』を読んで、ものすごく感銘を受け、科学的社会主義がほんとうにすばらしいと思ったものです。それほど当時の学生、青年に大きな影響を与えました。

 そういう河上肇の仕事が評価されるのと比例して、かれの身辺には日一日と危険が迫ります。いつ特高警察の手がのびるかもしれませんでした。一九三二(昭和七)年、かれは地下へもぐります。潜行中の河上のもとへ、日本共産党の党員に推薦されたことがつたえられます。

 当時は、共産党は非合法で、権力はたえずスパイを送りこんで、これを内部から崩壊させようとしていました。だから党員には、よりすぐった、鍛えられた、絶対に裏切らないという節操のかたい人しか入れなかったのです。

 党員に推挙された知らせをきき、河上は隠れ家のなかでひとり感慨にふけりながら、喜びの涙を落としたといいます。そのとき感激してつくったのが、次の歌です。

「たどりつき ふりかえりみれば 山河を 越えては越えて きつるものかな」

 京都の東山のふもと、「哲学の道」の近くに、法然院という名刹があり、そこの墓地に谷崎潤一郎など、わが国のすぐれた文化人の墓が並んでいます。その墓地の入口に近いところに河上肇の墓があって、大きな石の碑が建っていますが、その碑のなかにこの歌が万葉仮名で彫られています。

「多度利津伎 布理加弊里美礼者 山川遠 古依天波越而 来都流毛野哉」

 地下活動中の河上に共産党から与えられた仕事は、外国文献の翻訳、宣伝文など原稿の執筆でした。当局の目をかすめ、シンパの家の、日の当たらない部屋にかくまわれながらの活動でした。窓から顔を出して人に見られると危険なので、一日中、部屋にこもりきりの日が続きました。
(林直道著「嵐の中の青春」学習の友社 p95-97)

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◎「おたがい自身の「脳ミソ」や「心臓」が、ニコルのそれにひとしくあることへの自信にみちた讃歌を」と。