学習通信050913
◎魅力ある幹部になろう……B

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要求のまとめかた

 労働組合は労働者の自主的な組織であり、共通の要求を実現するために団結している組織です。だから、組合員の要求を重視し、これを実現するために努力し、たたかうことを通じて、労働組合の団結はつよまります。したがって、組合員の共通の要求をまとめあげる能力をもつことは、組合幹部・活動家にとって、初歩的ではあるが基礎的な条件だということができます。

 大切なことは、要求という場合、それは組合員の不満・欲求・感情がみたされたものでなければなりませんし、圧倒的多数の組合員に共通する普遍性がなければならないということです。組合員はそれぞれ、たくさんの不満・欲求・感情をもっています。しかし、個々の不満・欲求・感情をそのまま、組合の要求とすることが適切でない場合が多くあります。それは、一つには、要求は組合員の団結の基礎になるものですから、圧倒的多数の組合員の共通性がなければなりませんし、二つには、組合員の不満・欲求・感情の表面と本質のちがう場合があるからです。

 かつて、こういうことがありました。東京のある金属工場の女子独身寮から、「毎朝、お茶を飲んで出勤できるようにしたい」という欲求が、組合にもちこまれました。組合執行部は、直ちに会社と交渉し、寮の食堂にお茶を十分そなえつけることをかちとり、交渉の結果を独身寮へ報告に行きました。執行部の報告をきいていた若い婦人労働者は、その報告が終るや否や、「あんたたちって、馬鹿ね」といったそうです。組合幹部たちは、なんのことかさっぱりわからなかった。組合事務所へかえって討論してみたが、若い仲問たちが何をいおうとしているのか、原因をつきとめることができなかったということです。

 問題の本質は、どこにあったのでしょうか。朝食のあとでお茶を飲んで工場に出勤すると、どうしてもトイレにいきたくなります。ところが、その工場の午前中の休憩時間は、わずか十時に五分間一回だけ。しかも、トイレの数はニヵ所しかおりません。百数十人いる工場で、すべての婦人労働省は限られた時間で生理的ギリギリの要求さえみたすことができません。こういう条件のもとですから、仲間たちは昼食休憩時間までトイレに行かなくてすむように、朝食のあとでお茶を飲まないで出勤していたのです。

 食事のあとでお茶ぐらい飲みたいという日本人の慣習をみたすためには、休憩時間をもっと長くしろ! トイレの数を増やせ! という要求が、婦人労働者の「お茶を欲んで出勤するようにしたい」という欲求の本質であったわけです。

 したがって、組合幹部・活動家が組合員の不満・欲求・感情を基礎に要求をまとめあげるためには、次の三つのことをいつも考慮にいれることが大切です。すなわち、@職場の圧倒的多数の労働者の不満・欲求・感情が、その要求のなかにみたされていること、Aまとめあげた要求はだれにもわかりやすいものであり、しかもその要求のなかに、組合員個々の不満・欲求・感情の本質がおりこまれているものであること、Bその要求は実現の見とおしのあるものであり、仲間がこれならいけるし、とらねばならない、という闘争意欲がわいてくるものであること、の三つです。

 組合幹部・活動家が、労働者の不満・欲求・感情から、このように要求の本質を正しくつかむためには、幹部・活動家は組合員大衆からうき上がっていないことが、前提となる条件です。浮き上がっていたのでは、幹部・活動家は組合員のホンモノのねがいと叫びをつかむことはできません。

 幹部・活動家が組合員大衆から信頼されていなければ、組合運動はなりたちません。幹部・活動家が信頼されるためには、みずからが仲問とともに考え、かたりあい、信頼することからはじめることです。上から仲間を見おろすような態度、わからないから教えてやるという態度、会社や当局の首脳部と対等に口がきけるといっても、それは組織の代表であるからということを忘れて、自分がとても偉いのだと思わせるような態度などを、仲問たちは一番きらいます。

 どんなにおくれた仲間にたいしても、あんたたちに頼るほかに、あんたたちの団結と自覚が進むほかに、要求のかちとれる労働組合をつくることができないのだという態度を、幹部・活動家はいっかんしてもつことです。
(細井宗一著「労働組合幹部論」学習の友社 p38-41)

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子どもとの対話の必要性の自覚

 家庭・学校での暴力行為の頻発に象徴されるように、一九八〇年代に入って、日本の子ども(青年を含む)のいらだち≠ニ荒れ≠ヘ、一段と深刻な様相を呈している。それと同時に、子どもを力と規則で取り締ろうとする「管理主義」的風潮も強まっている。

 このような状況のなかで、私たちが注目しなければならないのは、「いまこそ子どもと対話しなければ」という声が、国民のあいだに広がりつつあることである。

 一九八〇年十二月二日の「朝日新聞」の社説は、川崎市の二浪青年の両親殺しの事件にふれて、「受験競争の原理によってゆがめられてしまった現在の教育のありようが、ことの根底にある」と指摘しながら、「だが、それを認めても、なお親が子に対して持つ責任がなくなるわけではない」として、つぎのように論じている。

「親となったからには、子を一人前の人間に仕上げなければならない。……子を一人前にするとは、自立できる人間にしてやること以外にない。……子どもに対する責任として、親がしてやらなければならないのは、子がそれぞれの年齢に応じて抱えている問題を理解し、その身になって一緒に考えてやることではないか」。

ここには、子どもとの対話が日本の親のもっとも基本的で緊急な課題であるということが言われている。これは、今日の日本の多くの親たちの共通の思いであるといえよう。

 子どもたちと対話しなければならないということは、子どもたちの人間的成長のために日々努力している教師たちからも、言われている。

 先日、私は、非行問題への真剣なとりくみで知られる東京の足立区のある中学校の教師の話を聞いた。この教師は、校内暴力にはしった生徒たちとのつぎのようなやりとりについて、報告した。

(教師)「なぜ、こんなことをするのだ?」。(生徒)「俺たちだってやりたくてやってんじゃねえや」「いつも、わかったか∞わかったか≠ニいうばかりで、俺たちのことをわかってくんねえじゃんか」。……(教師)「じゃ、わかってほしいことって何だ?」。(生徒)「うーん、うまく言えねえな」。

 そして、この教師は、こうした生徒に接するなかで、「わからせよう≠ニするまえにわかってやろう≠ニすること、生徒の心を開き本音を語らせることの大切さをつくづく感じている」と語った。

 この教師は、生徒たちが抱えながら自分でもわかりかねている問題を、まず教師がわかろうとし、それにたいして生徒が心を開き本音を語り、そのことを通して生徒自身が自分の問題をわかっていくような、生徒との対話を、いまなによりも必要なことと考えていた。

 また、私は、一九八〇年末、岐阜県の東濃地区の教師たちのある研究会に参加する機会を得た。そこでは、「教育正常化」の名の下での管理体制の強化と、子どもたちの荒れ≠フなかで、教師が当面の対策に追われ浮き足立ってしまう傾向があることが問題にされていた。そして、こういう時こそ、じっくり腰をすえて一人ひとりの子どもと対話しなければならないということが、こもごも語られていた。この会の機関誌は、こうした論議をまとめて、つぎのように書いている。

 「……実践の質の向上という場合、今間題にしなければならないことは、子どもに深く入りこむ=A子どもの人間的本質にふれる≠ニいうことです。子どもたちは知りたい≠ニいう願いと、わからん≠ニいう悲しさを胸いっぱい秘めて待っています。そこをひき出すためには、子どもの目を見ての対話(教師の、手前の説を押しつけるのではない)≠ェ重要になっています」(『みんきょりけん』no.50 一九八〇年十二月二十日)。

 このように子どもとの対話の必要性の自覚が広がりつつあることは、重要な動きである。子どもとの対話の広がりと深まりのなかでこそ、国民のあいだに子どもたちの抱える問題についての理解と彼らの人間的発達への期待、「受験体制」と「能力主義」的教育政策の非人間性・非教育性への怒りと批判、日本の教育の人間的再建への意欲が、広がり高まっていくと考えられる。

 そして、そうした対話を通じて、今日の子どもが発達の各々の時期にもつ問題と課題についての直観と洞察が国民のなかに蓄えられていくことこそが、私たちの子ども研究・発達研究の前進のための根本的条件であろう。
(田中孝彦著「子育ての思想」新日本新書 p63-66)

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◎「幹部・活動家が組合員大衆から信頼されていなければ、組合運動はなりたちません。幹部・活動家が信頼されるためには、みずからが仲問とともに考え、かたりあい、信頼することからはじめること」と。