学習通信050919
◎たっぷり四時間……

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全国の教師たちが悲鳴をあげる

 これらは、決して特別な地域の学校の、特別な話ではありません。
 九九年一月に行われた二つの教職員組合(「日本教職員組合(日教組)」「全日本教職員組合(全教)」)の全国教育研究集会では、小学校の教師たちが全国各地から次々と、悲鳴にも近いリポートを発表しています。どういう状況なのか、いくつかリポート集より抜粋しましょう。

・小二担任(東北地方、四○代、女性)──学級の児童数がわずかに二八人にもかかわらず「集中して話を聞こうとする瞬間がない。立ち歩き、独り言、ざわつきの中を一人空回りしているようなむなしさ」。「毎日けんかがあり、誰かが泣いている。ストレスを発散させているように思われる。心の荒れを感じる」。

 その「引き金」の役割を果たしているA男については次のようにメモをしています。

 授業に参加できない。立ち歩く。友だちの頭をたたいて歩く。机の上を歩く。粘土で遊ぶ。お絵かきをする。廊下を歩き回る。金魚の世話をするなど、関係のないことをする。本を読む。教室のすみにうずくまる。奇声を出す。教室にあるものをこわしたり、いたずらをする。
出てはいけないことになっているベランダに出る。ベランダからおしっこ。校庭でおしっこ。外の木道のあたりでおしっこ。
気に入らないことがあると、やつあたりをする。友達のロッカーのものを出してばらまく。
友達の机を倒して蹴る。パンチ、キックを徹底的にやる。「うるせえ、ばばあ」など気にさわることを大声で言う。ツバを口にためて、床や机の上に吐き出す。

 問題は、この子どもにあるのではなくて、他の子どもたちも同様に行動して、授業崩壊に追い込まれることです。この子の存在そのものが問題なのではありません。

・小六担任(関西地方、四〇代、男性)──学校へ行く足が重く、話しかけても「なんやねん」と切り返す子どもを前にして、教室で言葉が出ない。二学期後半から授業中に奇声を発する。教室を飛び出す。そのうちクラス全体が落ち着かなくなる。一二月になると、手の空いている教師がこれらの子どもをつかまえるために廊下で持機するようになる。体調をくずし、神経料を受診する。

・小学三・四年担任(北海道、三〇代、男性)──三、四年合わせて一六名の複式学級。転任した教師が初めて教室に赳くと、「左半分の三年生は、机の上に土足で立っているもの、後ろ向きに座っているもの、机の上に寝そべっているもの、友だちと話をやめないもの」という具合。授業が始まっても、「。人ひとり注意しても落ち着かない。授業にならない。筆箱の中も勉強できるような道具がそろっている子どもは―人だけ」。

 これでは、担任の三人に一人もが「やめたい」と答えるのもうなずけるのではないでしょうか(日教組調査、一八〇〇人対象、一九九九年四月)。大分県教育委員会の調査では、「授業中の立ち歩き、大声、ごみやものを投げたりする」など、いわゆる学級崩壊の兆候が四二%の学級で起きていることがわかりました。民間のいくつかの調査からもわかるように、全国の七〜八%の学級で学級崩壊現象が発生していては、「いつ自分の学級で起きるとも限らない」とおびえる教師が約半数に上るのも当然かもしれません。

 このように学級崩壊現象は、九七年以来一気に全国の小学校に広がりを見せ、現在もなお教師たちを疲弊させているのです。
(尾木直樹著「子どもの危機をどう見るか」岩波新書 p7-9)

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私ってLDだったの?

「エジソン、アインシュタイン、そして黒柳徹子はLDだった」
 そういうことが印刷されている雑誌の切抜きが十数年前、ニューヨークから送られてきた。それは日本の学者のかたが発表なさった論文のようなものが雑誌か何かにのり、それをニューヨークにいる母の友人の日本人のお医者様が送ってくださったものだった。「なんていったって、こういう人たちと比べられているので嬉しくなってお送りしました」。その印刷物にはそういう手紙が添えられてあった。私はすごくびっくりした。「一体私がなんでこういう大天才と一緒に書かれてあるんだろう」。当然だけど共通点は何も考えられなかった。でも、何はともあれ熹ばしく光栄なことのように思え、私は嬉しかった。その時まだ私は、LDというものが何か知らなかった。

 そのあと私の友人の子どもがLDだとかで、「もしも、LDについて詳しく知りたかったら連絡してね」と言われた。その人はLDの子どもを持つ親の会、というようなのに入っているからとも言っていた。私はチラリとエジソンの例の記事を思い出したけど、忙しさに取り紛れて、詳しく知ろうとは思わなかった。そのうち「徹子の部屋」にLDの子どもを持つ女優さんが出演するということになり、とうとう私はLDが何かを知ることになった。

 LDとはLearning Disabilitiesの略。日本語では「学習障害」と訳されているけど、あまりピッタリしていないので普通は、そのまま「LD」と呼ばれているのだという。そして本屋さんに行くと、いろいろなLDについての本が並んでいるのにも驚いた。そしてもっと驚いたのは、その女優さんと打合わせに行って帰ってきた「徹子の部屋」の女性のディレクターから、

 「お母さんたちの間では、黒柳さんはLDだってことになってるようですよ」
 と聞かされたことだった。(LDってことになってる?)

 そうこうしているうちにNHKの教育テレビから連絡があった。「いま日本の子どもの中にADHDという障害を持っている子どもがいて、黒柳さんの『窓ぎわのトットちゃん』を読ませていただくと、どうも黒柳さんは小学校を退学になったことを含め、そういう風なところが、子どものときあったように思えると、いろいろな方々の声があります。そこで、どういう教育を受けたら、今の黒柳さんのようになれるのか『窓ぎわのトットちゃん』の本にも書いてあるけれど、小学校の校長先生のことなどを、話してほしいのです」

 私は出演することになった。ADHDは日本語では「注意欠陥・多動性障害」と呼ばれていて、LDと重なっている子も多いのです、ということだった。「一体なんだろう! 私の知らないところで何か私は障害を持っていたのかしら」。そしてだんだんとLDについて少しずつわかりかけてきたこのごろだったが、決定的なのは今年になってNHKが放送した「変わった子と言わないで」という四夜連続のテレビだった。それはLDの子どもについての番組だった。私はビデオにとって、しっかりと見た。見終わったとき私は泣いていた。泣きたくて泣いたのではなく、自然と涙が止まらなくて、要するに私は泣いていたのだった。

 私が『窓ぎわのトットちゃん』という本を書いたのは、私が大好きだった小学校の小林校長先生のことを忘れないうちに書いておこうと思ったからだった。頼まれた原稿ではなかった。ある晩、一度ベッドに入ってから突然、飛び起きて、とにかく書いておこうと机に向かって、四百字詰め原稿用紙三枚書いたのが、トットちゃんの一。ページ目の「はじめての駅」だった。私は校長先生に「大きくなったら、この学校の先生になってあげる」と約束していた。それなのに、とうとうその約束も実現しないうちに先生も亡くなってしまい、私は違う道を選んでしまった。私はその約束のためにも、こういう、本当に子どもを愛し、どんな子どもにも、才能や、すぐれた個性があるのだと心から信じて、情熱を持って子どもに接していた校長先生がいたのだ、と書いておきたかった。そんな訳で、普通の小学校に入った私が、どういう訳で、すぐ退学になり、母が必死で探してくれた、この校長先生のいるトモエ学園に入ったかをキチンと書いた。

 私はこの退学になった理由を、子どもらしい好奇心の旺盛な元気な子どもだったから、という率直な気持ちですべて本当のことを書いた。ところが、この「変わった子と言わないで」という番組を見ていて気がついたのは、私の『窓ぎわのトットちゃん』をLDの子を多く診ていらっしゃる専門家や研究者から見れば、何もかもがLDに当てはまるということだった。こんなこと私は思ってもいなかった。私が退学になった大きい理由は、小学校に入ったとき、私は机のところに座らないで、教室の窓のところにずっと立って外を向いていたからだったけれど、LDの例としてテレビに出た男の子も、いつも席に座っていなかった。おもしろそうなものがあると、すぐに立って、そっちに走って行ってしまう。

 私も全く同じで、窓のところに立っていたのは、チンドン屋さんを待っていたからだった。私はチンドン屋さんが大好きだった。もしも通ったら呼び止めて、クラスのみんなにも「来たわよ」と教えてあげようと思っていた。私の教室の窓は、私にとっては幸せなことに、学校にとっては不幸なことに、道路にすぐ面していた。チンドン屋さんは学校の側を通るときは、音をひそめて静かに通る。でも、私はチンドン屋さんを見つけると、みんなに「来たわよ」と言ってから、みんなが窓のところにきて、一斉に「チンドン屋さーん」と叫ぶと、チンドン屋さんに「じゃあ一曲お願いします」と頼む。チンドン屋さんも、せっかくの子どもの頼みだから三味線やクラリネット、鉦(かね)や太鼓で、あの独特な賑やかな演奏を盛大にしてくれる。その間、若い女の先生はといえば、教壇のところにずっと立って待っているのだから、機嫌が悪くなるのも当然だ。そしてチンドン屋さんの演奏が終わると、他の子どもは机に戻るけど、私は窓のところにそのまま立っている。先生が「どうしてそこにいるのですか」と聞くと、私は「今のチンドン屋さんが戻ってくるかも知れないし、また違うチンドン屋さんが来るかもしれないからです」と言って、そのまま外を見ていたという。

 こういう退学の理由は、私が覚えていたのではなく、母が先生から聞かされて、私が大人になってから母から聞いてわかったことだけれど、そのいくつかは私も覚えている。LDの子がいると授業が成り立たないとテレビでも言っていた。その通りだった。

 実は私は窓のところに行く前におもしろいことを見つけていた。それは教室の机だった。家の机は引っ張り出すように引き出しがついているのに、学校の机はフタのようになっていて上が開く。これは当時、東京の私の家の近くの町の、ごみ箱と同じだった。学校の机のフタが、ごみ箱と同じだということを発見した私は、嬉しくて授業中に百ぺんくらい、開けたり閉めたりした。

 先生が「黒柳さん。机のフタは開けたり閉めたりするものではなく、中に物をしまうためにあるのです」と言った。私は大急ぎで机の上のノートも教科書も筆箱も全部机の中にしまってしまった。そして、先生が「『ア』と書きます」と言うと、まず机のフタを開けてノートを出して閉めて、次に開けて頭を突っ込んで筆箱から鉛筆を一本出して閉める。そして『ア』と書いて、間違えると、机のフタを開けて消しゴムを出して閉める。消しゴムで消すと、すぐ机のフタを開けて消しゴムをしまって閉める。で、一字書き終わると、また開けて鉛筆をしまって閉めて、開けてノートも全部しまって閉める。そして今度『ロ』と書くとすると、また開けてノートを出して、鉛筆を出して、という具合だったので、めまぐるしく机のフタを開けたり閉めたりすることができた。先生も「物をしまうものです」と言った手前、「いけません」とも言えなくて、私が前より百ぺん以上も開けたり閉めたりするのを黙って見ていた。

 先生には本当に気の毒だった。でも私は興味があったからこんな方法を考えてやったのだった。反抗するつもりなどは毛頭なかった。でもこのことを思い出すと、たぶん教室には私と同じように開けてみたいけど、きっといけないんだろうと、やりたくてもやらなかった子がいただろうし、初めから別に興味がなくて、やらなかった子もいたに違いない。そして私みたいにおもしろそうと思った瞬間にやっちやう子どももいた。だったら、これは私の考えだけど、お休み時間に先生が、「じやあ授業中にはやらないで、今やりたいだけ、みんなで開けたり閉めたりしてみましょう」と言って、みんなでやったりしたら、きっと、もう私は満足して授業中にはやらなかったと思う。「いけません」と言うから、子どもは隠れてもやろうとするので、もしこんな風に先生が楽しくやらせてくれたらと思うけど、これは私の勝手な考えかもしれない。でも私が先生だったら絶対にそうする。だって私も、三日もそれをやったらもう飽きて、次に、窓のところへ行ったのだった。窓のところに行けば、先生の話も聞けるし、外も見られるという自分なりの考えだった。

 チンドン屋さんの事件のあと、なんと私は、窓の上の方にツバメが巣を作っているのを見つけた。私は大きな声で、
「何してるの」
と聞いた。先生は、
「誰と話しているんです」
 と言って、いそいで窓のところに来て上を見た。私がツバメに聞いているんだとわかったら、先生はひどく憤慨した顔になり、私をじっと見て教壇に戻った。あとで先生は母に、「私も子どもの気持ちは、わからないわけじやないですけど、何も授業中に大きい声でツバメに『何してるの』って聞くことはないと思うんです」
 とおっしやったという。テレビの中の、別のLDの男の子は私のようにハトと話をしていて、いきなり、壁を伝わって上の方に登っていこうとして先生につかまっていた。

──略──

 そんなこんなで結局「他の生徒さんへ迷惑がかかるから、よその学校へお連れください」と母が先生に呼ばれて、結局一年生になって数ヶ月で私は退学させられることになったのだった。私は退学をさせて下さった先生に心から感謝している。もし退学させられなくて理解もしてもらえず、そのままでいたら、きっと私はコンプレックスの強い、自分でも、どうしたらいいかわからない、混乱したままの大人になったに違いないから。退学になったから、次に入った学校で、心の底から楽しい小学校生活が送れ、自由で伸び伸びと勉強をすることができたのだった。

 テレビを見ていてLDについてわかったことを少し書いておくと、昔からLDの子は、いたに違いないのに、家のしつけが悪いとか、その子の努力が足りないとか、自分勝手だとか言われて理解されていなかった。つまり「変わった」子と言われてきた。そして難しいのは、同じLDといわれても、それぞれの子で全く違うことだ。そして知的な問題はないのに、どこか誰でもできることができなかったり、落ち着きがなかったり、集団行動ができなかったり。外見では全くわからないし、また小さいときではわかりにくい。学校に入って漢字を書いたり数字を勉強したりするようになって、なんとなく苦手なものが出てきて、それも、ぜんぜん出来ない訳じやないけど、例えば「森」という字を書こうとすると、自分では書いているつもりでも位置関係がどうしても取れなくて、木を三つ並べて書いてしまう。これは、視空間認知が悪い、というのだそうだけど、その子にとっては、気の毒なことだ。一生懸命、書いてるのに。

──略──

 LDは知的に問題はない。個性が強い子が多く、得意な分野の勉強なら出来る子もいる。好きなことは、とても土手だ。知的発達の遅れのあるなしという物指では測れない難しいところがある。まだ、はっきりはしないけど、テレビによると、脳の機能と学習とに関係があるらしいということだった。まだ、この研究は、はじまったばかりで、わからないことも多い。そんな風だからイジメにもあったりする。だからLDということが早くわかれば、周りのみんなが理解し自信を持たせることにより、LDそのもののすべては改善されなくても、基本的な能力があるから、まわりの援助で成長していくことができる。苦手なものがあっても、好きな得意なものを見つけて、目的を持って頑張っていくこともできる。だいたい、四対一の割合で、男の子のほうが多いという数字が本にあった。

 私がテレビを見て涙したのは、テレビに映っているLDといわれている子どもたちが、小さかったころの私のように見えたことだった。どんなに落ち着きがなく走り回って先生に注意されても、職員室が大好きで、どんどん中に入って行って、先生の机のところで一人で勉強している子どもも、いた。私もそうだった。テレビで紹介された学校では、もう、そうなったら一対一で、そこで教えるのだと言っていた。そうすると子どもも落ち着いてきて、集中して勉強するという。

 私が涙を流したもう一つの理由は、結局、小林校長先生は、LDなんてことを知らなかったのに、LDだったかもしれない私に完璧に適した教育をしてくださったことがハッキリしたからだった。まず、私のクラスは九人だった。席は決まっていなくて好きなところに座ってよかった。そして、朝学校に行くと、一日にやる時間割の全部の科目の間題が黒板に書いてあって、好きなのからやってよかった。だから、結果的には自習であり、わからなくなると先生のところに行って聞くので、だいたい先生と一対一で勉強することになった。先生にとっても、一人一人の生徒が、どんなことに興味を持っているのかとか、どんなことが苦手かとか、子どもの性格についても細かく知ることができたに違いない。ポリオとか、障害を持っている子が何人もいたけれど、校長先生はいつも「手を貸してあげなさい」とか「助けてあげなさい」とはおっしやらなくて「一緒だよ、みんな一緒にやるんだよ」としか言わなかった。

 だから私たちは何でも一緒にやったから、当然いじめなんか、なかった。そして校長先生は、後でわかったことだけど、どの子にも自信をつけるような言葉をかけていた。私には一日に何度も「君は本当はいい子なんだよ」と言い続けてくださった。私はいい子なんだと思っていたけど、大人になって思い出したら、「本当は」というのがついていたことに気がついた。でも、先生のこの言葉は私の一生を決定してくれたくらい、私にはありがたい言葉だった。私はこの言葉で、勝手にいい子だと思い、先生を信頼し自信を持って大人になれた。

 こういう、いつも校長先生に守られている、と安心のできる学校。おもしろいことを、私たちより先に校長先生が考えついて楽しませてくれた学校。どんなに走り回っても、「もっとやっていいよ」と言ってくれた学校。自分たちの登る自分用の木があった学校。話下手な子もなんとか少しずつ話ができるようになったお弁当のあとのお話タイムのあった学校。講堂の床が大きな黒板で私たちはどんな大きな絵でも白墨で床に寝そべってかいて良かった学校。その子の持っている個性をできるだけ早く見つけて周りの大人や環境で、その芽が摘まれないように大切に育てようという校長先生の教育は、そのままLDを持った子どもにも当てはまるのではないかと、テレビを見ていて私は大きな衝撃を受けた。

 『窓ぎわのトットちゃん』の本が、今LDの子どもを持つお母さんたちに読まれています、とか、私に小学校のときの話をしてください、という方々は、既にそのことを発見していたのだろうということがわかった。アメリカでは、今だいたいークラス三十五人にー人は、LDの子がいると言われている。

──略──

 LD関係のいろんな本を読んでいたら、ハリウッドの大スターーのトム・クルーズは、はっきり自分で、LDだった、と告白している。「それでも、自分に合った仕事を探したら、やっていけるのだ」とLDの子ども達をはげましている。

 そして、本を読めば読むほど、私は自分でも、自分がLDであったらしい、と思え、沢山の本に、昔LDで、いま活躍している人、という中に私が入っていることも、今回、発見した。
 それにしても、次の文章で、きっと勇気づけられる人も多いと思う。『多動な子どもたちQ&A』という本の最初に、「たとえば、野球監督のー人に、子どものころから多動だったにちがいないと思わせる人がいます。監督は陽気で正直、多くの人から愛されています」。
 もう、どなたかは、おわかりですね。ミラクルは起るのですね。みんなで、LDの子を理解して才能をのばすお手伝いを、しましょう。年齢と共に成長するのですから、個性を生かして、活躍できるように。

 トモエ学園に初めて行った日、校長先生は私に、「なんでも、好きなことを話してごらん、全部」と、おっしゃって、私は、六歳の子どもの話せる、それまでの全人生を話した。
 あとで母に聞いたら、たっぷり四時間。そのかわり、トモエに入った次の日から、私は、全く窓の所に立たなくなって、一番前の席に座るようになった。そして、いま私は、「徹子の部屋」で、ちゃんと座ってゲストの話を聞いている。
 長くなったけど、これが、私のLDについて書きたかったこと。
(黒柳徹子著「小さいとき考えてきたこと」新潮文庫 p111-128)


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次代をになう子どもたちに愛情を

 いろんな事情や条件から、子どもがほしいと熱望しながら、子どもに恵まれない人たちがおられることと思います。またあの一五年戦争で、最愛のわが子を失なわれた方も年輩の人には多いことでしょう。まだ若いころや夢中になって仕事にうちこんでいるときは、それほどさびしさのような感情をもたないかもしれませんが、ときとして子どもがいてくれたらなあと思われることがあると思います。

 こういう人たちにとって、育児やしつけの問題は無縁なものでしょうか? 私たちはけっしてそうではないと考えるのです。たしかに具体的に自分の子どもをどう育てるとか、いかにしつけるとかの問題は直接、関係がないでしょう。しかし人間の子どもは、あくまで時代の子であり、社会の子です。どんな子どもを、どう育てるのか、それはおとな全体の仕事であり、責任ではないでしょうか。そのような観点がら、もうー度育児やしつけの問題を見なおし、積極的に発言もし、活動もしていただきたいものです。かえって子持ちの親より、客観的に広い視野から問題をとらえ、考えられるということがあるはずです。

 レーニン夫人のクルプスカヤも、子どもにめぐまれませんでした。しかし彼女は、晩年にその短い自伝のなかで「私はいつも、子どもがないのを残念に思っていました。いまは、もう思いません。いまは、たくさん子どもをもっています──コムソモール員と若いピオネールです」と書き、「私のかわいい親愛な子どもたちに、これを捧げます」(青木文庫『家庭教育論」)と結んでいます。たしかにクルプスカヤのように、自分のすべてをうちこめる大きな仕事をもっていた人にしていえることばかもしれませんが、しかしなおこのなかには、新しい世の中をつくりあげていく次の世代、未来の世代にたいする無限の愛情をよみとることができます。そしてこれこそ、子どもたちにたいする本当の愛情ではないでしょうか。

 レーニンが無類の子ども好きであり、きびしさをきわめた国内戦争あるいは経済建設のさなかでも、どんなに子どもたちのことを配慮したか、それはあまりにも有名な話です。「ウラジーミル・イリーチは、子どもたちの仕事、子どもたちのいうこと、やることに真剣な態度をとっていました。……おとなのあいだにしばしばみられるような子どもへの冷淡さは、イリーチにはまったくみられませんでした。だからこそ、子どもたちはかれをたいへん愛していたのです」(前掲書、二三四ページ)。
 子どもたちは、ニセモノとホンモノを見ぬく鋭い目をもっているのです。
(近藤・好永・橋本・天野「子どものしつけ百話」新日本新書 p44-45)
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◎「人間の子どもは、あくまで時代の子であり、社会の子……どんな子どもを、どう育てるのか、それはおとな全体の仕事であり、責任ではないでしょうか」と。