学習通信050920
◎進歩と貧困との結合……

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 アメリカの労働運動は、このように三つのいくぶんとも明確な形態をとって現われているが、そのうちの第一の形態、すなわちニューョークのヘンリ・ジョージの運動は、現在のところ、主として地方的な意義をもった形態である。疑いもなくニューヨークは、合衆国で最も重要な都市である。しかし、ニューョークはパリではないし、また合衆国はフランスではない。

そして私には、現在のかたちのへンリ・ジョージの綱領は、あまりにも挾すぎるので、地方的な運動以外のどんな運動の基礎になることもできず、せいぜい一般的な運動の一時的な局面の基礎にしかならないようにみえる。ヘンリ・ジョージにとっては、住民の大多数が土地を収奪されたことが、富者と貧民とに人民が分裂していることの大きな、そして普遍的な原因である。

ところで、これは歴史的にまったく正しいというわけにはいかない。アジア的古代および古典古代においては、階級抑圧の支配的形態は奴隷制、すなわち大衆から土地を収奪することよりも、むしろ彼らのからだを領有することであった。

ローマ共和国の衰退期に、自由なイタリア島民が彼らの農場を収奪されたとき、彼らは、一八六一年〔の南北戦争勃発〕以前のアメリカの南部奴隷諸州の「白色貧民」と同じような「白色貧民」の階級を形成した。

そして、同じように自分を解放する能力のない二つの階級、つまり奴隷と白色貧民とのあいだで、古代世界は崩壊してしまった。

 中世においては、封建的な抑圧の源泉となったのは、人民から土地を収奪することではなくて、反対に、人民を土地に付属させる〔their appropriation to the land〕ことであった。

農民は自分の土地をもっていたが、農奴または隷農として土地に緊縛されたし、また年貢を労働または生産物のかたちで領主におさめる義務を負わされた。

大規模な島民の収奪が、自分の労働力以外にはなに一つもたず、もっぱらその労働力を他人に売ることによってしか生きることのできない近代の賃金労働者階級のための基礎をつくったのは、ようやく近世の夜明け、すなわち一五世紀の終りごろのことであった。

土地の収奪はこの階級を生みだしはしたけれども、この階級を永久化し、増大させ、独自の利害と独自な歴史的使命とをもった独自な階級につくりあげたのは、資本主義的生産の、すなわち近代的工業と農業の大規模な発展であった。このことはすべて、マルクス(『資本論』第八篇、「いわゆる本源的蓄積」)によって十分に説明されている。

マルクスによれば、現在の階級対立と労働者階級の社会的地位の低落の原因は、彼らがあらゆる生産手段を収奪されていることにあるのであって、この生産手段のなかには、もちろん土地もふくめられている。

 ヘンリ・ジョージが、土地の独占こそ貧困と悲惨のただ一つの原因である、と宣言している以上、彼がその救済手段を、社会全体による土地の取りもどしに求めるのは当然のことである。ところで、マルクス学派の社会主義者もまた、社会による土地の取りもどしを、また土地だけではなしに、その他いっさいの生産手段の取りもどしを要求している。だが、これらの土地以外の生産手段のことは問わないにしても、もう一つの相違がある。

その土地をどうしようというのか? マルクスに代表される近代的社会主義者たちは、土地が共同に所有され、また共同の計算で共同に利用されることを要求し、またその他いっさいの社会的生産手段、つまり鉱山、鉄道、工場などについても、これと同じことを要求する。ヘンリ・ジョージは、土地を今日と同じように個人に貸し付け、ただその分配を調整し、その地代を、現在のように私的な目的にあてないで、公共の目的にあてるだけにとどめたいのである。

社会主義者たちが要求するところは、社会的生産の全制度を完全に革命化することをふくんでいる。

ヘンリ・ジョージが要求するところは、現在の社会的生産様式には手をふれず、そのままにしておくものである。この点では、事実上、リカード派ブルジョア経済学者の急進派のほうが先口であって、彼らもまた国家による地代の没収を要求した。

 ヘンリ・ジョージが、自分の決定的な意見をこれかぎり言いきった、と考えるのは、もちろん不当であろう。しかし私は、現在あるがままの彼の理論を考察するよりほかに、しようがないのである。
(エンゲルス著「アメリカの労働運動」M・E八巻選集G 大月書店 p93-94)

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独占資本主義と十九世紀後期の改革思想

独占に転化した自由競争

 十九世紀末からアメリカ史は新しい段階に入った。金ぴか時代とは違って、資本主義の野放図な在り方に対する批判が高まり、改革の時代となるのである。弱肉強食の競争はたちまちのうちに多くの企業を破滅させ、早くも一八七〇年代の不況は独占形成へ向かう転換点となった。競争による共倒れを防ぐために、各種業界にプールが形成された。

 プールとは同様な製品を生産する企業間の協定であり、その協定によって各企業が生産量と販売価格を統制し、協力して市場を統制しようとする試みである。しかしこの試みは失敗に終わる。プールは単なる紳士協定だったから、相手企業を出し抜こうと思えば、いつでもできた。結局のところ正直者が馬鹿をみることになった。

 一八七〇年代末から九〇年代にかけて、トラストという形態がとられた。トラストとは同一産業の企業が株の支配権を受託者理事会に譲り渡し、この理事会は加盟企業のすべての操業を監督するという制度である。これはプールと異なり、企業の合同なのである。ロックフエラーのスタンダード石油が始めたこの方式は、またたくまに多数の分野に広がった。

 ところが受託者方式による企業結合は、一八九〇年に成立したシャーマン反トラスト法の規制対象になったので、それ以後は持株会社という形をとることになった。しかし企業合同という実質には変わりはなく、アメリカ人は持株会社もトラストと呼んだ。

 一八九〇年代の厳しい不況の中で多くの企業が倒産し、その後に集中合併の波が押し寄せ、一八九八〜一九〇四年の時期に、統合の数は絶頂に達した。

そびえたつ二大金融帝国

 こうした企業合同の中から「金融資本」が出現した。産業資本と銀行資本が癒着結合したもので、企業合同のほとんどに投資銀行が関係していた。ウオール街には一群の投資銀行家たちが金融市場を形成していたが、彼らは鉄道金融によって巨利を博し、それをもとに鉄道建設資財の供給部門である鉄鋼業などにも進出した。そして企業合同を発起して巨額の発起者利益を獲得し、さらに新設企業の株式の取引によって利益を得た。モーガン財閥の発展の基礎も、鉄道への投資にあった。ロツクフエラーも石油から上がる利潤を用いて金融資本に転化した。典型的産業資本家であり続けたカーネギーが全事業をモーガンに売却したことは、金融資本優位の時代の到来を象徴するものだった。

 経済の頂点には、モーガン・グループとロックフェラー・グループによって組織された二大金融帝国がそびえた。モーガンの権力の基盤は投資銀行分野で培われたものであり、モーガン商会は、ナショナル・バンク・オブ・コマースを始めとする多くの銀行、またユー・エス・スティール、ゼネラル・エレクトリック、国際収穫機会社などの企業、グレート・ノーザン、ノーザン・パシフィックなど多くの鉄道を支配していた。ロックフェラー・グループは、石油業の膨大な余剰利潤を他の産業分野に流し込むことで形成された。投資銀行分野でのターン・ローブ商会と結び、ナショナル・シティ銀行やユニオン・パシフィック鉄道、サザン・パシフィック鉄道などを支配していた。そしてこの二大グループは株式所有、重役派遣を通じて多大の支配を経済に及ぼしていた。

 アルセーヌ・プジョーを委員長とする連邦議会下院のマネー・トラスト調査委員会が一九一三年に出した報告書によれば、両グループは、銀行、保険、運輸、生産、貿易、公益事業の重要な百十二社に、三百四十一名の重役の地位を保持していた。銀行はその預金を支配していたし、巨大生産会社はその下に多くの経済活動を支配していたから、二大資本結合が支配した金額は、南部十三州のすべての財産の評価額の三倍以上、ミシシッピ以西の二十二州の全財産の評価額以上に及ぶものであった。

 この驚くべき事実を明らかにするために、プジョー委員会は多くの調査を行い、多くの人々を議会に喚問した。モーガン財閥の主、ジョン・ピアポント・モーガンも長時間にわたり辛辣な質問に耐えねばならなかった。モーガンは一九一三年三月に七十五歳で死亡した。世人は彼の死を早めたのがプジョー委員会の調査であると信じた。それが事実だったか否かにかかわらず、財界の巨頭に対する攻撃がこのころ頂点に達していることを、この委員会の活動は示していた。そして攻撃は一八九〇年代から激化し始めていたのである。

 すでに一八八八年クリーヴランド大統領が、議会宛て教書の中で、次のように述べていた。「資本集積の結果を調べてみると、われわれはそこにトラストや結合や独占の存在を発見する。市民たちは遠くの方で力なくこれと闘っているか、さもなければ鉄の踵の下で踏み殺されているのだ。法律によって注意深く馴らされた生き物であり、人民の召使いであるべき株式会社は、今や急速に人民の主人になろうとしている」。資本主義のあり方に対する批判が広い社会層によって共有されていたことを、この文章は示しているのだ。

自由放任経済への批判

 一八七九年に出たヘンリー・ジョージの『進歩と貧困』は、アメリカ出版史上の十大ベストセラーの一つに数えられている。「進歩と貧困との結合がわれわれの時代の大きな謎である」とジョージは書いた。そして彼は新開地サンフランシスコで投機業者による土地買占めをみて、この謎を解けたと思った。人口の増加に伴い、土地の価格が上昇する。投機業者が土地を買占めて、地価上昇による利益を独占する。したがって平等を回復するには、これによって生じる不労所得、すなわち土地私有制度の結果たる地代をすべて祖税として国家が徴収し、他の租税をすべて廃止する。これにより富が均分化し、増えた歳入を貧民救済に当てればよいというのである。

 この「単税論」の主張は、今日からみれば、馬鹿げて見えるだろう。しかしジョージの書物は時代に衝撃を与えた。あくどい利潤追求と貧富の格差の増大に対する道徳的憤激が、安易な進歩への期待に冷水を浴びせかけ、世人の胸を打つたからだった。この書物はアメリカ社会の批判的検討に道を開き、驚くべき数の男女を新しい思索へと旅立たせたのである。一八八六年、彼はニューヨーク統一労働党からニューヨーク市長選挙戦にかつぎ出され、惜敗したが、セオダー・ローズヴェルト以上の得票を得たのである。

 次いで一八八八年、エドワード・ベラミーの小説『顧みれば、二〇〇〇年──一八八七年』が出版され、数年間で百万部以上売れた。ジョージが私有財産を認めたのに対して、ベラミーは社会主義社会を夢みた。小説の主人公ウェストはボストンの富裕な青年で、一八八七年眠りにおち、二〇〇〇年に目覚める。彼が見たボストンは、貧困、どん欲、犯罪がいっさい存在しない社会主義的ユートピアである。政府がすべての生産手段を所有し、社会には完全な調和が支配し、市民は豊かな物質的・精神的生活を享受している。競争ではなく協同が社会の基本になっているからである。そして一八八八年から一九〇〇年の時期は、「ユートピア小説の黄金時代」となった。約百六十のユートピア小説が出版された。新しい時代を待望する気運が高まったからである。

 また当時の批判的な学者たちは、人間社会も進化し発展していくと考える点で進化論を受け継ぎながら、人間は他の動物と異なり、環境を変えていく能力をもっているのだと主張した。リチャード・イリーを始めとする経済学者たちは、イギリス古典学派を批判する視角をドイツの歴史学派から学び、一八八五年アメリカ経済学会を結成し、国家の積極的介入と倫理的経済のあり方を探求した。
(野村達朗著「新書 アメリカ合衆国A フロンティアと摩天楼」講談社新書 p136-141)

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◎「ヘンリ・ジョージが要求するところは、現在の社会的生産様式には手をふれず、そのままにしておく」「マルクス学派の社会主義者もまた、社会による土地の取りもどしを、また土地だけではなしに、その他いっさいの生産手段の取りもどしを要求している」と。