学習通信050921
◎無数の「寄合い」というかたち……

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噴出する労働者の抗議

さながら市街戦──ー八七七年の鉄道大ストライキ

 次に労働者の動きに目を向けてみよう。ヘイズ大統領の就任と南部からの連邦軍撤退によって南部再建が決着した直後、産業資本は荒々しく台頭する新しい対抗勢力に直面した。

一八七三年に始まる不況の真っ只中のことだった。一八七七年七月十六日、ウエストヴアージュア州マーティンスバーグで家畜列車の乗務員がストライキに突入すると、翌日州軍が出動した。列車の発進を防ごうとしてピストルを放った労働者を射殺すると、州軍はこれ以上の衝突を避けようとして退去した。そこで知事は連邦軍の派遣を大統領に要請した。ストライキ鎮圧のために連邦軍が出動するのは、一八三四年のジヤクソン大統領の時から数えて四十三年ぶりだった。南部奴隷主権力に対抗するために成立していた、資本と労働の共同戦線は、南部再建の終了とともに亀裂が生じたのである。

 ストはたちまちのうちに全米に広がり、州軍と連邦軍が出動した。七月二十日、ボルティモアでは数千の群衆が軍隊を包囲し、十一人の市民が死に、四十人が負傷した。ピッツバーグでは二十一日、フィラデルフィアから送られた州兵六百名が群衆六千人に射撃を加え、五分間に二十人を殺した。市民全体が烈火のごとく憤激して蜂起した。近くの町々からも、群衆は武装集団をなし太鼓を打ち鳴らしてやって来た。大群衆に直面して市当局の権威は崩壊した。市長は警官を送ろうともせず、群衆をなだめようともしなかった。大群衆は機関車庫に立てこもる州軍を攻撃した。ピストル、鉄砲で発砲し、石油やコークスを満載した車両に火をつけて、機関車庫に押しやり、焼き討ちにかかった。街路を敗走する州軍は銃火を浴びた。市の警官さえも州軍を射ったという。翌朝何千という群衆は駅構内と車両への放火を続けた。百四台の機関車、二千台以上の車両が破壊され、七十四の建物が焼けおちた。ピッツバーグはゼネスト状態に陥った。

 二十四日、セントルイスもゼネストで麻痺した。あまりに多くの群衆が集まったので三つの演壇を設けたという勤労者党の大集会で、一人の演説者は「たとえ血を流すことになろうとも、労働者は自分たちの権利を主張する。労働者には、いかなる時も、武器を取る用意ができている」と叫んだ。

 シカゴでは怒った群衆が街路を行進し、二十五日の夕方には軍隊と群衆が衝突した。撃ち合いは翌日まで続き、十八人が死んだ。結局ストライキは二週間続き、十一州にわたり、国内の鉄道の三分の二が影響を受けた。八万人の鉄道労働者、それに他の職業の労働者五十万人が参加し、百人以上が殺された。アメリカは本格的な労資対決の時代に入ったのである。

「シカゴに歌声高し」──ー八八六年の大高揚

 南北戦争直後に労働運動はすでに全国的な組織化を始めていた。一八六六年、鋳鉄工組合のウィリアム・シルヴィスの努力により、アメリカ最初の全国的労働組合の連合体、ナショナル・レイバー・ユニオンが結成された。この組織は八時間労働運動を推進するとともに、人種差別の克服、婦人労働者の擁護などを含めて、労働者階級全体の連帯を強調した。しかし政治問題をめぐる対立もあって、比較的短命に終わってしまった。

 七〇年代には深刻な不況のために全国的組合運動は展開しにくかったが、一八六九年に結成された労働騎士団が次第に拡大し、八六年にはメンバー数七十万を越える大組織になった。また八一年には後のアメリカ労働総同盟(AFL)の前身、合衆国・カナダ労働組合連合が成立していた。労働者は八時間労働を統一的要求項目とし、八六年五月一日をそのための全国的な示威運動の日として設定した。運動は盛り上がり、この日、三十五万人の労働者がストライキを決行し、デモ行進を行った。

 その直後、シカゴのマコーミック農機具工場でのストライキで二人の労働者が警官に殺害され、抗議集会が五月四日ヘイマーケット広場で催された。解散直前に警官隊に何者かが爆弾を投げ、衝突がおこり、警官側七名、労働者側四人の死者を含めて、多数の死傷者がでた。爆弾を投げた犯人は判明しなかったが、八名のアナキストが裁判にかけられ、高まるヒステリー状況の中で、四名が絞首刑になった。この痛ましい事件の記憶をも含めて、一八八九年、第二インターナショナルはアメリカ労働者の八時間労働運動を記念して、五月一日を国際的な労働者連帯の日として定めた。これがメーデーの起源である。

 こうして金ぴか時代のアメリカは、労資の対立が激しかった時代である。この時代のアメリカについては、産業家が万能で、労働者は無力、アメリカ人一般は労働運動に敵対していたというようなイメージが抱かれがちだが、そのような見方は間違っている。女性史の場合と同様に、労働者の歴史も近年研究の進展が著しい。ここでは主として代表的な二人の学者、ハーバート・ガットマンとデイヴィッド・モントゴメリーの研究に基づきながら、紹介してみよう。

抗議を支えた伝統的価値観──キリスト教と共和主義

 労働者を文化的存在として捉えようとするガットマンによれば、金ぴか時代の労働者が当時の資本主義の現実を批判する時、彼らはそれを時代を越えた超越的価値に照らして批判しようとした。社会の現実は子供の時から教えこまれた価値観にそぐわないものだったのである。

 ガットマンは、当時の労働者が絶えず宗数的言葉を語っていたこと、産業主義の現実をキリスト教の原理に反するものとして批判し、自分たちの運動をキリスト教原理に基づいて正当化していたことを指摘している。

 労働者の主張によれば、「神の言葉はほとんど忘れ去られ、強大なドルの力が世界を支配して」いた。「現在の労働制度は邪悪なもの、地獄に生まれた制度」であり、利己主義は「偽りの福音」である。他方「働く者は闇の中から光の中へと立ち現れ、組織しようとしている。労働者が岩の上に立ち、『主よ、御許に近づかん』と歌う日は遠くない」。労働運動家たちは「真にキリストに従う者として、神の王国を地上に築くために闘っている」のだった。そしてすべての者の平等を死を賭して説いた「扇動者」キリストが、労働者の苦難の闘いを鼓舞していると彼らは見た。こうして労働者は、階級的内容をもつキリスト教を作りだしていたというのである。

 またこの時代の労働者が書いたものには、強烈な共和主義的アピールが鳴り響いていた。たとえば『ナショナル・レイバー・トリビューン』紙は次のように書いた。

「アメリカにおいてわれわれは、少なくとも形の上では共和主義政体の理想を実現した。アメリカは、ヨーロッパの政治的失政という闇夜の中で明るく輝くベツレヘムの星だった。旧世界の大衆は、合衆国を彼らの避難所として眺めた。アメリカにおいて、人々はみずからの統治者たることができた。何人も彼らの主人となることができず、また主人となるべきでなかった。しかしこの夢は実現しなかった。この国の労働民衆は、資本が絶対君主と同様に厳しい支配者であることに気づいている」。

そして当時の代表的な運動家のジョージ・マクニールは、「賃金労働制度と共和主義的政治制度とは、根本的に対立している」と述べた。なぜなら賃金労働制度は、市民から自由と独立を奪うからである。このような観念こそ、当時の労働者の資本への抵抗の根底にあった観念であった。

 このように労働運動は、金権と腐敗が横行したこの時代にあって、道徳的批判者としても機能していた。このことは、労働者が資本主義的文化に対立する自律的文化を侍っていたことを意味する。モントゴメリーはそれを労働者階級の「集合主義的対抗文化」と呼んでいる。このような彼らの文化は、労働者が生きた二つの場、つまり地域社会と労働の現場に根ざしていた。アメリカ労働者のうちの多くが、移民とその二世であり、彼らが「階級縦断的ではあるが、すぐれて労働者階級的な」民族集団的コミュニティーを作りあげていたことについては、第四章で触れた。したがってここでは生産の場について考えてみよう。

職人的労働者の世界

職場を支配した熟練工たち

 ガットマンは、この急激な変化の時代にあっても、職人的な古い労働習慣が執拗に存続したことを指摘している。たとえば樽工場の場合、土曜日の午前中のまだ早いうちから、工場のわきにはビール樽を積んだ馬車がやって来た。仕事をそっちのけにして、樽工たちは一杯機嫌で逆さにした樽の周りに座りこみ、鋲をチップにポーカーをやった。そして土曜の夜は町をぶらつき、行きつけの居酒屋で友達と会った。通常、その愉快な時間は日曜日まで続いたから、いきおい月曜日は「ブルー・マンデー」となり、職場に出ても、仕事らしい仕事はできなかった。

 実際上「週四日の労働と三日の週末」という、このような労働とレジャーの混じりあった伝統的な労働習慣は、工場主を憤激させた。労働者は労働者のペースで働こうとしたのであり、迅速で規則的な労働を要求する工場主との間に、絶えざる緊張と抗争が生じた。

 モントゴメリーによると、熟練工たちは生産工程の実際的支配権を握っていた。彼が例示しているオハイオ州コロンバスの圧延工場の場合は、驚くに値する。一八七四年、会社がレールの圧延を契約した時、会社は労働者全体に対して支払うべきトン当たり賃金額について、組合代表と協議した。双方はトン当たり一ドル十三セントという賃金率について合意に達した。組合会議でこの賃金率が承認されると、労働者はこの金額を彼ら自身の間でどのように分配するかについて討議した。彼らはその職種ごとに取り分を主張した。その合計は一ドル十三セントをいくらか上回ったので、会議はその数字を注意深く改訂し、各職種の取り分を決定した。超過勤務や特別作業割り当ても同様にして、組合会議で決定された。そして労働者の採用や昇進は、指導的熟練工たる圧延工が支配していた。

 この場合、工場主は工場と機械を所有し、原料を買い、完成品を売り、組合との協議を通じて賃金総額を定めたが、生産工程、個別賃金額、労働者の採用や昇進は組合に結集した熟練工の手中にあったということになる。はたしてこのような事例がたくさん存在したのかどうかは分からない。しかし当時の生産の現場において、熟練工、または熟練工から上昇した職長が職場の支配者だったという点については、労務管理史研究者が広く認めるようになっているのである。

 そして労働組合が、職場におけるこのような支配権を維持・拡大するために展開した執拗な闘争こそ、熟練工の職能別組合を労働者階級運動の前衛たらしめたのだ、とモントゴメリーは主張するのである。

労働騎士団の台頭と敗退

 このような労働者を代表したのが「高貴にして神聖な労働の騎士たちの団体」、つまり労働騎士団だった。騎士団はすべての州の千五百にも及ぶ郡に支部を持ち、八六年にはメンバー数は七十三万人にも達した。

 騎士団はあらゆる労働者の連帯を原則とし、職種、熟練、人種、民族、性別の相違を乗り越えて、広く労働者を組織しようとした。その規約前文は、発展する富の攻撃を阻止しない限り、不可避的に労働者の窮乏化と転落が生じるとして、「生産的産業の全部門」を組織化すべきことをうたった。加入資格は「非生産者」、すなわち弁護士、銀行家、酒類業者、賭博師を除いて、働く者すべてに開かれ、理論的には雇い主であっても、額に汗して働いていれば、加入することができた。

 騎士団は、資本主義的賃金制度を容認することを拒否し、富を真の生産者たる労働者に享受させるために、さまざまな改革を要求したが、究極目標として掲げたのは、資本主義的賃金制度に代わって協同組合的産業制度を樹立することであった。

 モントゴメリーが指摘したように、当時の労働者は生産的労働を遂行し管理する組織的能力をもっていたから、ボスを排除した職場を作りさえすればよかった。これが生産協同組合であり、そのような仕組みが全土に普及すれば、資本の横暴はなくなり、世界は働く者の世界になると考えられた。こうして騎士団は労働者の尊厳と自律を回復し、社会そのものをもっと平等で、もっと人間的なものに変えようとしたのである。

 しかし騎士団にはさまざまな弱点があった。団長のテレンス・パウダリーをはじめとする指導部は、現実のストライキ闘争を嫌い、しばしば闘争にブレーキを掛けた。八六年の八時間労働実現のための全国的ゼネストにも指導部は反対した。また、労働者を職種や産業の区別なく組織するという支部の構造は、ストライキの展開には適していなかった。このため騎士団は絶頂に達した一八八六年以後、資本家側の反撃で敗北を喫し、一八九〇年にはメンバー数は十万となり、九〇年代のうちに事実上消滅してしまったのである。
(野村達朗著「フロンティアと摩天楼」講談社現代新書 p118-127)

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 アメリカの労働運動の第二の大きな部分をなしているのは、労働騎士団である。そして、これこそ運動の現状を最も典型的に示している部分であるように思われ、またそれは、疑いもなく断然最も強力な部分である。

膨大な結社が、無数の「寄合い」というかたちをとって広大な国土にひろがっていて、労働者階級の内部にあるいろんな色合いの個人的意見や地方的意見を代表している。

これらの寄合い全体は、それにふさわしいあいまいな綱領のもとに包括されていて、その実行不可能な規約によるよりは、むしろ自分たちの共通な願望を実現するための団結という事実そのものが自分たちをこの国の一大勢力にしている、という本能的な感情によって、結束を維持しているのである。

最も近代的な傾向に最も中世的な仮面をつけさせ、また最も民主的な、反逆的でさえある精神を、外見上の、だが実際には無力な専制主義のうしろに隠している真にアメリカ的な逆説──これがヨーロッパの観察者の日に映る労働騎士団の姿なのである。

しかし、もしもわれわれが、ほんの表面的な奇矯さにまどわされないならば、この巨大な混合体のうちに、緩慢ではあるが、確実に現実的な力に進化している膨大な潜勢的エネルギーを認めないわけにはいかない。

労働騎士団は、全体としてのアメリカの労働者階級によってつくりだされた最初の全国的組織である。

その起源と歴史がたとえどのようなものであろうと、またどんな欠陥やささいな不合理があろうと、その綱領や規約がどのようなものであろうと、労働騎士団は、事実上アメリカの全賃金労働者階級の事業として、彼らを結集し、彼らの力を彼らの敵にたいしても彼ら自身にたいしても感知させ、また将来の勝利という誇らかな希望で彼らの胸をふくらませているただ一つの全国的な紐帯として、そこに厳存している。

なぜなら、もしも、労働騎士団は発展する可能性をもっている、と言うとしたら、それは正確ではないであろうから。労働騎士団は、たえまない発展と革命の過程のまっただなかにある。それ自身の内的本性に適合する姿と形態とを探し求めて、沸きたち、発酵しつつある可塑材料の塊りである。この形態は、歴史の進化が、自然の進化同様それ自身の固有の法則をもっているのと同じくらい確実に、達成されるであろう。

そのとき労働騎士団が、その現在の名称をそのままたもとうとたもつまいと、それは重要なことではない。しかし局外者の目には、ここにあるものが、アメリカの労働者階級の運動の将来と、それとともに、アメリカ社会全体の将来とをかたちづくる原材料であるということは、明らかであるように思われる。
(エンゲルス著「アメリカの労働運動」M・E八巻選集G 大月書店 p94-95)

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◎「それ自身の内的本性に適合する姿と形態とを探し求めて、沸きたち、発酵しつつある可塑材料の塊り」「この形態は、歴史の進化が、自然の進化同様それ自身の固有の法則をもっているのと同じくらい確実に、達成される」と。