学習通信050928
◎アリストレテスは「価値」を発見できなかった……

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エンゲルスからカール・カウツキー(在チユーリヒ)ヘ
  ロンドン、八四年九月二〇日

〔……〕ロートベルトウスについての君の論文は、経済学にかんするかぎり、たいへんよく書けている。そのなかで僕がまたもや異議をとなえなければならないのは、君が確実な知識をもたないことを自分でも知っている問題で断定的な主張をしていることである。じっさい、そういう箇所では、君はシュラムに弱点を見せているし、シュラムはすかさずそれにつけこんでいる。

 これは、ことに「抽象」についての箇所にあてはまることである。とにかく、君は、あまりにも一般的に「抽象」をこきおろしすぎる。この場合、相違は次の点にあるのだ。

 マルクスは、事物や関係にそなわっている共通の内容を要約して、それの最も一般的な思考表現に還元する。だから、彼の抽象は、すでに事物にそなわっている内容を思考形態に再現するだけである。

 ロートベルトウスは、これに反して、そういう多少とも不完全な思考表現を自分でつくりだし、事物をこの概念で測る。事物は、この概念にしたがって自己を律しなければならないのである。彼は、事物や社会関係の真実の、永久的な内容をさがし求めているが、しかし、それらの事物や関係の内容は、本質的に一時的なものなのだ。

そこで、真の資本について語ることになる。これは現在の資本ではなく、現在の資本はこの概念の不完全な実現にすぎない。

現存の、ただひとつ現実に存在する資本から資本概念をみちびきだすのではなくて、彼は、今日の資本から真の資本に到達するために、孤立した人間をもちだしてきて、このような人間の生産においてなにがよく資本の役割を演じることができるか、という問いをだす。ほかでもない、たんなる生産手段がそれである。こうして、真の資本は無造作に生産手段と混同される。だが、生産手段は、事情しだいで資本となることも、ならないこともあるのだ。

こうして、あらゆる悪い性質、つまり、資本のあらゆる現実の性質が、資本から取りのぞかれる。いまや彼は、現実の資本がこの概念にしたがって自己を律するように、要求することができる。すなわち、それがたんなる社会的生産手段としてのみ機能するように、それを資本にしているいっさいのものを捨てさり、しかもなお資本であるように、それどころか、まさにそのことによってはじめて真の資本となるように、要求することができる。

 君は価値についてこれと同じことをやっている。

今日の価値は商品生産の価値であるが、商品生産が廃止されるとともに、価値もまた「変化する」と。つまり、価値そのものは残り、ただ形態を変える、というのだ。

だが、実際には、経済的価値は商品生産に固有なカテゴリーであり、商品生産とともに消滅するのであって、これは、商品生産以前に価値が存在しなかったのと同様である。

労働の労働生産物にたいする関係は、商品生産以前には価値という形態をとって現われなかったし、商品生産以後にはもはやそういう形態をとって現われることはない。
(M・E8巻選集G 大月書店 p216-217)

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 価値論のむずかしさについて

 『資本論』のなかでも、価値論というのはなかなかむずかしいところで、厳密な論理の鎧をきっちりとまとっていますから、この論理の堅さにはねつけられて、『資本論』は苦手だという人は多いのですが、その論理の筋道をよくつかむようにして読んでゆけば、固くて歯がたたない、というものではなくなるはずです。そして、その筋道をたどって読んでゆくと、マルクスがものごとをどういう順序で考えたのか、どのように分析をすすめてこの結論にいたったのかが分かって、楽しいものです。

 『資本論』は、たいへん綿密な論理、一分のスキも残さない論立てで、議論を展開していっているのが、大きな特徴です。ここまでくどくやらないでもと思うところもなきにしもあらず≠ナすが、価値論をはじめ、マルクスが『資本論』でとりあげているさまざまな問題は、どれも、それまでの経済学の世界で、無数の学者が多くの議論を展開し、挫折や混迷をくりかえしてきたものでした。だから、科学的社会主義の経済学がそこにがっちりと根をおろし、どんな相手にも負けない確固とした地位を確立するためには、こういう厳密な形で議論を組み立ててゆくことが、必要だったのです。

 市場経済というのは、人間社会の歴史ではずいぶん以前から登場しており、『資本論』では、商品交換の歴史を、はるか古代、いや原始時代の共同体同士の交換関係にまでさかのぼって追跡しています。

日本でも、縄文時代の遺跡にすでに、他の地方と生産物の交換がおこなわれていたらしい形跡が見つかっていますから、商品交換というのは、おそらく数千年あるいはそれ以上の単位ではかられる歴史をもっています。

しかし、それだけ長い歴史をもっていながら、商品経済を支配する法則、価値法則というものに、人間が気づきはじめるのは、後代、資本主義の時代に入ってからです。それには、理由があります。

 たとえば、ギリシアの大学者だったアリストテレスは、商品交換に注目して交換関係の分析をやったのですが、「価値」の発見にはいたりませんでした。なぜ、アリストレテスは「価値」を発見できなかったのか? マルクスがやっているその解説が面白いのです。

マルクスは、「価値」概念に到達するためには、どんな人間の労働も、社会的な労働として、平等の性質をもっている、という認識が必要になるのだが、奴隷制度の時代のギリシアでは、いくらアリストテレスのような天才でも、人間の労働力の平等という認識には、到達できなかったのだ、というのです。

だから、人間は、何百年、何千年と商品交換をやってきたが、その本性を理解できる道は、資本主義の時代になってはじめて開けてきたのであって、それだけの歴史が、価値法則の発見にも刻みこまれているわけです。
(不破哲三著「科学的社会主義を学ぶ」新日本出版社 p86-87)

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◎「経済的価値は商品生産に固有なカテゴリーであり、商品生産とともに消滅するのであって、これは、商品生産以前に価値が存在しなかったのと同様である」と。