学習通信050930
◎女性をその幸せ恐怖症の……

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男は男らしく、女は女らしく

 二〇〇五年六月五日、中山成彬文部科学大臣は宮崎県西都市で開かれた教育関連のフォーラムに出席し、「教育の世界においてもジェンダーフリー教育だとか過激な性教育とかがはびこっている。日本をダメにしたいかのようなグループがある」と発言した。その後、「私たちはこれからの日本で生きていく子どもたちを素直に育てたい。できれば世の中のために貢献できるようになってほしいと思っています」と続けたところを見ると、ジェンダーフリー教育、すなわち文化的・社会的に形成された性差の解消を目指す教育が、素直でもなく世の中にも貢献しない子どもを育てる、と言いたいのだろうか。

 心理学者の林道義氏によると、ジェンダーフリー教育の影響はさらに深刻なようだ。『日本の論点二〇〇三──せとぎわの選択』(文藝春秋編、文春ムック、二〇〇二年)に寄せた「性差否定(ジェンダーフリー)教育はなぜ悪いか 性差は人類の文化的財産──男女まぜこぜ主義は自我の形成を阻害する」と題した文章によると、「このままジェンダーフリー教育が広まると、五年後十年後には青少年の心の病が急増する恐れがある」というのだ。心の専門家に「病気が増える」と言われて不安にならない人はいないだろう。

 繰り返しになるが、ジェンダーとは「文化的・社会的に形成された性差」のことであって、「生物学的な性差」のことではない。林氏の主張によると、実はこれまでジェンダーと考えられていた「男らしさ・女らしさ」も実は「社会的・文化的にのみ作られたものではなく、生まれつきの遺伝を基礎にしていることは、いまや脳科学によって充分に証明されている」ということだ。

 本当にそれが証明された科学的事実なのかどうかはさておき、もしそういう要素があるのだとしたら、それを「生物学的な性差」に新たに組み込めばいいだけの話ではないか。それでもなお「文化的・社会的性差」は残るはずで、それを解消しようというのがジェンダーフリー教育なのではないだろうか。何も、科学で「生物学的性差だ」と証明されたものまでを、「いや、これは後天的に形成された文化的性差だ、だから認めるわけにはいかない」と否定するのがジェンダーフリーではないはずだ。

それとも、ジェンダーフリー教育を否定する人たちは、すべての「男らしさ・女らしさ」は生物学的に決定されていることであり、少しでもそれを解消させる方向に動くのは間違いなのだ、と本気で信じているのだろうか。先の文章の中で「生まれつきの男らしさ・女らしさを自由に出すことが妨げられると、心は不当なストレスにさらされる。男女の違いを否定する教育は、子供たちの心に不自然なひずみを与える危険な暴挙と言わざるをえない」と述べている林氏は、もしかするとそう思っているのかもしれない。

 では、「ジェンダーによる区別を重視する教育」(ややおかしな言い方だが、以下「ジェンダー重視教育」とする)が実現されたとして、次のような例はどうなるのだろう。すべての女性が生まれ持った「女らしさ」を、男性が「男らしさ」を自由に発現できればたしかにストレスはないかもしれないが、女性なのにいわゆる「男らしさ」と考えられる性質を発現したくなる人もいるだろう。「ジェンダー重視教育」では、そういうケースはどう扱うのだろうか。

科学的にも女性が女らしくなるのは自然、だとするならば、女性なのに「女らしさ」をなかなか発露できない人は、「生物学的に異常」と決めつけられるのではないか。もしくは、無理に「あなたは女性なのだから、女らしいはずです」と鋳型にはめようとするのではないか。そうだとしたら、それこそ「心は不当なストレスにさらされる」。それとも、「いやいや、ストレスを避けて何事も自然に、というのがジェンダー重視教育なのですから、「男らしい」女性がいたとしてもそれはそれでいいんです」と寛大に扱ってくれるのか。そうは思えない。

 ベストセラーとなった『女は男のどこを見ているか』(ちくま新書、二〇〇二年)など、動物行動学者・岩月謙司氏の一連の男女関係論で、前提となっているのは「男らしさ、女らしさは生まれつき」という主張だ。「男らしさの原点は、知恵と勇気。それを身につけるために必要なのが「英雄体験」」、「母親の嫉妬を受けて育てられた女性は、持って生まれた女性らしさを発揮することができない。

女性をその幸せ恐怖症の状態から救い出せるのが、男らしい男性」といった解説に、納得し励まされた若い男女も多いと聞く。とはいえ、「こういった助言を必要としている男女が確かにいる」ということと、だからすべての男女にとって「男らしさ・女らしさは生まれつき」というのとは、やはり違うことなのではないだろうか。

 これまたベストセラーになった三砂ちづる氏の『オニババ化する女たち』(光文社新書、ニ○○四年)には、ジェンダー以前の問題、つまり女性は自らの生物学的「性」をもっと大切にせよ、というメッセージにあふれている。というより、「女性が仕事だなんだと独身のまま、出産もせずに子宮を。空き家≠ノしたままでいると、将来はホルモンのバランスが崩れてオニババになりますよ」という脅しに近い。

ジェンダーに悩む前に、まず本能や身体に従って生きよ、ということだ。この本でも、いくら「身体が発する声」に耳を傾けようと試みても、そんな声などいっこうに聞こえてこないタイプの女性たち(ちなみに私もそうだ)への配慮や、妊娠、出産がさまざまな要因でかなわない女性たちへの気遣いは、まったくといってよいほどない。

 ジェンダーフリー教育や男女共同参画社会に疑問を呈する人たちは、そうした考えを「男らしさ・女らしさをいっさい排除しようとする極端な思想だ」と指摘しておきながら、自分たちも「すべての男は男らしく、すべての女は女らしく」、「それは誰にとっても生まれつき決定されていることなのだ」と極論に走るのはなぜなのだろう。

 「まあ、男らしい男、男らしいけど女、その中間の人……いろいろなタイプがいていいんじゃない」という「多様な性」のあり方を認める主張が七〇年代からハ○年代にかけて広がり、哲学者ドゥルーズと精神分析学者ガタリの「ひとつでもふたつでもなくn個の性」ということばが日本でも流行語となったこともあった。そういうルーズな性差、段階的な性差、という発想もバブル前夜のお祭り騒ぎの中でのジョークにすぎなかったのだろうか。

 いずれにしても、いくら「ジェンダー重視教育」を主張する人たちが声をあげても、少子化社会で女性の労働力はますます重要なものとなり、女性の社会進出は今とは形を変えることはあってもストッブすることはないだろう。そうなると、一方で「女は女らしく」と言いながら、他方で「女性もどんどん働いて」と勧める教育を施さなければならなくなる。それこそ、心理学の世界では「ダブル・バインド」と呼ばれるもっともストレス度の高い状態だと思うのだが、そのあたりは心理学者や動物行動学者たちはどう考えているのだろう。
(香山リカ著「いまどきの「常識」岩波新書 p62-67)

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しなやかに、そしてしたたかに

 女性解放が謳われてから数十年を経、女性自身にも自覚が広がり、社会のさまざまな場面で、女性が本来もてる力を着実に発揮しつつある現在でもなお、客観的状況は、社会的に見ても、個人のレベルで見ても、女性にとって想像以上に不利であり、いわれなく不当である。女であるがゆえに経験しなければならない障害、差別、困難、屈辱は、真摯に生きようとすればするほど、大きく深く、時に歯ぎしりしたいばかりに、時に涙がこぼれるばかりに、腹立たしくもどかしい。この困難を、障害を、いかに克服していくかが、過渡期に生きるわれわれ女性に与えられた課題であろう。立ち向かうべき困難は、ひとりひとりの努力である程度処理できる類のものと、その域をはるかに越えたものがある。

 前者に属するものの多くは、一歩さがって視点を変えるだけで、ずいぶん気楽に対処できるのではないだろうか。物事は表から見るのと裏から見るのとでは、まったく様相が異なってくる。人の性格ひとつにしても、同じ個性が長所と短所という諸刃の剣になる例は枚挙にいとまがない。短所を磨いて長所に転ずるごとく、与えられた境遇を変える努力も可能である。

 私の経験から言うと、出産・育児から失ったものは何ひとつなく、得たものは無限であった。子どもがいたために人間的にも成長できたし、研究者としても、それまでより余裕のある、豊かで視野の広い物の見方ができるようになった。研究に投入できる絶対的な時間は当然少なくなったが、これもマイナスにはならなかった。パーキンソンの法則を身をもって具現することができた。

忙しければ忙しいほど、それに見合っただけ、時間の無駄を省き、密度の高い時間の使い方ができるものである。もちろんこれは、目的意識のないところでは不可能である。ほとばしるまでにやりたい何かがあってはじめて、時間のやりくりの知恵も働くのである。障害や困難を逆手にとって、むしろ前進への足がかりに変えていくには、気概と同時に、自分の人生をちょっと斜目に見る心の余裕も必要であろう。

 女性の自由な活動を阻んでいるいまひとつの伏兵は、内なる敵である。女はかくあるべし、こういう仕事は女に向かない、という類の、女性自身のなかに植えつけられた潜在的先入観がそれである。これは、じわじわと、かつ何世代にもわたって根強く叩き込まれてきたものであるだけに、面倒な代物である。自分の手で自分の可能性に限界を引いてしまう結果になりかねない。能力も体力も、女が男に劣ることは何もない。

物理学を専攻していて、女は理科系に弱いという神話が何にもとづくものか理解に苦しんでいる。発想の原点で自分に枠をはめてしまっては、そのあとの努力が無駄になる。地平線ははるか彼方にあること、そしてそのむこうにもまだ世界のあることを忘れないでいよう。

 個人の努力だけではいかんともしがたい問題は山とある。道は遠い。しかし文字通り、千里の道も一歩ずつ踏んでいくしか手はないのである。ひとりひとりの女性が、それぞれの場で、一歩でも二歩でも前に進めてゆくことが全体の前進につながることを自覚していよう。われわれはいま、着実な歩みを随所で見られるようになった。目をつり上げ、片意地はり、悲愉感に駆られて生きる必要はない。のびやかに、しなやかに、そして、しっかりしたたかに歩いていこうではないか。
(米沢富美子著「人生は夢へのチャレンジ」新日本出版社 p86-88)

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◎「ほとばしるまでにやりたい何かがあってはじめて、時間のやりくりの知恵も働くのである」と。