学習通信051004
◎出来合いの生活ではみられない……

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 一九三六年
 八月二十二日
  市ヶ谷刑務所の顕治より林町の百合子宛

 この手紙を書こうと思って、今ユリからの最近の手紙、ハガキなどを読み返してみたところだ。この前の手紙から、こちらに葉書二枚と手紙は第五信まで届いているわけ。それにしても合計三十枚近い分への返事を、この一枚にまとめること、また難しいかなだな。まあぼつぼつく書いてゆこう。

 ユリは相変らず生活に屈託しないでいろんなプランや観察を豊富に示している。僕は円いユリが暑さにうだりながら、あちらこちらへ机を運んだり、時にはコブシも握ったりする光景を想像すると笑い出したくなる。と同時に僕がいろいろ手紙でユリの生活について書いてきたことも、やはり必要なものとなっていることも感じられる。新しい環境で絶えず一貫するトーンの生活にいると、そちらの生活の調子の上下もなかなか鮮かに感じられるという工合だ。

 ユリは最近の手紙で、我々の生活で一番大切なのは何かという自問をしていたね。こういう根本的なことも今まで自明のこととして書く必要も認めなかったのだが、この前の手紙で少し自分のことを書いたのに対してのユリの返事をみると、やはり時折はふれることも無駄ではないらしい。

で一番大切なのは、我々は何のために生活しているのだということをいつもはっきりさせていること──これだね。

僕はただ単にユリが主観的によろこぶことだけに、或はただ楽であることだけに、ユリの生命の本質的発展があるのではないことをよく知っているし、又ユリも無論そのように考えるからこそ我々の生活の統一的発展があるのだね。

ヘーゲルの本を読んでいたら愛情は生命の二重化だという風な言葉をみつけた。これは意義深い理解の仕方だ。彼流にいえば、今一つの生命を、自己の生命の他出として感ずるからこそ、その生命の発展については自己に対すると同じくきびしい関心が求められるのだ。そしていつも高まり合う、そこに愛情の統一的発展の土台がある。

あの白藤の花のこと、覚えているとも。僕はここで小さな鉢を手にすると、あの房々とした、豊かな花の形を思い出していた。ユリは第一信で充実した生命の美しさは、出来合いの生活ではみられないと云っていたね。この言葉の底を貫いて生きる限り正しい幸福は常にみち溢れている。

 林町の家のこと、どういう工合か具体的には知らないのだが、ユリを通じての感情からみんな親身の感じが深い人たちだ。僕は皆ができるだけ合理的に幸福であることを心からう。反歴史的な不自然の摩擦を除く限り、必ずそうであり得るわけだからね。

「事情を改善する」努力に疲れるとあったが、一体どうなのだろう。お父さんの事業の性質と、若い時代のことなど少し考えてみた。合理的な解決の仕方は必ずあると思う。僕は失うものは借金だけだという環境でいろいろ経験してきたので、ユリよりは少し先輩だろうと思うがね。なるほど、複雑な困難な現実はある。が恐しい動きのとれない現実なんかあり得ないからね。

 書くのは、仕上ったかね。一人の巨人が歿すると、数々の讃歌がとどく。これは無論当然の哀悼の歌だ。同時に科学的な観察を含んだものである限り、混雑した一時代を巨人はどうして歩み抜けたか。これを評価するのも実に意義深いね。ユリはどう書いたろう。

 だいぶ涼しい。ユリも悦び能率も上るだろう。僕も涼しいと楽だ。いろいろのこと、次々に少し書こう。
 円いダイナモが元気で動くように。
(宮本顕治・宮本百合子「十二年の手紙 上」筑摩書房 p38-39)

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夫婦

年をとって半身きかなくなった父が
それでも、母に手をひかれれば
まるで四つん這いに近い恰好で歩くことができる。あのひきずるような草履の音は
まだ町が明けやらぬころから
泣いたり、わめいたり、甘えたりしながら
母にすがって歩き廻る、父の足音だ。

もう絶対に立ち直ることのない
いのちのかたむきを
こごめた背中でやっと支え
けれど、まだすさまじい何ものかへの執着が
父をいらだたせ、母の手をさぐらせている。

あの足音
ずる、ずる、とひきずる草履の音。

自分たちが少しでも安楽に生きながらえるため
一生かかって貯めたわずかな金を大事にしている
そして父は、もう見得も外聞もかまわず
粗末な身なりで歩く
道ですれ違えば
これが親か、と思うような姿で。

その父と並んで
義母も町を歩いている。
買物袋を片手に、父の手をひき
父の速度にあわせて、母は歩くのだ、。
人が振り返ろうと心にもとめず
まるでふたりだけの行く道であるかのように。

夫婦というものの
ああ、何と顔をそむけたくなるうとましさ
愛というものの
なんと、たとえようもない醜悪さ。

この不可思議な愛の成就のために
この父と義母のために
娘の私は今日も働きに出る、
乏しい糧を得るために働きに出る。

ずるずるっ、と地を曳くような
地にすべりこむような
あの、父の草履の音
あの不可解な生への執着、
あの執着の中から私は生まれてきたのか。やせて、荒れはてた母の手を
ただひとつの希望のように握りしめて
歩きまわる父、
あのかさねられた手の中にあるものに
また、私もつながれ
ひきずられてゆくのか。
(「石垣りん詩集」思潮社 p46-47)

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◎「僕はただ単にユリが主観的によろこぶことだけに、或はただ楽であることだけに、ユリの生命の本質的発展があるのではないことをよく知っているし、又ユリも無論そのように考えるからこそ我々の生活の統一的発展があるのだ」と。

……あなたの恋愛論、夫婦論は如何でしょう。